古代日本の税「租庸調・雑徭」とは?その内容・仕組みを解説 | 奈良まちあるき風景紀行

古代日本の税「租庸調・雑徭」とは?その内容・仕組みを解説

奈良の歴史解説

こちらでは、古代日本における「税」制度、すなわち「租庸調」と「雑徭」について、その内容や仕組みについて解説していきます。

税制の基本

古代日本、いわゆる「律令国家」と呼ばれていた奈良時代から平安時代の前半頃にかけての日本は、朝廷・天皇を中心に国家全体を支配するという中央集権的な仕組みが造られました。

当時の国家は中国の唐に倣い「律」と「令」と呼ばれる法令に基づき、国全体を各個人、また各家族(戸)単位で管理し、税制もそのような枠組みの中で、基本的には各個人や各戸(の耕作する田んぼ)単位で税が賦課されました。

歴史用語としては大抵の方が耳にしたことがある「租庸調」。これは何かと言えば、租・庸・調と呼ばれるそれぞれの項目に応じ、基本的に「モノ」を国・都に納めるという形が基本の税制です。後述するように一部はお金で納める事も可能でした。

また、この他には実際に土木工事などの「労役」として労働力を提供する形の「雑徭(ぞうよう)」と呼ばれる租税の仕組みもありました(この他兵役や仕丁といった制度もあり)。

要するに、「物納」と「労役」の2種類の租税制度によって成り立っていた訳なのです。

租とは

物納が基本の「租庸調」のうち「租(そ)」と呼ばれるものは、簡単に言えば「田んぼ」の収穫から一部を国に納めるという制度です。

庸と調が「人頭税」的な性質を持つのに対し、こちらは個人単位ではなく「田」の面積に応じた地税としての性質を持っていました。

具体的には、田1段(反)につき2束2把の米(概ね良作時の総収穫量に対する3%~10%程度)を、原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入することが定められました。

収穫量に対する比率からすると、一見そこまで厳しい税には見えませんが、実際の所は基準通りに生産できるケースばかりではなく、天候不順や土地の肥沃度等の問題によって、「2束2把」等到底納入できない場合もありました。

また、稲作には「種籾」から育てる必要がありますが、この種籾が確保できない場合はそもそも栽培できないため、国などが農民に貸し付けて栽培される「出挙(すいこ)」が広く行われました。この場合の利率は5割という極めて高い数字であり、むしろこちらの方が「儲かる」ということで、結果としては困窮した農民からはこの「出挙」によって一層搾取が行われるという構図も生まれ、農民が耕作を放棄して逃亡するようなこともあったようです。

もっとも、出挙が主要な財源となる中でも租の制度が廃止された訳ではなく、賦役令の水旱条においては収穫が十分でない場合の免除規定が設けられる等、一定の救済措置も一応は存在したようです。

租や出挙の利子として納められた米は、各地域の「国衙」の財源となる部分が大半ですが、都に毎年納められる「年料舂米」として、また非常時以外は一切利用できない「不動穀」として貯蔵されたものもありました。

庸とは

「租庸調」のうち、「庸」と呼ばれるものは、正丁(21歳~60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課されたもので、人頭税の性質を持つものです。

こちらは雑徭のように本来は「労役」という形式を取るとされてきましたが、実際の所は労役の代わりに「布」や「米」や「塩」といった地域の産物を納める形で「物納」する事も可能でした。

大化の改新後の「改新の詔」では、1戸あたり庸布1丈2尺・庸米5斗を徴収する規定が設けられ、この規定が以降も使用されたものと推定されています。

なお、庸の納入は平城京・平安京に近い畿内地域では免除されていました。これは、都の近くに住む人は遠隔地の住民と比べ、頻繁に土木工事等に徴用されて労役を行うケースが多かったことによるもので、労役を行う可能性がある人に庸の「納税」を更に強いることは負担が大きいことが考慮されたものと推定されます。また、「飛騨工」と呼ばれる工匠を派遣していた飛騨地域も免除の取り扱いでした。

庸は、都を守る衛士の食糧や衣服、また土木工事等の雇役民への賃金・食糧に用いる財源として活用されました。

調とは

「租庸調」のうち「調」は、正丁・次丁・中男(17歳~20歳の男性)へ賦課されたもので、やはり人頭税としての性質を持つものでした。

調については基本的に布(繊維製品)の納入(正調)が原則とされていましたが、実際には調副物と呼ばれる各地域の特産品や、調銭と呼ばれる金銭による現金納付も可能であり、税として幅のある制度でした。

「正調」については、絹を納める「調絹(ちょうきぬ)」と布を納める「調布(ちょうふ)」の2種類が基本でした。大宝律令・養老律令の時代においては、当初調絹は長さ5丈1尺・広さ2尺2寸=1疋(1反)=正丁6名分の調に換算、調布は長さ5丈2尺・広さ2尺4寸=1端(1反)=正丁2名分の調と規定する取り決めがあり、高価な絹の場合は量が少なくなっていることが伺えます。

なお、調副物として指定される特産品は各国ごとに設定があり、鉄製品や海産物、油や薬用品、塗料等多岐に渡りました。

また、和同開珎発行以降、都に近い畿内の地域では貨幣流通を促進しようとしてきた事から、畿内においては調銭による現金納付の比率が高かったとされています。また、畿内では納入額が軽減されていたり、庸と同じく「飛騨工」と呼ばれる工匠を派遣していた飛騨地域は免除の取り扱いでした。

財源としては、主に都における官人の給与(位禄・季禄)として活用されました。

雑徭とは

租庸調とは異なり、労役として肉体労働等への従事を行う「雑徭(ぞうよう・ざつよう)」は、地方の国司らが徴用して庶民に農業用水の確保等の土木工事や国衙(地方の役所)の整備、すなわち公共事業等を行わせるという租税の仕組みでした。

労役の期間としては、当初は正丁(21歳~60歳の男性)が年間60日以下・次丁(正丁の障害者及び老丁=61歳以上の男性)が年間30日以下・中男(17~20歳の男性)が年間15日以下を限度とされました。

一方で、757年には負担が大きいことから雑徭を半減する格が出され、藤原仲麻呂の死後(恵美押勝の乱の後)には元に戻され、平安時代に入ってからの796年には再度半減される等、制度は紆余曲折を経ています。

雑徭の特徴としては、あくまでも食料や移動といった部分へ掛かるコストは「自己負担(自腹)」する必要があった点であり、元々生活基盤がぜい弱な地方の庶民にとってはそれだけでも厳しいものがありました。

なお、各戸ごとに1人(若者の3~4人に1人)程度が徴用される「兵役」、50戸ごと2名が徴用される「仕丁」といった労役もありました。兵役については庸や調は免除されますが、食糧などはやはり自己負担が原則であったようです。

制度の歴史

租庸調・雑徭といった租税の仕組みは、歴史としてみると、飛鳥時代の終わり頃に律令制度がはっきりと成立するに従って導入が進み、奈良時代には本格化したものと考えられています。

体系的なものとしては、689年に公布された飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)による規定が最初のものであり、大宝律令(たいほうりつりょう)が完成した8世紀初頭に租税制度として一般化し、その後養老律令の時代・平安時代以降もしばらくは同様の仕組みが受け継がれていったものとされています。

租庸調・雑徭ともに、基本的なシステムは中国(唐)から持ち込まれたものであり、それ自体は日本で独自に生み出されたものではありません。一方で「租」の徴収単位を個人ベースではなく土地ベースとしたり、地域によって差を設けたり(畿内は一部免除等)、産物を指定したりするような手法は当時の日本の国情に合わせた制度になっていました。

もっとも、租庸調・雑徭の仕組みは、どれを取っても庶民にとっては苦痛・困難をもたらすものであることには違いありません。租の制度が適切に機能せず、結果として利率の高い出挙の仕組みが主となったり、雑徭では食事や移動が自己支弁(自腹)が原則とされる等、庶民は常に苦しい立場に置かれることになります。

制度全体としてみると、一応奈良時代から平安時代の初頭にかけては機能はしており、中央に富を集約し都を運営する上で、また各地域や土木インフラを開発し、国の基盤を整える上では租庸調・雑徭の仕組みは大きな役割を果たしたとは言えます。一方で、記録に残らないような庶民の苦難と犠牲があったであろうことにも留意しておきたい所です。

まとめ

古代日本の「税」は、物納(一部現金納付)を基本とする「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」、そして労役として肉体労働を行う「雑徭(ぞうよう・ざつよう)」が基本的な制度でした。

税制は、「大宝律令」等の法令に基づく「律令制度・律令国家」の仕組みが完成する奈良時代には一般化し、その後平安時代に入ってからもしばらく同様の仕組みが維持されました。

租は田んぼごとに一定量の米を納付することが定められていましたが、実際は不作なども多く機能しきることはなく、むしろ「種籾」を貸して高い金利を取る「出挙(すいこ)」も主流となりました。なお、課税は個人単位ではなく土地単位でした。

庸と調はいずれも「人頭税」的な性質を持つものでした。庸は本来は労役であったものが、米等の物納に置き換えられたもので、調については布や絹の納付が基本でしたが、実際には地域の特産品や銭(現金)による納付も可能な仕組みがありました。

雑徭は、年間の定められた一定期間内は労役に従事させる事が可能な制度であり、地方の公共事業を行う上で重要な役割を果たしましたが、基本的に雑徭の期間に掛かる生活コストは自腹でしたので、庶民への負担は大きなものでした。