橘奈良麻呂とは?【謀略に失敗し続けた人物】

基礎知識・お役立ち情報

こちらでは、一般に「橘奈良麻呂の変」で知られる奈良時代の貴族「橘奈良麻呂」について、その人物像の基本となる情報について、なるべくシンプルに解説していきます。

どんな人物?何をした人?

奈良時代に一世を風靡した「橘諸兄」の息子

橘奈良麻呂は、奈良時代の中頃に左大臣まで出世し、実質的な「橘諸兄政権」を率いた人物である「橘諸兄」の息子として生まれました。

政治的なトップの子息ということで、出世は比較的早く、20歳ごろの740年(天平12年)に初めての位階(従五位下)を授けられた後は、とんとん拍子で出世を重ね、約10年ほどで「参議」に任命され、政治の中枢へと仲間入りを果たします。

長屋王の子「黄文王」の擁立を画策する

出世を重ねる奈良麻呂は、一方では早い時期から権力関係を意識し、様々な計略をめぐらします。

奈良時代には、非常に大雑把に言えば、有力な貴族である「藤原氏」と、それ以外の対立という図式がありました。

橘諸兄・奈良麻呂は皇族に連なる「皇親勢力」にどちらかと言えば位置づけられる存在で、諸兄の妻・奈良麻呂の母である藤原多比野は「藤原氏」に連なる人物であったとは言え、橘氏は藤原氏そのものではないため、次第に藤原氏との関係性には緊張感が生まれていきます。

奈良麻呂が出世した時期は聖武天皇の時代でしたが、この後継者として奈良麻呂らは聖武天皇唯一の皇子である「非藤原系」の安積親王(あさかしんのう)が即位することを期待していました。しかし、親王は脚気で亡くなってしまい、その後後継者としては母親が藤原不比等の子=光明皇后である阿倍内親王(のち孝謙天皇)が皇太子とされ、皇位継承が既成事実化されていきました。

藤原氏の影響がとりわけ強い人物、また後継者を生まない(中継ぎとしての役割のみ持つ)女性天皇が即位することを好ましく思わなかった奈良麻呂は、自らが望む存在として「黄文王」を天皇として擁立することを画策します。

黄文王は、奈良時代の前期、藤原不比等が亡くなった後に政治的実権を握った「長屋王」の息子であり、「長屋王の変」で長屋王が失脚したということから経歴に「傷」があったとは言え、望ましい存在として擁立されるに至ったのです。

なお、この「擁立計画」は結局阿部内親王が聖武天皇からの譲位を受け「孝謙天皇」として即位したため、完全に失敗することになります。

奈良麻呂はその後も断続的に黄文王の擁立や藤原仲麻呂の排除(謀反)を企てますが、巻き込もうとした佐伯全成(さえきのまたなり)ら周囲の同調を得られず、結局いつまで経ってもうまくいきません。

「橘奈良麻呂の変」を引き起こす

奈良麻呂は、一般的に「橘奈良麻呂の変」と呼ばれる謀反(未遂)を引き起こした人物として知られています。

この「変」は、のちに発生した「藤原仲麻呂の乱」などとは異なり、あくまでも未遂であり、大規模な戦闘などが実際に起きたものではありません。

長屋王の息子である「黄文王」の擁立を画策するなど独自路線を歩んでいった奈良麻呂は、孝謙天皇の即位後、光明皇后の信頼を受け「藤原仲麻呂」がどんどん権力基盤を拡大させていくことに、いよいよ危惧を覚えます。

これまでは父親の橘諸兄が実質的な「橘諸兄政権」を率いてきたものが、次第に実質的な「藤原仲麻呂政権」に置き換わり、756年(天平勝宝8歳)には、諸兄が酒席で聖武上皇に対して無礼な発言をした。ということで密告される事件が発生し、諸兄は朝廷の要職から退き、その後まもなく亡くなりました。

また、その後聖武上皇が崩御し、その遺言に従って道祖王が立太子されますが、仲麻呂の意向を受けてすぐに廃位され、757年(天平宝字元年)4月には大炊王(後の淳仁天皇)が代わりに立太子されるなど、仲麻呂の専横ぶりに奈良麻呂は強い脅威を感じることになります。

後ろ盾であった父親がいなくなり、藤原仲麻呂が一層権勢を強める状況に追い詰められた奈良麻呂は、仲麻呂を武力をもって排除しようと謀反を画策します。

何もなく終わった「乱」・厳しい末路

しかし、今回の謀略もやはり計画倒れに終わります。757年の6月28日には長屋王の息子にあたる山背王(やましろおう)の密告で孝謙天皇へと謀反の計画が漏れ、仲麻呂にも上道斐太都(かみつみちの ひたつ)を経由して伝わります。

天皇は当初は抑制的に、ある種の静観の姿勢を見せますが、仲麻呂陣営の尋問によって奈良麻呂陣営である小野東人(おののあずまひと)が計画を自白。これにより7月4日は奈良麻呂及び関係者の多数が逮捕され、発覚から1週間も経たない間に、具体的な戦火を一切交えずに「橘奈良麻呂の乱」は終わりを告げたのです。

その後は安宿王・黄文王・道祖王・佐伯全成・小野東人など関係者には流罪や過酷な尋問など厳罰が加えられ、詳細は不明ながら、奈良麻呂自身も獄中で亡くなったと考えられています。

厳罰の方針については、孝謙天皇というよりは、奈良麻呂を疎ましく思っていた藤原仲麻呂の意向が強く反映されたとも考えられ、この乱の終結と処罰によって、藤原仲麻呂の権力闘争はひとまず終結し、名実ともに政治的頂点に立つことになりました。但し、権力を勝ち取った仲麻呂も数年後には「藤原仲麻呂の乱」を画策し、自滅するという結果を招いています。

系譜・経歴

家族

父親:橘諸兄(左大臣・正一位まで出世)
母親:藤原多比野(藤原不比等の娘)
妻:大原明女(子:橘安麻呂)
妻:大伴古慈斐娘(子:橘島田麻呂)
妻:藤原宇合娘(推定)(子:橘入居)
妻:粟田人上娘(子:橘清友)
生母不明の子:橘清野

略歴

721年(養老7年):この頃橘諸兄・藤原多比野の子として生まれたと考えられています。
740年(天平12年):はじめての位階として従五位下を授けられました。
741年(天平13年):大学頭に任命されました。
743年(天平15年):この頃より黄文王の擁立など、謀反に関わるような動きを画策し始めたと考えられます。
745年(天平17年):摂津大夫に任命されました。
746年(天平18年) :民部大輔に任命されました。
749年(天平21年):4月、従四位上に昇叙され、その後侍従・参議に任命されました。
752年(天平勝宝4年) :但馬因幡按察使に任命されました。
754年(天平勝宝6年):正四位下に昇叙されました。
756年(天平勝宝8歳):装束司に任命されました。
757年(天平勝宝9歳): 右大弁に任命されますが、藤原仲麻呂を排除しようと謀反を画策し、その計画が密告されたことで逮捕され、その後詳細不明ながら獄死したと考えられています。