奈良時代の中頃、「藤原四兄弟」が天然痘で亡くなった後の政治的実権を握った人物として知られる「橘諸兄(たちばなのもろえ)」。
こちらのページでは、諸兄が行ったこと・歴史的に重要なポイント・簡単な経歴や系譜をなるべくシンプルに見て行きます。
何をした人?
奈良時代中盤の政治的主導権を握る
橘諸兄は、奈良時代に入る前の飛鳥時代に生まれた人物であり、母親である橘三千代が聖武天皇の妻である光明皇后の母親でもあるという出自の良さもあり、奈良時代の初頭から朝廷において順調に出世を重ねていきました。
731年(天平3)には政治を担う上での最も上位の幹部階層にあたる「公卿」の仲間入りも果たし、736年(天平8年)には臣籍降下(皇族から離脱)して橘宿禰姓を継ぐことになり、以降橘諸兄と呼ばれるようになりました(なお、臣籍降下は皇族が増えすぎることを回避するために一般的に行われていたことで、諸兄の地位などに何か問題があってのことではありません)。
既に十分な出世を遂げていた中で、実質的な政治的頂点に到達するきっかけとなったのは、権力関係というよりはある種の偶然とも言える自然条件「疫病の流行」でした。
当時平城京では「天然痘」が猛威を振るっており、737年(天平9年)には政治的な実権を握ってきた「藤原四兄弟」、具体的には藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)・原房前(ふじわらのふささき)・藤原宇合(ふじわらのうまかい)・藤原麻呂(ふじわらのまろ)の4名が短期間で相次いで亡くなり、その他の有力者の中にも天然痘で亡くなった人物が複数出たことで、当時の権力基盤が政治的要因以外で消滅することになりました。
このような大混乱の中で、残った公卿は参議の鈴鹿王・橘諸兄のみとなり、結果として諸兄は大納言に任命され、翌738年(天平10年)には右大臣として実権を握り、その後公卿に自らと関わりの深い人物を入れていく形で、実質的な「橘諸兄政権」が成立しました。
政権の下では、天然痘により数割の国民が犠牲になった状況下で国の基盤を回復させるため、防人の制度、兵士・健児の制度などを停止したり、開発した農地の私有を認める「墾田永年私財法」を公布するといった政策が行われました。もっとも、疫病や災害といった災厄は続いたため政治的に安定した期間とは言えず、聖武天皇は彷徨五年と呼ばれる740~745年までの期間、平城京から離れる形で遷都を繰り返すなどしています。
藤原氏陣営との関係性・緊張関係
藤原四兄弟の死によって権力の座に就くことになった橘諸兄ですが、諸兄自身は母親の県犬養三千代は藤原不比等とも結婚している点や、自らも不比等の娘である藤原多比能結婚しているなど、本来藤原氏とのつながりは非常に強い人物であり、少なくとも奈良時代前半においては藤原氏との関係は良好であった過程もありました。
国難に際して諸兄が登用されたのは、皇族である一方藤原氏とのつながりが大きいという側面も考慮されたものと推測されます。
一方で、政治的実権を握った橘諸兄は、これまで政治力を握ってきた藤原氏陣営に重点を置くのではなく、遣唐使出身の吉備真備や玄昉など能力の高い人物を重用していきます。
天然痘という不可抗力で亡くなった結果とは言え、元々は「藤原氏」陣営がほぼ独占するような形で政治の世界を牽引してきた訳ですので、生き残った藤原氏一族は諸兄と一定の関係性があるとは言え、権力基盤を全て持っていかれたような状態を苦々しく感じていました。そのため、橘諸兄政権の間は特に後半にかけて、藤原氏一族との緊張関係が続いていったという側面があります。
740年(天平12年)には太宰府への左遷をきっかけに政権への不満を募らせた藤原宇合の息子である藤原広嗣が吉備真備と玄昉の追放を求めはじめ、その後反乱にまで発展し大規模な挙兵を行って鎮圧しています。
この「藤原広嗣の乱」により藤原氏関係の勢いは一時的に落ち着きますが、その後749年(天平勝宝元年)に聖武天皇から孝謙天皇へと譲位されると、光明皇太后の信任が大きかった藤原仲麻呂が一気に出世し、政治的な実権を持ち始めることになります。
晩年に謀反騒動で辞任
仲麻呂が台頭し始める中で諸兄陣営との対立は一層深まっていきますが、この中では諸兄の息子である橘奈良麻呂が仲麻呂陣営などへの謀反を計画していったとされています(奈良麻呂は諸兄の死後に「橘奈良麻呂の乱」に際し処罰を受け亡くなります)。
諸兄自身が当時の天皇や仲麻呂陣営などに直接反旗を翻したような具体的記録は一切残っていませんが、奈良麻呂の動きは長期に渡ったため、その間に息子と父親の間にどのようなやりとり・つながりがあったのかは定かではありません。
しかし、756年(天平勝宝8歳)には、お酒の席で当時病気に倒れていた聖武上皇に対して諸兄自身が失礼な発言をしたとして、これが謀反を視野に入れたものではないか。ということで側近である佐味宮守(さみのみやもり)が聖武上皇などに「告げ口(密告)」を行うという事件が発生します。
この事件について、失礼な発言を受けた側とされる聖武上皇は、長年比較的良好な関係を持ってきた諸兄のことということで、特に取り合うこともなく不問にしましたが、諸兄は様々な状況を察したのか、自ら朝廷の職を辞任して、完全に引退することになり、その後すぐに亡くなりました。
その後は息子である奈良麻呂の謀反を起こす計画が具体性を帯び、藤原仲麻呂・孝謙天皇を追放しようと画策しますが、情報は事前に漏れていたこともありクーデター未遂に終わり(橘奈良麻呂の乱)、関係者は厳しい処罰を受け、奈良麻呂は父親の死の翌年に自らもその生涯を終えました。