奈良市内の「地名の由来」をさぐる

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奈良時代から1300年以上の歴史を持つ古都「奈良」のまち。

この記事では、そんな奈良のまちで現在も用いられている・残されている難読地名・珍しい地名・独特の地名にスポットを当て、ユニークな地名がどのような「由来」や「歴史」を持つのかについてなるべくわかりやすく解説していきます。

なお、ご紹介している難読地名は一部のみであり、市内にはこの他にも多数の謎めいた地名・読みにくい地名・由緒ある地名が多数残されています。

京終(きょうばて)

ならまちエリアの南側に広がる「京終(きょうばて)」地域。

きょうばてという読みは、初めて来た人や、初めてこの地名を見た人が正しく読めるケースはほぼなく、奈良を代表する「難読地名」となっています。

奈良交通にはバス停「北京終町(きたきょうばてちょう)」・「南京終町(みなみきょうばてちょう)」がありますが、「ぺきん・なんきんおわりまち」という極端な読みを連想してしまう「一見さん」も多いようです。

京終という地名の由来は、その漢字の内容から連想して頂けるように、「平城京」の「終わり(端)」にあるというシンプルな意味となっています。

肘塚(かいのづか)

京終エリアの南東側に広がるこちらも難読地名として知られる「肘塚町(かいのづかちょう)」。

この地は、奈良時代に名僧・怪僧として名をはせた「玄昉(げんぼう)」が、対立していた藤原広嗣の霊により空中へ連れ去られ、頭は興福寺に落ち、「肘」は奈良のまちの南にあたるこの地に落ちたことから「肘塚」と呼ばれるようになったなどという奇怪なエピソードに由来するとも言われています。但し、この説については「肘塚」という珍しい地名に後付けされた話である可能性もありますので、実際の所はよくわからないのが実情です。

富雄(とみお)

奈良市西部を流れる「富雄川」の名前や近鉄「富雄駅」の駅名にも用いられている地名「富雄(とみお)」。

全国各地でもこの地にしかない珍しい地名となっていますが、富雄と本格的に呼ばれるようになったのは近代以降であり、元々は「鵄邑(とびのむら)」と呼ばれた後、「鳥見(とりみ)」とも呼ばれるようになったという前史を持っています。

「鵄邑」の由来は、神武天皇(磐余彦尊)がこの地で豪族長髄彦を討伐した際、金色の「鵄」に力を与えられたことに由来するとされ、富雄エリアは神武天皇ゆかりの地として知られています。

なお、「鳥見」の地名は、富雄駅西側の郊外住宅地に現在使用されているほか、近鉄富雄駅は、二次大戦中には国威掲揚の一環によってなのか、古い読みの「鵄邑(とびのむら)駅」に改称されていたという歴史も持っています。また、学園前駅北側の広い範囲を占める「登美ヶ丘」地域も、この「鵄邑・鳥見」の地名を援用したものとなっています。

押熊(おしくま)

奈良市北部、京都府との境にも比較的近いエリアを指す地名である「押熊」。

この珍しい地名は、古代史における「忍熊王子(おしくまのみこ)」と読みが一致することもあり、押熊町にある「押熊八幡神社」境内には「忍熊皇子社」なる空間もあり、ゆかりの地であるような解釈も可能となっています。しかしながら、実際には、「押熊」という地名は「奈良の北の端にある」という意味から生まれたものとされており、読みが一致していることから後世に信仰が生まれたと考えられています。

不審ヶ辻子町(ふしがづしちょう)

奈良ホテルの西側、猿沢池近くの「鶴福院商店街」から路地を入っていった先にある不審ヶ辻子町(ふしがづしちょう)。

「不審」という単語が用いられているという見るからに奇妙な地名は、その昔元興寺に伝わる伝説の中でもとりわけ有名な存在として知られる「鬼(ガゴゼとも呼ばれる)」を元興寺の僧侶が追った際に、この地で見失ったことに由来するとされており、元興寺の歴史と密接な関係を持つ地名となっています。

大豆山町(まめやまちょう)

近鉄奈良駅の北側すぐの位置に広がる「大豆山町(まめやまちょう)」。

「大豆」という語が用いられていることから、一見するとそのような商売人が古くから住んでいた地域であると捉えてしまいがちですが、その昔には大豆ではなく「眉目」山と記したとされています。

この「眉」と「目」がどのような意味かと言えば、「肘塚町」と同様に奈良時代の僧侶「玄昉」が空中に連れ去られた後に「眉」と「目」の部分がこの大豆山町の地に落下したことに由来するとされており、町内にある崇徳寺の境内には、「眉目塚」の跡とされる場所が残されています。

阿字万字町(あぜまめちょう)

ならまちエリア、「なら工藝館」のある一帯を指す地名である阿字万字町(あぜまめちょう)。

「難読」という意味では奈良で最も読みにくい地名とも言えるものですが、その由来は弘法大師が「阿宇万字」と書かれた密教の秘符を納めたことに由来するという伝承のほか、「畦道」に「豆」を植えていたということに由来するとも考えられています。

餅飯殿町(もちいどのちょう)

近鉄奈良駅から南に進んでいった先にある「餅飯殿商店街」。その名の由来となっている「餅飯殿町(もちいどのちょう)」。

地名の由来としては、その名の通り「餅」や「飯」を献上したことに由来すると考えられており、弘法大師空海が天河弁財天を興福寺へ移した際に献上したともされることもありますが、広く伝わる伝説としては京都醍醐寺を創建した聖宝理源大師の大峯参りに「箱屋勘兵衛」と呼ばれる人物を含めこの地の人々が随行し、その際に餅と米を献上したことに由来するともされています。

雑司町(ぞうしちょう)

東大寺境内やその北側の住宅地など、比較的広い面積を有する地域である「雑司町(ぞうしちょう)」。

この地は、その「雑司」という漢字からも想像できるように、東大寺に関わる様々な雑務を司る人々が住んでいた場所であったことから、このような地名となったとされています。

鹿野園町(ろくやおんちょう)

奈良市街地の南東側、近鉄奈良駅からは3キロほど離れた農村・住宅が混在する地域である「鹿野園町」。

地名の由来としては、釈迦が「鹿の多く住むところ」で悟りを開いたとされる伝承・及びその仏教聖地「サルナート(鹿野園)」にちなむ形で、奈良時代に日本へ渡来したインド僧「菩提僊那(婆羅門僧正)」がこの地に「鹿野園」と名付けたとされており、相当な歴史を持つ地名となっています。また、現在はありませんが、かつては鹿野園を山号とした「鹿野園梵福寺」と呼ばれるお寺もあったとされています。

なお、「鹿」については農地や荒れ地に野生の鹿がいる場合もありますが、地名に「鹿」と付いているから「鹿が多い」とは限りません。少なくとも鹿を見るために訪れるような場所ではありませんのでご注意ください。

忍辱山町(にんにくせんちょう)

奈良の奥座敷とも言える美しい寺院「円成寺」。その山号としても用いられており、一体の地名としても用いられている「忍辱山(にんにくせん)」。

この地名は「鹿野園町」と同様、仏教史・仏教思想に関係する地名となっており、仏道修行で取り組むべき内容にあたる「菩薩行六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)」のうちの「忍辱」に由来します。なお、かつては仏教関連の地名に応じた寺院として忍辱山円成寺・菩提山正暦寺・鹿野園梵福寺・誓多林万福寺・大慈山薬師寺といった寺院がありましたが、現在は円成寺と正暦寺のみが残されています。

歌姫町(うたひめちょう)

奈良市北部、平城宮跡の北側の京都方面へと抜ける道路沿いに広がる農村地域である「歌姫町」。

メルヘンチックな雰囲気を漂わせる地名の由来は、実際に平城宮などで「雅楽」を演奏する「雅楽姫」の居住地であったことに由来するともされていますが、裁判を行う「刑部」の居住地であったことに関連するとの見方もあるようです。いずれにせよ平城宮のすぐ近くであるため、宮中・朝廷などに比較的関連性の強い地域、また地名もそれらにつながりを有するものであることは間違いないでしょう。