長屋王とはどのような人物か?奈良時代前期のキーマンについてしっかり解説 | 奈良まちあるき風景紀行

長屋王とはどのような人物か?奈良時代前期のキーマンについてしっかり解説

奈良の歴史解説

奈良時代には様々な皇族・貴族・僧侶らが政治の世界で入り乱れ、比較的ハードな権力闘争が行われた事で知られています。

こちらでは、そのような奈良時代の政治的潮流の主導権を握り、一方でそれに翻弄されて生涯を終えた存在でもある「長屋王」と呼ばれる人物について、なるべくわかりやすく・しっかりと解説していきたいと思います。

長屋王の「系譜」

父親:高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ)
◇天武天皇の長男・持統天皇の時代には「太政大臣」として活躍)

母親:御名部皇女(みなべのひめみこ)
◇天智天皇の第3皇女・長屋王の変で長屋王とともに亡くなる

妃:吉備内親王(きびないしんのう)
◇草壁皇子と元明天皇の子女

妃:藤原長娥子(ふじわらのながこ)
◇藤原不比等の二女

その他妃:安倍大刀自・石川夫人

子女:上記の妃との間に膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王・安宿王・黄文王・山背王・賀茂女王など多数(うち数名が長屋王の変で亡くなる)

長屋王の経歴

676年(天武天皇5年)または684年(同13年):高市皇子と御名部皇女の子女として生まれました。なお、生年については確実な定義がなく、676・684年のいずれかと推定されています。

704(大宝4年):位階のない(無位)状態から、正四位上に叙せられました。一般に初めての位階が授けられる場合と比べかなり高位となっており、父母である高市皇子と御名部皇女の地位なども考慮されたためか(様々な説があります)、「特別な存在」として扱われていた事が分かります。

709年(和銅2年)11月:宮内卿となります。

710年(和銅3年)4月:式部卿へとスピード出世を遂げます。

716年(霊亀2年):正三位に叙せられました。

718年(養老2年):大納言へと昇進し、事実上当時の右大臣藤原不比等に次ぐ権力を持つに至ります。

721年(養老5年)1月5日:前年に当時の行政上の最高権力者である藤原不比等が亡くなったことから、従二位・右大臣に任じられました。これにより事実上の「長屋王政権」が成立します。実権を握ってからは、次項で解説するような各種政策を比較的迅速に行っていきます。

724年(神亀元年)2月:聖武天皇が即位される際に、長屋王も正二位・左大臣の地位へと更なる昇進を遂げます。なお、この際に聖武天皇が母親である藤原宮子を「大夫人」と呼ぶ詔を発した所、その詔が当時の法律にあたる公式令に反するものとして事実上長屋王らにより却下(藤原氏の権威付けを抑える目的と推定される・体裁は「天皇の判断を仰ぐ」という形)される「辛巳事件」が起きました。

729年(神亀6年)3月16日:前月の中臣宮処東人らによる密告から始まった「長屋王の変」で、自邸を軍勢に包囲され、妃の吉備内親王、子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王らとともに亡くなりました(自尽)。

長屋王政権時代の「政策」とは?

長屋王は、政治の主導権を握ってすぐから、「律令政治」の原則に応じた様々な政策を展開します。長屋王で実施された主要な政策には以下のようなものがあります。

722年「百万町歩開墾計画」:食糧増産・安定化のために「百万町」もの水田を新たに開墾しようとした政策です。結果としては必ずしも上手く行く事はありませんでした。

723年「三世一身法」:開墾の「動機付け」として、自分たちで開墾した水田は3代目まで私有を許可した土地政策です。成果は限定的でしたが、「公地公民」の原則とは異なる新しい土地私有の仕組みが登場しました。

727年「官人への統制強化」:官人の勤務態度について、現代で言う所の能力主義的な評価を導入し、評価が低い人間の官職を解き、評価が高い官人にはボーナスとして絁(あしぎぬ)を与えるようにしました。

「租庸調等の免除」:災害や社会不安により、庶民の生活等が厳しい状況に置かれている地域を中心に、比較的柔軟に「税」である租庸調を一部免除する等し、社会の安定化を図りました。

「反乱の迅速な鎮圧」:720年・724年等には蝦夷の反乱が発生しますが、その度に素早く軍勢を派遣し、鎮圧へと向かわせています。

奈良時代前期の政治的キーマン

長屋王という人物は、高市皇子と御名部皇女の子女という出自の良さや、飛び級的な位階の授与、昇進の連続により、奈良時代初頭の事実上の政治的頂点に君臨した「藤原不比等」が亡くなった後は、その権力を自らのものとし、同じく皇族(皇親勢力)である舎人親王らとともに「長屋王政権」の一時代を造り上げました。

なお、長屋王自身は藤原不比等との血筋的なつながりは一切ありませんが、不比等の後継にあたる子ら「藤原四兄弟」は全体としてはまだ若年であった事などから、長屋王が実権を握る事になりました。

長屋王の政治手法は、矢継ぎ早に様々な政策を導入していく等ある種の「改革者」としての側面を持ちつつ、基本的には奈良時代の基本である「律令制度(律・令と呼ばれる法により国家を治める中央集権的な政治システム)」を一層強化し、国を安定させる事を目指すものでした。

各地域で災害や社会情勢が不安定になった場合には、租庸調の一部を免除したり、蝦夷の反乱にはすぐに鎮圧のために軍を送ったり、農業生産を増加させるために「百万町歩開墾計画」・「三世一身法」を示す等、その成果は全く効果がないものから定着していったもの、一定の救済効果を持ったもの等、様々なものがありますが、全体としてみると比較的政治的実績の大きな存在と言う事は出来るでしょう。

「長屋王の変」とは?

長屋王の存在は、一般的に長屋王が非業の死を遂げた「長屋王の変」と言うキーワードで広く知られています。

こちらの政変は、簡単に言えば従来から対立構造が激化していた藤原氏陣営(藤原四兄弟)の策略により、長屋王が死に追い込まれたというものです。

藤原不比等が721年に亡くなった後、また若かった不比等の息子ら(藤原四兄弟)は直ちに政治的実権を掌握する事はなく、長屋王が政治的な権限を振るう事になります。

その後、724年に聖武天皇が即位してからは、長屋王はすぐさま聖武天皇が実の母親(藤原宮子)に「大夫人(だいぶにん)」の称号を与える事を「法令違反」の名の下に事実上却下する(辛巳事件)等、藤原氏の権威付けに対し敏感な対応を見せ、長屋王陣営と藤原氏陣営の対立が顕在化します。

また、聖武天皇は藤原光明との間に産んだ皇子である「基王(もといおう)」を生誕後すぐに皇太子に指名したため、一度は藤原氏に連なる皇位継承のルートが確保されましたが、こちらに対し長屋王は不満を持っていたとされています。

結果として基王は皇太子に指名されてすぐ、わずか1歳で亡くなってしまい、藤原氏の血筋から直接つながる聖武系の子女はいなくなりましたが、これらは聖武天皇の権威を盾に権勢を振るう事を望む藤原四兄弟にとって大きな脅威となりました。そもそも、長屋王の子である膳夫王らは一定の皇位継承の可能性を持つ存在として当初から位置づけられており、藤原氏陣営からすれば、長屋王陣営に皇位を乗っ取られる可能性もゼロとは言えない状況になったのです。

このように、長屋王ー藤原氏陣営の対立が深まり、その中で次第に藤原氏陣営の形勢が皇位継承の観点からは厳しくなる中で発生したのが、「長屋王の変」なのです。

「長屋王の変」は、729年(神亀6年)3月に、官人である中臣宮処東人(なかとみのみや)・漆部君足(ぬりべのきみたり)が、「長屋王は密に国家の転覆を図ろうと企んでいる」と密告した事を契機とします。一般に、これらの構図を造り上げたのは藤原四兄弟の陰謀であるとされています。

密告を受けた結果、長屋王の邸宅は藤原宇合率いる軍勢に包囲され、身動きが取れなくなります。なお、当時の決まりでは一定人数を越える軍勢の派遣には天皇の許可が必要ですので、聖武天皇も密告を受けて軍勢の派遣を自身で認めていたという事になります。すなわち長屋王に味方する人は最早自派だけであったという事になります。

自宅を軍勢に囲まれてどうしようもなくなった長屋王は、その運命を悟り、家族である妃の吉備内親王、子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王らとともに自害し、亡くなりました。

長屋王がいなくなった結果、ある種の望み通り「藤原四兄弟」は長屋王に代わる形で政治的実権を握るようになります。しかし、わずか8年後に4人とも当時流行していた天然痘により没します。この悲劇は「長屋王の呪い」と宮中でも騒がれる事になりました。

ゆかりの地

長屋王については、その邸宅跡は現在の大型商業施設「ミ・ナーラ」の場所にあたります。遺跡の存在は、1988年(昭和63年)に現地に「奈良そごう」が開発される際に長屋王に関連する大量の木簡発掘された事で確認され、その後調査は行われたものの、遺跡の多くは建設に伴い破却されてしまいました。

現在は「長屋王邸跡」という石碑があるだけで、それ以外の特段の歴史的なみどころはありません。

「長屋王の変」のイメージが強い存在であるため、この土地を巡っては商業施設が閉鎖・再オープンを繰り返す度(奈良そごうは10年程で閉店・その後10年少々イトーヨーカドー奈良店・2018年からは「ミ・ナーラ」)「長屋王の呪い」というイメージで語られる事が多くなっています。

平群町にある「長屋王墓」

なお、墓所である「長屋王墓」は、奈良市内ではなく、生駒山地と矢田丘陵に挟まれた生駒郡平群町にあります。

まとめ

奈良時代の政治的キーマンとして知られる「長屋王」は、天智天皇の長男である高市皇子と御名部皇女の子女として生まれ、「皇親勢力」としてその出自の良さなどもあり順調な出世街道を歩んでいきました。

奈良時代の初頭に権勢を振るった「藤原不比等」が亡くなった後、その子ら(藤原四兄弟)がまだ若かったことから、長屋王は不比等後の政治の実権を握ります。政治手法は基本的に「律令制度」に基づき国を運営する基本に忠実なものでしたが、農業に関する「三世一身法」の制定や租庸調の免除といった困窮者への対策、蝦夷反乱の鎮圧など、国を安定させるための各種施策を比較的次々に繰り出すなど成果はともかく「改革者」としての側面もありました。

権力をふるった長屋王ですが、「辛巳事件」において藤原氏側の権威付けを取りやめさせたり、聖武天皇の子であり藤原系の「基王」が皇太子になるも、すぐに亡くなってしまうといった流れの中で、藤原四兄弟の地位が脅かされ、対立が深まっていきます。最終的には「長屋王の変」において謀反を企てた存在として邸宅を兵士らに包囲され、家族である妃の吉備内親王、子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王らとともに自害し、亡くなりました。