奈良時代には、朝廷により比較的はっきりと「中央集権的」な政策が進められ、それまでの時代とは異なり全国規模の大きな施策が示されるようになりました。様々な政策の中には、一定以上の成果を挙げたものもあれば、計画倒れに終わったようなものもあります。
こちらのページでは、奈良時代に進められた政策のうち、どちらかと言えば「上手く行かなかった」政策の一つである、土地・農業政策「百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)」について、なるべくわかりやすく解説していきます。
百万町歩開墾計画の内容
百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく・良田百万町歩開墾計画とも)とは、奈良時代の初期に朝廷が推進しようとした農業政策であり、端的に言えば凄まじい面積の田んぼ・畑(農地)を開墾(開発)しようとしたものです。
この政策は、奈良時代の前期にあたる722年(養老6年)6月に示されました。当時は長屋王政権と呼ばれる期間であり、これ以外にも様々な施策が打ち出されていた時代でした。
百万町歩開墾計画内容は、ざっくりと言えば以下のような内容となります。
・庶民に10日間の労役を課して、百万町の田んぼを開墾する(1町×100万=109m四方×100万=約1万平米以上×100万)こととする。
・国郡司で開墾に着手しない者はその職を免じる(罷免)。
・百姓で空き地や荒れ地を農地とし、3,000石以上の収穫をあげれば勲位六階を授ける。1,000石以上は終身に渡って庸を免除する。八位以上の者は勲位一階を授ける。
・「出挙(すいこ・稲作をする際の苗の貸付)」の利率は3割とする。
要するに、不安定な環境にあった農業生産(お米)の基盤を、一気に増産出来るようにしようとした訳です。
なお、この施策については全国で行われたという考え方と、主に陸奥国(東北)を対象としたものであるという考え方があります。
陸奥国は蝦夷との戦地に隣接し、気候も寒冷で社会経済が不安定なため、このような大きな政策が導入される地として想定しやすいですが、実際にどこでどのように行われたのかははっきりしていません。
施策の結果は?
数字を信じるのであれば、当時の日本に存在した全農地を上回ると言わんばかりの「凄まじい」面積の農地を開墾する計画である「百万町歩開墾計画」。
その施策の結果については、なんとなく察しが付くとは思いますが、そのスケールの大きさと比べると、どうやら上手く行く事はなかったようです。
そもそも、この百万町歩開墾計画については、その成果を示すような記録は特に残されていません。
開墾を進めるために、計画策定の翌年にはこちらも有名な「三世一身法」を定め、開墾したら3代目までは田んぼを「私有」出来るようにする等、開墾させようとインセンティブ(動機付けのきっかけ)を持たせたりはした(その後は永久に私有を認める「墾田永年私財法」も制定)のですが、どうやらそれだけでは「ちょっと増えた」位のもので、絶大な効果とまでは行かなかったようです。
むしろ、それらのインセンティブは、特に「墾田永年私財法」制定後は水田面積を劇的に増やすというよりは、単に独立した「荘園」の勢力を強くしただけであり、農業政策というよりは、中央集権的な律令制度の骨組みを弱くしていく効果を持ったとも言えるでしょう。
実際にどこでどの程度の農地が開墾されて機能しているかといった歴史記録は平安時代以降になってからの『和名類聚抄』といった史料の記録として残されていますが、奈良時代における状況ははっきりしていません。
また、200年程経った平安時代の時点で全国で開墾された水田のデータを見ても、概ね90万町前後と、その時点ですら「百万」には達していないことからも分かるように、どう考えても奈良時代のうちには有効性を発揮したと言えるような政策でなかった事は確かなようです。
なお、その90万と言うのは百万町歩開墾計画で新たに開墾された面積の総数ではなく、全国の全水田面積の見積もりであり、その数字を考えると政策が効果を発揮したと見る事は猶更できないでしょう。
奈良時代の水田面積の記録ではなく「推定」としては、行政単位 「郷」の数から推定したものとしては、約58~75万町歩という数字が示されています。(高島正憲『古代日本における農業生産と経済成長 : 耕地面積,土地生産性,農業生産量の推計』社会経済史学 81-4, 567, 2016年)
百万町歩開墾計画は「百万」というキーワードにより、なかなか凄まじいスケール感を感じさせるものですが、実際の所は「これから開墾するぞ!」という当時の朝廷の野心・挑戦的マインドを象徴するスローガン・景気づけ的なものであったと推定するのが無難でしょう。
まとめ
百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)は、奈良時代の長屋王政権の時代(722年)に示された政策であり、広大な面積の水田を開墾(開発)することが目指されました。
内容としては庶民にわずか「10日間」の労役を課して、「百万町(当時の水田推定面積の1.5倍前後)」の凄まじい面積の田んぼを開墾するといった内容であり、現実的な政策とは言えませんでした。
大正地域としては、陸奥国(東北)を中心としていたという考え方もありますが、具体的にどこでどのような規模感を想定していたのか等ははっきりしていません。
開墾のインセンティブとしては「三世一身法」や「墾田永年私財法」が後年に設定されましたが、百万町歩開墾計画そのものの具体的な実施・成果についてはしっかりとした歴史記録は残されておらず、平安時代中期以降でも日本の水田面積は100万町に達していない事から、一般にはほぼ機能せずに失敗に終わった政策と考えられています。