こちらのページでは、奈良時代の歴史を考える上で最も重要な概念の一つである「鎮護国家」という歴史用語について解説していきます。
鎮護国家という言葉の意味
「鎮護国家」。この言葉自体は歴史の学習などでも少なくとも何度かは目にしたことがある人が大半かと思われます。しかし、その意味内容については深く考えた事がない人もいるかもしれません。
鎮護国家とは、端的に言えばその漢字の意味する内容と大きくは変わりませんが、
仏教によって国家を護る(信仰によって国家を鎮め・護る)、また仏教には国家を守る力があると考えるという思想です。
国家はその存在が守られなければ意味を成しませんので、鎮護国家思想によって「国家の運営」と「仏教の信仰」は密接に関わり得る存在として取り扱われるということになります。より強めた言い方をすれば仏教を「国教」に近い扱いとして取り扱うことでもあった訳です。
鎮護国家思想については、いずれも信仰や読経により国家安泰が訪れるといった内容を含む『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』・『金光明経(こんこうみょうきょう)』の影響を強く受けるものであり、これらの経典に即して鎮護国家を実現するために経典を講ずる法会(仁王会等)も行われて来ました。
なお、これらの経典は当然のことながら仏教である以上は日本国内で著述されたものではなく、中国等から伝来してきたものが活用されています。
鎮護国家思想に基づく政策は?
さて、国を守るための仏教という比較的わかりやすい位置づけを持つ「鎮護国家思想」ですが、奈良時代には具体的に鎮護国家思想に基づくどのような政治・政策が実行されたのでしょうか。
もちろん、朝廷が「これが鎮護国家思想である」とか「仏教は国教である」という風に厳格に規定していた訳ではありませんので、様々な考え方はあり得るとは思いますが、概ね以下のような政策は、鎮護国家思想に基づく内容・国家と仏教の関係性の深さを物語るものと言えるでしょう。
「僧尼令」により、各僧侶・尼らが勝手に得度を行う事や、朝廷の許しなく民衆を率いる事等を制限
度牒制度により国家が得度した僧尼に身分を保証、国内の僧尼の管理は「僧綱」と呼ばれる僧官らにより実施
741年(天平13年)に聖武天皇が発した「国分寺(国分僧寺・国分尼寺)」の建立の詔及びその建設事業(国のあちこちに仏像や経典を行き渡らし、国家の安定を図ろうとする意図があったと考えられています)
743年(天平15年)には、国家の安泰を願って聖武天皇が東大寺盧舎那仏像(大仏)の造立を発願(752年(天平勝宝4)に開眼供養が実施・東大寺の整備も進む)
南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺)を保護し、各寺院で多数の僧侶が仏教の教理研究を行うことを奨励
光明皇后が亡父藤原不比等、亡母橘夫人の追悼の意を込めて7000巻に渡る「光明皇后発願一切経」を20年掛かりで実施
上記のような施策・政策はいずれも国家を守るため、また皇族が自らの仏教に対する帰依を象徴的に示すような意図や役割があるもので、当時の国家運営と仏教が強い関係性にあった事を示します。なお、これ以外にも経典に基づき国家安泰を願う無数の法会等も実施され、国家運営と仏教は日常的に深い関わりがあったことには間違いありません。また、当時は遣唐使等の派遣もあり、仏教思想が発達した中国からの文化を積極的に受容し、日本の仏教をより強固なものとするための模索も行われていました。
また、仏教の信仰というものは、国家を守るためのものである以上みだりに・勝手に独自の信仰が深められることは国家に対する一種のリスクにもなりえます。そのため、僧尼令や度牒の仕組み等によって、仏教に携わる人物を国家による管理下に置く、国家によりその身分を保証するという「統制」も一定程度実施されました。
奈良時代において鎮護国家思想に基づく政治が目に見える形で進んだのはやはり「聖武天皇」の時代であり、東大寺大仏の建設事業は、飛鳥時代以降着実に「仏教色」が強まっていった日本にとって、いよいよその「鎮護国家」としての性質をはっきりと示すことになる象徴的な建設事業であったと言えるでしょう。
鎮護国家=国家による統制=国家仏教なのか?
さて、これまで解説してきた通り、「鎮護国家思想」は奈良時代の国家運営の根幹を成す大きな考え方でした。
一方で、「鎮護国家」というイメージや僧侶らによる統制等の在り方からは、国家が宗教を厳格に管理し、その信仰を強いていたようなイメージを持たれる方も多いかもしれません。
実際に、歴史学的には明治以降の「国家神道」概念の如く、鎮護国家思想に基づく国家運営を「国家仏教」として捉える考え方も存在します。
しかし、僧尼令等に関しては、例えば大仏建立において活躍した行基菩薩はかつて勝手に民衆を唱導したとして国家から弾圧されるような立場にありましたが、その影響力が認められると一転して公認的な扱いを受けるなど、必ずしも統制・弾圧一辺倒であったとは言い切れません。
また、仏教を重んじるという中で、従来から存在していた神道が奈良時代を通して過剰な弾圧を受けていたといった歴史的痕跡も特に見られません。
そもそも、国家の守護のために仏教を取り入れるということは、裏返せば一般庶民が様々な仏教信仰に帰依し過ぎることは暴走を招きかねないある種のリスクでもあるため、いたずらにに信仰を強制していたという訳でもなかったようです。
これらの点から考慮すると、奈良時代には確かに「鎮護国家思想」に基づく政治が行われていた事には違いありませんが、それが極端な統制や強制に基づく「国家仏教」であったとは考えにくいとも言えます。
奈良時代以降の「鎮護国家思想」は?
鎮護国家思想については、その概念が歴史用語としてはっきりと示される時代は奈良時代が主ですが、平安時代以降にもその影響は当然ながら残ります。
例えば空海の護国的な思想や、鎌倉新仏教の時代における末法思想の流行に対しての鎮護国家的アプローチの拡大等、朝廷や国家機構のみならず、むしろ仏教の世界の自律性、奈良時代とは異なる権力バランスの中において鎮護国家的な考え方が深まる局面も見られます。
また、奈良時代における鎮護国家の理論的支柱と言える『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』・『金光明経(こんこうみょうきょう)』に対して平安時代には『法華経』が加えられ、これらは「護国三部経(ごこくさんぶきょう)」と呼ばれる等、重要な経典として取り扱われ続けました。
仏教と国家を巡る制度的な枠組みについても、平安時代に入ってからもしばらくは受け継がれたものもあった他、鎌倉時代の臨済宗の保護、江戸時代の寺院諸法度等、戦略的な意味も含めて仏教と国家のつながりは明治維新の時代・神仏分離や廃仏毀釈の時代まで何らかの形で続いたことに違いありません。
一方で、平安時代以降は藤原氏支配に象徴されるように、天皇親政とは到底言えない時期が大半であったこともあり、聖武天皇のように仏教による国家の守護といった明確なメッセージ性を出し、その上で一大公共事業を行うようなわかりやすい図式は見られません。
その点においては、天皇親政の中において明確な鎮護国家思想が示される「奈良時代」が典型的な鎮護国家であり、それ以外の時代はあえて「鎮護国家」という用語を持ち出す必要はない。という解釈も出来るでしょう。
まとめ
「鎮護国家」とは、仏教によって国家を護る(信仰によって国家を鎮め・護る)、また仏教には国家を守る力があると考えるという思想です。
鎮護国家思想は奈良時代には一般的なものであり、とりわけ聖武天皇による国分寺建立や大仏建立事業は、国家の存在(安泰)と仏教の存在が一体的に取り扱われる象徴的なものでした。また、南都七大寺を保護する等、国家によって仏教研究が奨励されました。
鎮護国家思想の中では、僧尼令や度牒制度等、仏教に携わる人物を国家により一定程度統制したり、ライセンスを与えるような仕組みが構築され、仏教が国家にリスクを与えないような措置が講じられました。
統制の一方で、過度な懲罰や信仰の強制、神道の弾圧等が行われていた記録はなく、「仏教=国家(国家仏教)」と言う程の事はなかったとも考えられます。
鎮護国家思想は平安時代以降にも一定程度受け継がれ、仏教思想の中における「護国」的な考え方や国家と仏教の関係は長らく重要な位置を占めることにはなりますが、奈良時代程には国家的事業・制度と仏教がはっきりとリンクすることはなくなります。