元明天皇(げんめいてんのう)とは?平城遷都を行った女帝についてわかりやすく解説

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奈良時代は、藤原京から平城京へと710年に遷都されることで幕を開けました。その際にその遷都を行った天皇であるのが女帝「元明天皇」。

こちらの記事では、元明天皇の系譜や事績等について、なるべくわかりやすく解説していきたいと思います。

元明天皇の「系譜」

元明天皇の系譜(家族)については、主要な人物は以下の通りです。

父親:天智天皇(「大化の改新」を行った中心人物として知られる)
母親:蘇我姪娘(いわゆる蘇我氏の系譜に位置づけられる人物。蘇我倉山田石川麻呂の娘)

同母姉:御名部皇女(夫は高市皇子=天武天皇第一皇子、子は長屋王)

夫:草壁皇子(天武天皇と鸕野讃良皇女=持統天皇の皇子、皇位につくことなく夭折)

第一皇女(長女):氷高皇女(のちの元正天皇)
皇子(長男):珂瑠皇子(のちの文武天皇・元明天皇より先に即位し夭折)
第二皇女(次女):吉備内親王(長屋王妃・長屋王の変で亡くなる)

孫:首皇子(文武天皇と藤原宮子の皇子=聖武天皇)
孫:膳夫王・葛木王・鉤取王・桑田王

※元明天皇の諱(いみな)は阿閇(あへ)。当初は「阿部皇女」とも呼ばれました。

経歴・年表

661年(斉明天皇7年):天智天皇と蘇我姪娘の皇女として生まれました。

675年(天武天皇4年) 十市皇女と共に伊勢神宮に参拝しました。

679年(天武天皇8年)頃:1歳年下である甥の草壁皇子と結婚しました。

680年(天武天皇9年):第一皇女(長女)である氷高皇女を出産しました。

680年(天武天皇10年):草壁皇子が皇太子となりました。

683年(天武天皇12年):後の文武天皇である皇子(長男)珂瑠皇子を出産しました。

689年(持統天皇3年):夫である草壁皇子が天皇に即位することなく早世します。

697年(文武元年):長男の珂瑠皇子が15歳という若さで文武天皇として即位し、自らは皇太妃となります。

707年(慶雲4年):長男である文武天皇が病に倒れて25歳で崩御します。孫である首皇子(後の聖武天皇)はまだ若すぎるため、自らが第43代「元明天皇」として長男を受け継ぐ「中継ぎ」的な役割で即位します。

708年(慶雲5年・和銅元年):現在の埼玉県にあたる武蔵国の秩父で銅(和銅)が献上されたために元号を「和銅」に改元します。また、日本初の流通貨幣として広く知られる「和同開珎」を鋳造させました。また、藤原不比等らの影響もあり「四神(しじん)相応の地」としてすぐれた地勢を持つ平城京への遷都を図る「平城京造営の詔」もこの年に発出されました。

710年(和銅3年):藤原京から平城京に遷都します。なお、この時点では平城京はまだ建設途上であったとされています。この際に、左大臣でる石上麻呂は藤原京の管理者として残し、右大臣である藤原不比等は平城京に移したため、不比等の権力が高まることにもなります。

711年(和銅4年):貨幣の使用が進まないこともあり、貯蓄した貨幣の額に応じて位階を授けるという「蓄銭叙位令」を発し、貨幣の流通を促進しようとします。なお、この政策はむしろ貨幣の「死蔵(貯めるだけで使われない)」を招き、最終的には800年になり廃止されました。

712年(和銅5年):天武天皇時代から編纂が続けられた『古事記』が完成し、元明天皇に献上されます。また、諸国の国司に対して、荷役に就く民を気遣うように指示する詔を出しました。

713年(和銅6年):各国の地誌を詳細に記述した書物である『風土記』の編纂を指示する詔を発しました。風土記は具体的には郡郷の名・地域で生産される産物・土地状態(農業に適しているか)・地名の由来・伝承等を記述することが求められました。この年には、全国の地名を漢字二文字に統一しようとする「諸国郡郷名著好字令」も示されました。

715年(霊亀元年):皇位を長女である氷高皇女(元正天皇)へと継承し、自らは太上天皇となります。なお、女性天皇が女性天皇へと皇位を継承したことは、歴史記録上はこの時が唯一となっています。

721年(養老5年):5月に病気を発病、12月7日に崩御(61歳)されました。亡くなる前に長屋王と藤原房前に死後の政治・皇太子らの後見を委嘱しました。また葬儀の簡素化を厳命した事でも知られています。

息子である文武天皇の後継として即位した天皇

元明天皇は、夫である草壁皇子が皇太子となったものの、即位することなく夭折し、息子である珂瑠皇子は文武天皇として15歳で即位したものの、やはり20代で崩御されるという不幸に見舞われました。

文武天皇は皇子として首皇子(後の聖武天皇)を残していたため、文武天皇の死後、将来的には首皇子を即位させることが想定されましたが、この時点ではまだ10歳にも満たない幼い子供であったため、結果として不運に見舞われた環境下での「中継ぎ」的な意味合いで即位することになります。

皇后を経験する事無く、また当時としてはかなり高齢とも言える40代後半での即位は異例の事でしたが、即位した後は13年程に渡り、飛鳥時代(藤原京)から奈良時代と移り変わる時代の政治を後述する「藤原不比等」らとともに主導していく事になります。

平城遷都・和同開珎発行等を行う一方で「藤原不比等」を重用

元明天皇は、奈良時代の天皇としてはいわゆる「天平文化」が花開く時代を統治した息子の聖武天皇に次いで歴史的な知名度を持つ存在です。

主な有名な出来事としては、「平城遷都」・「和同開珎発行」等の事績があり、奈良時代の初期に新しい都での政治運営を行う体制を整えた天皇として知られています。

なお、天皇の政治的な権力については様々な解釈がありますが、中臣鎌足の息子であり役人として出世を重ね、天皇の外戚となる形で権力基盤を築いた「藤原不比等」の存在は無視できません。元明天皇は藤原不比等を重用した事で知られ、天皇が勅命を出して行う様々な政策(とりわけ平城遷都等)は不比等の意思を強く反映したものであるという理解は一般的で、中には不比等を事実上の最高権力者とする見立てもあります。

もっとも、平安時代の摂関政治のように天皇の存在が形式的なものになることはなかったようで、不比等も自らの権力基盤を確保する一方で、天皇中心の政治・中央集権国家という基本原則からは逸脱しなかったため、元明天皇自身が不比等の傀儡であったとまでは言えないでしょう。

御陵・ゆかりの地

元明天皇の御陵は、奈良市北部の佐保山と呼ばれる丘陵地帯にあります。

元明天皇は、崩御される直前に遺体を火葬し、簡素に葬ることを指示したとされており、それを裏付けるかのように造成されていないと推定される小さな山にそのまま御陵が設置されています。

なお、元明天皇の西側には、娘である元正天皇の御陵もあり、母娘が隣り合わせで眠る形となっています。

まとめ

元明天皇は、天智天皇の皇女として生まれ(母親は蘇我姪娘)、その後草壁皇子と結婚し、後の元正天皇である氷高皇女、後の文武天皇である珂瑠皇子、長屋王の妃となり長屋王の変で亡くなる吉備内親王の3子が誕生しました。

元明天皇の夫である草壁皇子は20代で夭折し、その後息子である文武天皇も即位後やはり20代で崩御される不幸に見舞われます。元明天皇の即位は、そのような不運の中で「中継ぎ」的な意味合いで行われました。即位時の年齢は40台後半と、決して若い年齢ではありませんでした。

即位時はまだ藤原京の時代でしたが、すぐに平城遷都を決定し建設を進め、その他にも和同開珎を発行する等、新しい時代への変化をもたらす大きな政治的決定・政策を推進しました。

なお、政治については元明天皇の独断というよりは、重用していた藤原不比等の意思を受ける要素も大きかったとされています。元明天皇の権威は決して平安時代のような形式的なものではありませんでしたが、不比等の権力を無視して歴史を考えることも出来ません。