三世一身法とは?その政策の内容をシンプルに解説(奈良時代の土地政策の転換)

基礎知識・お役立ち情報

奈良時代の歴史用語として学校などで勉強するキーワードには、様々なものがありますが、重要なキーワードの一つとしては、農業・土地政策の一環として定められた「三世一身法」というものがあります。

こちらのページでは、三世一身法について、その政策の内容や実施後の状況、その後の歴史に与えた影響などをなるべくシンプルに・わかりやすく解説していきたいと思います。

「限定的な土地私有」を認めた三世一身法

三世一身法(さんぜいっしんのほう)は、奈良時代の前期にあたる723年(養老7年)5月25日に公布された決まりです。当時の天皇は元正天皇、政治の実権を握る右大臣は長屋王の時代でした。

当時は「律・令」と呼ばれる法で国家・社会を治める「律令制度」の時代であり、この三世一身法は「律」と呼ばれる法の詳細を規定する「格」と呼ばれる法律の一部として施行されました。

その内容は、非常にざっくりと示せば以下の通りとなります。

水路やため池等の「灌漑施設」を新しく建設して水田の開墾を行った場合は、開墾者の血筋の3代目(本人・子・孫)の世代までは、その土地を自分のものとして私有(所有)する事を認める。

・既存の灌漑施設を利用した上で、新しい水田を開墾した場合は、その開墾した本人に限り私有を認める。

大まかにはこのような内容の法となっています。

この法律は、前年に制定された壮大な水田開発計画である百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)に効果を持たせる事等の目的で、人々が水田(農地)を開墾する「動機付け」として定められたものです。

また、これまでは朝廷の持ち物である「口分田」を、庶民に貸し出す形で農業生産が行われて来ましたが、次第に口分田が不足するようになったことから、このような「私有」を認める法の制定に至ったともされています。

土地の利用は進んだのか?

土地の開墾(水田)を促進するために、これまでとは異なり土地の「私有」を認めた三世一身法(さんぜいっしんのほう)。

この施策によって、各地の開墾にどの程度の進捗が見られたかは、必ずしも事細かな歴史史料が残されているとは言えません。

一般的には、多少なりとも開墾を促進する効果はあったものの、大きな動機付けとしては長続きするものではなかったと考えられています。

百万町歩開墾計画では極めて広大な面積を開墾するスローガンが掲げられましたが、三世一身法で「百万町」の新しい田んぼが出来たかと言えば到底そのような事はなく、大まかに言えば「ちょっと増えたかな」くらいの実情だったと考えるのが無難でしょう。

そもそも、この法で認められたのは、全て新規の設備として水田を開墾した場合で3代、灌漑施設を改修・流用した場合はその開墾者限りという限定的な「私有」です。

今のように、70~80代の高齢者が農業を担うような時代とは言えない奈良時代は、寿命も一般に短命で「3代」と言っても現代のように100年単位の家族史というよりは、もっと短い期間であったと考えるのが妥当です。

そのような限定的な状況では、「どうせ3代限りだし」と言ったような形で開墾への意欲は衰えていく事も考えられます。

結果、三世一身法では十分な成果が得られなかったと考えた朝廷により、「世代縛り」を無くし、永久に私有する事が出来る内容を定めた「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」が制定され、土地私有の度合いは更に強化される事になりました。

もっとも、三世一身法から墾田永年私財法の制定までは約20年程しかなく、いくら何でも「3代」の全員が寿命を迎えると考えるには短すぎる期間とも言えますので、もしかすると別の意図もあったのかもしれませんが、いずれにせよ、奈良時代を通して土地私有のうねりは着実に強化されて行く事になったのです。

歴史的意味合い

後年に墾田永年私財法が制定されるまでの20年程度機能していた三世一身法。

この法の歴史的な意義・意味合いとしては、なんといっても「土地私有」に関する制度が具体化された事が挙げられます。

飛鳥時代の大化の改新以降、奈良時代についても基本的に律令制度の発展に応じて、土地と人民(国民)は天皇に帰属する。という「公地公民制」の原則が基本であったとされてきました(公地公民については、様々な学説や議論があります)。

そんな中で、開墾への動機づけ(インセンティブ)として、自分たちで3代限りとは言え「土地を私有(所有)」する事を認めた三世一身法は、そのような公地公民の原則論とは異なるものと言えます。

一時的な私有ではあっても、朝廷からの「班田収授法」に基づく口分田とは異なり「貸し出されている」のではなく「持っている」訳ですから、これまでの建前とは違った社会制度となっている訳なのです。

もっとも、実際の所は当時の朝廷が三世一身法をもって政策の大転換を図ったという訳ではなかった(単にこれまでの律令制度では補えない部分を補足しようとしただけ)ようですが、後年の「墾田永年私財法」の施行後は朝廷の権力からは切り離された「荘園」勢力が拡大し律令制度が骨抜きにされていく等、明らかに社会構造が変化していった事は事実です。

三世一身法はその先駆けとして、結果として律令制度に基づく社会から平安時代以降の王朝国家への変化をもたらす起点になった事は、本格的な変化はまだまだ先(三世一身法は奈良時代前期・律令政治の象徴とも言える聖武天皇より前の時代)とは言え、全否定はできません。

まとめ

三世一身法(さんぜいっしんのほう)は、奈良時代の前期にあたる723年(養老7年)5月25日に公布された法(律令制度の中における「格」)です。

内容は簡単に言えば、自分で灌漑施設も含めて水田を開墾した場合、家族3代までは「自分のもの」として私有(所有)してよい。灌漑施設を流用した場合は1代限り私有してよい。という「水田の私有」を許可するものでした。

当時は水田開発計画である百万町歩開墾計画や、班田収授法により朝廷から割り当てられる「口分田」の不足といった事情があり、三世一身法では「水田開墾」の「動機付け」として「私有可」というインセンティブが付与された訳です。

法の制定で直後は一定程度の開墾は進んだとは推測されますが、広大な面積を新たに開墾する程の成果はなかったようで、約20年後には「永遠に私有を許可」する墾田永年私財法が制定されました。

三世一身法は、人民と土地を天皇・朝廷の傘下に置く「公地公民」の原則からは異なる「私有」の概念を打ち出し、長期的な歴史で見ると、平安時代以降の土地制度の変化・律令制度の終焉への道筋をたどる起点となったと言えるでしょう。もっとも、奈良時代の間はこれにより律令制度が大きく揺らぐ所までは行きませんでした。