飛鳥時代に生まれ、奈良時代前半にかけて宮中に仕えた女官である「県犬養三千代(あがたのいぬかい のみちよ・のち橘三千代)」。
こちらでは、その人物像について経歴・系譜などを見ながら簡単にまとめていきます。
何をした人?
長年に渡り宮中に仕える
県犬養三千代(あがたのいぬかい のみちよ)は、どのような人物かをざっくりとまとめれば、「長年宮中にお仕えして宮人(女官)として出世した人物」と言うことができます。
生まれは飛鳥時代、天智天皇の時代である県犬養三千代は、一氏族の出身であり、必ずしも特別に高い身分の出身と言える存在ではありませんでしたが、奈良時代に入る前から宮中で長年勤務したと考えられ、とりわけ元明天皇(阿部皇女)などにお仕えしたとされています。
また、次項で解説する通り、まず最初は美努王、次いで藤原不比等の妻となる中で、のちの橘諸兄・光明皇后という「奈良時代のキーマン」と言える人物を産んだ母親でもあります。
県犬養三千代本人は、必ずしも学校教育上の「歴史の勉強」をする上で「最重要キーワード」として登場する人物とは言えませんが、奈良時代の歴史を学ぶ上では、様々な系譜を追う上で比較的重要な人物であることに違いありません。
美努王の妻・後の橘諸兄の母として
女官として宮中に仕えた県犬養三千代は、飛鳥時代のうちに美努王(みぬおう)と結婚しています。美努王は敏達天皇の後裔とされる一方、その系譜については不詳な点もある人物ですが、県犬養三千代との間に3人の子女をもうけました。
長男である葛城王(葛木王・かつらぎおう)は、後に臣籍降下によって「橘諸兄(たちばなのもろえ)」を名乗り、奈良時代中頃にかけて実質的な政治権力を握った重要人物として大いに出世します。
藤原不比等の妻・後の光明皇后の母として
美努王と結婚した県犬養三千代ですが、詳細は不明ですがその後二人は離別する形(美努王は708年に亡くなりますが、それより前に離別しています)となり、時期は不明なものの、藤原不比等の妻として再度結婚することになります。
不比等との間には、光明子(こうみょうし)・多比能(たびの)の2子が生まれ、このうち光明子は、のちに聖武天皇の妻=光明皇后として奈良時代中盤の歴史に大きな名を残すことになります。
なお、藤原不比等は奈良時代の初頭に実質的な政治権力の頂点として大いに権勢を振るったことから、ベテランの女官である県犬養三千代もまた一定の地位を築いたとされているほか、長年のキャリアもあり元明天皇からの信頼も大きかったとされています。
そういった流れもあり、奈良時代に入る直前の708年には「橘宿禰」の姓を賜って「橘三千代(たちばなのみちよ)」を名乗るようになり、その姓はのちに橘諸兄らに受け継がれていくことになりました。なお、位階としては晩年には宮人(女官)としては最高位の正三位に叙せられています。