藤原不比等とはどんな人物か?ゆかりの地なども詳しく解説

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本ページでは、奈良時代のはじまり「平城遷都」にも大きな役割を果たし、歴史上に名を残す「藤原氏」の勢力拡大・繁栄の礎を築いた人物としても知られる「藤原不比等(ふじわらふひと)」とはどんな人物なのか?というテーマで、なるべく簡単に・わかりやすく解説していきたいと思います。

年表・略歴

659年:日本史のターニングポイント「大化の改新」で知られる中臣鎌足の次男として生まれました。

669年:父の中臣鎌足がその功績により「藤原」の姓を賜った直後に亡くなりました。父親の姓が変わったため、不比等も中臣姓から藤原姓へ変わりました。

680年:長男の武智麻呂(むちまろ)が生まれました。

689年:次男の房先(ふささき)が生まれました。

689年:裁判を司る判事に任命された事が『日本書紀』に記録されています。これ以降官界で頭角を現すことになったと考えられています。

694年:三男の宇合(うまかい)が生まれました。ここまでの母親は「蘇我娼子」となっています。

695年:四男の麻呂(まろ)が生まれました。麻呂の母親は異母妹にあたる「五百重娘」となっています。ここまでに生まれた4人の男児が、奈良時代の一時期に権勢を振るったいわゆる「藤原4兄弟」と呼ばれています。

697年:娘の宮子(みやこ)が文武天皇(もんむてんのう)の后になりました。自らの家族を天皇家に嫁がせるという形で自らも天皇の「外戚」となるという不比等の戦略が機能することになります。

700年:刑部親王(おさかべしんのう)と共同で、日本の律令制度を確立する上で重要な役割を果たす大宝律令(たいほうりつりょう)の編集に取りかかりました。

701年:後の光明皇后である娘の光明子(こうみょうし)が生まれ(母親は県犬養橘三千代)、宮子の子として後の聖武天皇にあたる首皇子も誕生しました。また、編集していた大宝律令(たいほうりつりょう)も完成しました。大宝律令を成立させた功績により、不比等の地位は一層高まっていくことになります。

708年:正二位に叙せられた後、右大臣になります。

716年:娘の光明子が首皇太子(おびとこうたいし・後に聖武天皇として即位)の后になりました。

718年:大宝律令をより日本の朝廷や国情に沿う形とするために修正を開始(後の養老律令)しました。

720年:62歳で死去します。死後、太政大臣の位を追贈されました。

生まれは飛鳥時代・「中臣鎌足」の子として

藤原不比等は、奈良時代から遡る「飛鳥時代」の658年、父親は「大化の改新」で大変有名な歴史上の人物である「中臣鎌足」の次男として生まれました。

歴史的には、天智天皇の落胤(私生児)であるという説もありますが、歴史学的には必ずしも支持が多い見解ではありません。

なお、「不比等」という名前は後世ではそう記されていますが、当時は「史(ふひと)」の字を当てていたようです。「史」は幼少期を「田辺史大隅」という人物の下で過ごしたからとも、また学問を意味する文字であることから、そのような能力を期待する意味合いがあったともされています。

下級役人から出世

父親である鎌足の死後は、役人としての道のりを進んでいきますが、しばらくの間天智天皇系の要人が悉く冷遇、排除される時期もあり、当初は下級役人から官界へと入っていったとされています。

しかし、天武天皇の皇子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕える等する中で次第に頭角を現すことになった他、宮廷に仕える女官である県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ・橘三千代)との婚姻関係を結ぶ中で皇室との関係性も強めたとされ、草壁皇子の子にあたる文武天皇の擁立に関わったり、自らの娘である宮子を文武天皇の后にする等、政略的に天皇家との関係性を強め、自らを天皇の「外戚(母方の親戚)」とする形で権力・地位を獲得していきます。

701年には日本における「律令政治(法に基づく中央集権的な国のシステム)」の基本となる「大宝律令」の成立に尽力し、これにより一層地位を高めたともされています。

奈良時代前半を代表する政治家として

藤原不比等は、飛鳥(藤原京)の時代から着実に権威を高めていきましたが、その後現在の奈良市にあたる「平城京」に遷都する計画を主導した人物であるともされています。

平城遷都については、既存の権力者・豪族とのしがらみを排除したい思惑や、後の聖武天皇にあたる首皇子を即位させるための新しい環境を造る意図等、天皇中心の中央集権的な政治基盤を再構築する意図があったと考えられています。

日本における律令政治の基礎を「大宝律令」の制定によって築き上げた不比等は、当時の元明天皇にも重用され、結果として元明天皇と不比等は平城京への遷都を強力に推進し、710年には藤原京から平城京への遷都を実行することになりました。

不比等は遷都後も強い権力を持ち続け、平城宮に隣接する敷地に広大な敷地を持つ邸宅を持っていたとされる他、氏寺であった山階寺(やましなでら)を「興福寺」として平城京の東側に移転させる等、一層の基盤の強化を図りました。

その後は、大宝律令をより国の実態に即した形とするための修正作業を開始していましたが、720年に死没します。一方で、4人の息子らは不比等の残した権力基盤を受け継ぎ「藤原四兄弟」として天平時代にかけて大きな権勢を振るうことになります。

奈良市内の「ゆかりの地」について

藤原不比等に関しては、奈良市内にその名前が直接残されるような遺跡・寺社・施設がある訳ではありません。

邸宅については現在の「法華寺」が不比等の邸宅跡であり、平城京の中でも特に大きな邸宅であったとされていますが、不比等の邸宅より狭い敷地であったとされる「長屋王邸跡」のように名称や案内板等は残されてはいません。

また、法華寺とは少し場所は異なりますが、1キロ程はなれた「狭岡神社」についても不比等ゆかりの地であるとの伝承があります。

一方で、その「墓所」と推定されている場所については、奈良県桜井市の談山神社近くの「多武峰墓」に加え、奈良市内の「聖武天皇陵」近くにある聖武天皇陵の陪塚(い号・ろ号)が不比等の諡号である西「淡海」公古墳・東「淡海」公古墳と呼ばれており、こちらが不比等に関係するという考え方もあります。

陪塚のうち「い号」には周辺への立ち入りも可能で、一帯は「西安の森」と呼ばれています。

藤原不比等という人物を簡単にまとめると…

「大化の改新」を行った「中臣(藤原)鎌足」の次男です。

下級役人から出世し、巧みに皇族へ取り入る形で権力を強め、娘を天皇の后とする形で「外戚」となって確固たる地位を築きました。

不比等は平城遷都にも強い影響力を行使した他、日本における「律令政治」の幕開けを告げる「大宝律令」の制定を行う等、具体的な政治能力にも長けた人物でした。

天皇の親族になるというその後長らく続く「藤原氏」の権力維持のプロセスは、この不比等の代から始まっています。一方で不比等については天皇中心の政治を志向し、中央集権国家としての大和朝廷を造り上げた当事者でもあり、後世の摂関政治のように過度に「形式的」な天皇の権威を盾にしたとは言い切れません。