墾田永年私財法とは?政策の内容・歴史的意味をわかりやすく解説(荘園化へ)

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奈良時代の土地・農業政策の柱としては、歴史用語としてもおなじみの「班田収授法」・「三世一身法」等がありますが、なんといっても大きな歴史的意味を持つ存在としては、奈良時代の半ばに制定された「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」があります。

こちらでは、墾田永年私財法の内容について、その目的・結果・歴史的意味(影響)について、なるべく簡単に・わかりやすく解説していきたいと思います。

開墾促進のため「土地私有を永久に認める」

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、奈良時代の中盤にあたる743年(天平15年)6月23日に、聖武天皇の詔(みことのり)として公布された法律です。

この法律は、簡単に言えば「水田(農地)」を新しく開墾(開発)するために、一般の庶民等に対してその「動機付け(インセンティブ)」としてもらうために制定された法であり、土地・農業政策の一環として実施されました。

開墾してもらうための「動機付け」としては、20年程前の「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」で、全て自分で開墾したら、家族3代までは自分たちの私有地としてよい。というルールが既にありましたが、どうやらそれがしっかり機能しないため、新しい墾田永年私財法を制定することになったのです。

法律の内容は、ざっくりと言えば以下のような内容です。

三世一身の法では、3代といった期限が来たら朝廷の土地として私有権が取り上げられていたが、これでは意欲を無くし怠けてしまう人が出た。

これからは、そのような事態を防ぐために「自分で開墾」したら、永久に「自分の家のもの」としてよい。

但し、開墾する場合にはまずその場所等について朝廷に申告すること。

要するに、自分の力で切り開いた水田(農地)は、ずっと自分たちのものにしていいよ。というシンプルな内容なのです。

なお、制定当初から一定の期間は、各人の「位階」に基づいて、開墾してよい面積に一定の制約があったともされています。

道鏡の時代には一時中断も

完全な土地の私有を認めることになった「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」。

これまでの開墾を促進する政策とは異なり、途中で土地を取り上げられたりするリスクも無くなった事で、一般的には「開墾」の促進に一定程度効果があったと考えられています。

実際に、一定の効果の結果開墾が進んだため、765年(天平神護元年3月31日)墾田私有を禁止する「加墾禁止令」が発出され、寺院勢力など一部を除き、これ以上の開墾・私有を行う事は禁じられることになりました。

なお、この加墾禁止令が示された際には、称徳天皇の庇護を受けた有名な僧侶「道鏡」が実権を握る時代であり、この禁止令は「寺院」は例外であることから、単に開墾を抑制するだけでなく、既存の仏教勢力の権益を広げるための手段であったと推測する事も可能です。

それを裏付けるかのごとく、加墾禁止令は道鏡が失脚した後、772年(宝亀3年)11月13日には廃止され、墾田永年私財法が復活しています。

いずれにせよ、奈良時代を通して一定の開墾が進んだ事は間違いありません。

しかし、奈良時代の初頭に示された「百万町歩開墾計画」のスローガンのごとく、突如として既存の水田・農地が倍になるようなことは流石にありませんでした。

墾田永年私財法は、極端な効果や爆発的な農業生産拡大には寄与しなかったとは言え、一定程度機能したという意味では、骨抜きになったり見かけ倒しになった政策も多い奈良時代の中では「それなりに機能した」実務的な・現実的な制度であったとは言えるでしょう。

歴史的意味・影響

「一度自分で開墾した水田(農地)は、永久に自分たちのものにしていい」という土地の私有・財産権を認めた墾田永年私財法。

この法律は、新たな水田を一定程度開墾するという政策が目指した目的もある程度達成された事も確かでしょうが、後世へとつながる歴史的意味・歴史的影響としてみると、「有力者(貴族・寺院等)」がその地位を活かして土地を開墾し、自分たちの勢力を広げていく結果につながりました。

そもそも、財産もなにもない一庶民が、「灌漑設備(水路やため池など)」も含んだ水田を自分たちだけで整備するのは、少し非現実的な側面があります。そこで大きな役割を果たしたのが、それなりの財力とマンパワーを率いる権力を持つ各貴族や各寺社といった「有力者」なのです。

これはいわゆる歴史用語で言う所の「荘園」の成立というものであり、墾田永年私財法を契機に広がっていった荘園は「初期荘園」と呼ばれています。

奈良時代は土地や人民は朝廷・天皇に属するという「公地公民」の原則が基本でしたが、荘園の成立によって次第にその仕組みは揺らいでいきます。朝廷による中央集権的な「律令制度(政治)」の基盤は、墾田永年私財法に伴う荘園の成立によって、特に平安時代以降急速に薄れていく事になるのです。

なお、この荘園は、土地は各有力者の私有財産ではありますが、「輸租田(ゆそでん)」として、土地ごとに税金にあたる「租」を朝廷に納める必要がありました。

いわゆる古代の税金「租庸調」というものは、朝廷による中央集権的な「律令体制(律・令と呼ばれる法で国全体を治める)」の枠組みの根幹を成す制度ですので、「初期荘園」と呼ばれているような時代については、まだ完全には朝廷の支配・律令制度の枠組みからは外れてはいなかった点も押さえておかなくてはなりません。

まとめ

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、奈良時代の中頃に聖武天皇により公布された法律です。

この法律では、水田を自分で開墾した場合、その私有(所有)を「永久」に認めるという内容が示されました。なお、これまでにも水田を開墾させる「動機付け」とするための「三世一身法」がありましたが、こちらでは「3代まで」に限定されていました。

この政策の実施により、水田面積の増加(開墾)には一定の効果があったと考えられています。なお、奈良時代の中では、途中で有名な僧侶「道鏡」が実権を持つ時代には「加墾禁止令」により一時的に開墾が中止されていましたが、道教失脚後は開墾が再度認められました。

歴史的意味としては、永久に所有する事が認められたため、寺社や貴族といった「有力者」が土地を開墾し、その勢力を拡大する流れが生まれ、いわゆる「荘園(初期荘園)」の成立をもたらしました。直ちに社会の仕組みが一変する事はなかったものの、墾田永年私財法は「公地公民・律令制度」といった奈良時代の原則論を、次第に骨抜きにしていく効果を持った事には違いありません。