こちらのページでは、とりわけ奈良時代の歴史を考える際に重要なキーワードである「律令国家(律令制)」について、その制度や背景・歴史的な流れについて、なるべくしっかりと、わかりやすく解説していきます。
律令国家の基本
「律」と「令」による統治
律令国家とは何か。それは、非常に簡潔に言ってしまえば、「律」と「令」と呼ばれる法によって国を統治する。という制度・仕組みのことです。
「律」は概ね現代で言う所の刑法、「令」はそれ以外の行政法・商法・民法にあたる法律等を指し、更にその律令の不足分を補う改正法である「格」、そしてそれらの施行細則と言える「式」も合わせて大きな法体系を造り上げました。
これらによって様々な分野の決まり事を明文化し、各個人を支配(徴税等)下に置く形で国家を統治するための基本とした訳です。
中央集権国家を造る強い意志
律令制度では、国を運営する上での様々な制度設計が律令の法的枠組みの中で行われました。例えば奈良時代の有名な政策であれば耕地を国家が分配する「班田収授法」・税金を個々から徴収する「租庸調」の仕組み、また地方行政の仕組みである「国郡里制」、更には軍事や役人の地位に至るまで、様々な基本的な制度が「律令」によって定められたのです。
このような国のあり方は、大まかに言えば朝廷・国の中央が「国全体」の状況を各個人・各戸単位でよく把握し、その権限を全て握るということでもあります。律令があれば、なにをどうするべきが明文化されますので、その都度調整や検討を図る手間も省けます。
すなわち現代用語で言う「中央集権国家」を造るということと、律令制度の施行というものは、ほぼ同じ意味を持つものであり、天皇を中心・平城京等を中心とした中央集権国家を造り上げるために、律令制度(国家)の仕組みが採用された訳なのです。
主な内容
律令制度は、その仕組みがはっきりとした形で示されるようになったのは奈良時代のことです。法体系としての律と令は、国の仕組みや庶民の暮らしに至るまで、あらゆる内容について網羅がなされており、全てをしっかり運用すれば、大抵の事については、国の隅々まで統制が行き届く形となっています。
もっとも、実際の運用には苦労した点も多かったり、国や生活の実態とは異なる側面が出て来てしまうこともあったようで、実際に当時の日本が律令によって完全に制御されていたとは言い難いとも言えます。
以下、奈良時代後半に制定された「養老律令」の主な内容です。
「律」の内容
篇 | 篇目 | 読み方 | 備考 |
---|---|---|---|
第一 | 名例律上 | めいれいりつ | 刑罰に関する内容 |
第二 | 名例律下 | ||
第三 | 衛禁律 | えごんりつ | 宮城や関所の守りに関する規定 |
職制律 | しきせいりつ | 官人の職務における犯罪行為に関する規定 | |
第四 | 戸婚律 | ここんりつ | 各戸の取り扱いや婚姻に関する刑罰を規定 |
第五 | 厩庫律 | くこりつ | 厩・牧場・倉庫に関する刑罰を規定 |
擅興律 | せんこうりつ | ||
第六 | 賊盗律 | ぞくとうりつ | 国家秩序に反する犯罪や盗みに関する刑罰を規定 |
第七 | 闘訟律 | とうしょうりつ | |
第八 | 詐偽律 | さぎりつ | |
第九 | 雑律 | ぞうりつ | |
第十 | 捕亡律 | ほもうりつ | |
断獄律 | だんごくりつ |
「令」の内容
篇 | 篇目 | 読み方 | 備考 |
---|---|---|---|
第一 | 官位令 | かんいりょう | 官人の位階に対応する職階について定める |
第二 | 職員令 | しきいんりょう | 二官八省をはじめとする国の機関に従事する役人らについて定める |
後宮職員令 | ごくうしきいんりょう | ||
東宮職員令 | とうぐうしきいんりょう | ||
家令職員令 | けりょうしきいんりょう | ||
第三 | 神祇令 | じんぎりょう | |
僧尼令 | そうにりょう | 僧侶や尼の地位や犯罪について定める | |
第四 | 戸令 | こりょう | 各家ごとの最小の行政単位である「戸」について定める |
田令 | でんりょう | 班田収授等、田の取り扱いについて定める | |
賦役令 | ぶやくりょう | 庸・調といった租税や、肉体労働による租税にあたる「役」等について定める | |
学令 | がくりょう | 大学寮・国学といった教育機関について定める | |
第五 | 選叙令 | せんじょりょう | 官人の叙位・人事制度について定める |
継嗣令 | けいしりょう | 叙位や昇任の評価基準を定める | |
考課令 | こうかりょう | ||
禄令 | ろくりょう | 封禄(現代で言う給料)について定める | |
第六 | 宮衛令 | くえいりょう | |
軍防令 | ぐんぼうりょう | 軍事について定める | |
第七 | 儀制令 | ぎせいりょう | 朝廷の儀式や作法について定める |
衣服令 | えぶくりょう | 官人らの着用する衣服について定める | |
営繕令 | ようぜんりょう | 建築・土木・物資製造について定める | |
第八 | 公式令 | くしきりょう | 公文書の様式等について定める |
第九 | 倉庫令 | そうこりょう | 倉庫とその貯蔵品の取り扱い等について定める |
厩牧令 | くもくりょう | 家畜の取り扱いについて定める | |
医疾令 | いしつりょう | 医療や薬品について定める | |
仮寧令 | けにょうりょう | 官人の休暇について定める | |
喪葬令 | そうそうりょう | ||
第十 | 関市令 | げんしりょう | 国境にあたる「関」や市場の取り扱いについて定める |
捕亡令 | ぶもうりょう | ||
獄令 | ごくりょう | ||
雑令 | ぞうりょう |
律令国家は中国由来
さて、「律」と「令」に基づく律令国家の仕組みは、奈良時代の日本ではっきりと示されたものですが、これは何も「日本オリジナル」で一から生み出された仕組みではありません。
むしろ、ほとんどの枠組み・考え方は中国から取り入れられたものであり、細かい規則を日本の実情に合わせて対応させた形となっています。
中国における律令制度は、秦・漢にまで遡るともされる等古いもので、歴史記録やはっきりとした国家の枠組みとしては「西晋」以降、また「隋・唐」の時代に発展したとされています。
日本の律令制度は、遣唐使等が派遣される中で唐の制度を輸入したものであり、初の体系的かつ本格的な律令である「大宝律令」等でも、唐における制度設計に準ずる形となっています。なお、中国(唐)は他の地域で同様の律令制度が実施されることを否定的していたともされ、日本で律令制度が実施されたことを唐は知らなかったとも推定されます。
日本における律令制度の歴史
日本の律令制度は、中国からの影響を受けて造り上げられたものですが、その歴史については確実な部分と、不確かな部分が混在しています。例えば、日本で制定された主な「律令」には以下のようなものがありますが、当初のものは存在していたかどうか怪しいものも見られます。
近江令(おうみりょう):668年、天智天皇の時代に藤原(中臣)鎌足が編纂したとされています。しかし、この令については、「存在していた」という立場と「存在していなかった」という立場が歴史学的に対立してきたものであり、未だにその決着が付いていません。また、仮に存在したとしても、後の大宝律令のようなしっかりとした体系的な法典ではなかったとも推定されています。
飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう):持統天皇の時代、689年に施行されたとされるもので、律令のうち「令」の部分が主であったとされています。こちらは現存していませんが、後の大宝律令に受け継がれる基本的な内容を含む、日本で初めての体系的な法典であったと推定されています。
大宝律令(たいほうりつりょう):藤原不比等や刑部親王らによって701年に制定されたものであり、中国(唐)の律令から強い影響を受けた日本初の「律」と「令」が揃った本格的な法典であり、奈良時代以降の中央集権国家体制を造り上げる上での基本的な内容が記述されました。
養老律令 (ようろうりつりょう):大宝律令と同じく藤原不比等らにより718年から編纂が開始され、不比等の死後も編纂が続き、757年に施行されます。これ以降の律令制度には変更はほぼありませんでした。
律令制度というものは、国の枠組み・行政の仕組みについて明確な決まり事が存在しなかったそれまでの日本の状態を、明確な「官制」や「税制」・刑罰の仕組み等を導入することにより、白黒はっきりとした中央集権的な国家を造り上げる段階へと移行させる意味で大変重要な役割を果たしました。
一方で、国の隅々・庶民のあらゆる生活にまで律令国家の仕組みが「貫徹」されたかと言えば、必ずしもそうとは言い切れません。そもそも、一つ仕組みを作ってみても、それが本当に「実態に即したもの」なのかは、実際に制度を運用してからでなければ分かりません。
例えば、奈良時代の律令制度を代表する仕組みの一つとして口分田を国家が支給して農業を行わせる「班田収授法」がありますが、当初こそある程度運用が行われたとは言え、奈良時代の段階から「三世一身法」や「墾田永年私財法」等農地の私有化を認める流れが生まれ始めた上、逃亡する百姓の存在や荘園による囲い込み等により形骸化し、最終的には完全に形骸化・制度が崩壊する結果を招きました。
様々な内容を細分化して定める律令制度の下では、これ以外にも時代を追うごとに実態に沿わない決まり事や、有名無実化してしまう内容も少なくありません。実態に合わない仕組みを守るために様々な財政的取り扱いをすることは、必ずしも国家にとってはメリットではなく、「格」や「式」によって内容を細かく規定しても、荘園や武士の台頭といった時代背景に抗うことは出来ませんでした。
結果として、律令制度全体として見ても、平安時代の中頃・10世紀の終わりくらいまでには完全に崩壊し、その後は各個人や各戸ベースではなく、土地を基本とした支配を特徴とする「王朝国家」へと変化していく事になりました。
もっとも、律令制度の崩壊にあたっては、平安時代にも適用されていた「養老律令」や「格・式」を廃止する政策が誰かにより打ち出された訳ではありません。律令制度廃止を掲げた政治家が何かをしたから制度が無くなったのではなく、廃止するまでもなく必然的になくなっていったというのが歴史的な実態と言えるでしょう。
まとめ
律令国家(制度)とは、「律」と「令」と呼ばれる法に基づいて支配する国のあり方を指す言葉です。「律」は概ね刑事的な問題を取り扱い、「令」は行政法や商法・民法的な問題を取り扱っており、国や役人・各人民に関して様々な内容が細やかに定められていました。
律令制度は、日本オリジナルのものではなく、遣唐使が派遣されていた中国(唐)から持ち込まれたものであり、仕組みとしては唐の制度をそのまま活用し、定める内容は日本の実情に即した形で決定されました。
律令制度は、各個人や各戸と単位とした徴税や班田収授(口分田)の仕組み、また役人の職階から振舞いに至るまで厳密に定められる等、天皇(朝廷)を中心にそれ以外の支配対象を制御するという典型的な「中央集権国家」の成立を図るものでした。
律令制度は、奈良時代は一貫して継続し、平安時代に入ってからもしばらくは存続しましたが、農地の私有化や徴税回避といった問題、荘園や武士の台頭といった時代背景により平安時代の中頃くらいまでには完全に崩壊します。なお、律令制度後の政治システムは個々ではなく土地単位の支配を基本とする王朝国家へと変化していくことになりました。
なお、奈良時代については、中央集権的な律令制度に基づく政治を行う中で、「仏教により国を護る」という「鎮護国家」の思想に基づく政治もとりわけ聖武天皇の時代を中心に広く展開されました。
奈良時代のキーワードとして「律令制度」だけではなく、「鎮護国家」もしっかり押さえておくと、より深い理解が可能でしょう。