藤原仲麻呂の生涯とは?「恵美押勝の乱」の要因や結果などを詳しく解説 | 奈良まちあるき風景紀行

藤原仲麻呂の生涯とは?「恵美押勝の乱」の要因や結果などを詳しく解説

奈良の歴史解説

奈良時代後半の歴史において、大いに権勢を振るいながらも最後にはクーデターを起こし敗北した人物として知られる「藤原仲麻呂」。こちらのページでは、その仲麻呂の生涯について、歴史的事件である「恵美押勝の乱」の流れを中心に当時の歴史的背景なども見ながらなるべくわかりやすく解説していきます。

系譜

父:藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ・藤原不比等の長男)
母:阿部貞媛(阿倍御主人孫女・阿倍貞吉または阿倍真虎の娘)

妻:藤原宇比良古(ふじわらのおひらこ、藤原房前の娘)
長男:藤原真従(むじわらのまより、若くして亡くなる)
次男:藤原真先(ふじわらのまさき、正四位上・参議、仲麻呂の乱で戦没)
三男:藤原訓儒麻呂(ふじわらのくすまろ、正四位下・参議、仲麻呂の乱で戦没)
四男:藤原朝狩(ふじわらのあさかり、正四位下・参議、仲麻呂の乱で戦没)
など

妻:大伴氏(大伴犬養の娘)
息子:藤原刷雄(ふじわらのよしお、正五位下・図書頭、仲麻呂の乱以降も存命)
など

妻:陽候女王(やこじょおう・新田部親王の娘)
息子:藤原辛加知(ふじわらのしかち、従五位下・越前守、仲麻呂の乱で戦没)

※生母不明
息子:藤原小湯麻呂(ふじわらのおゆまろ、従五位上・丹波介、仲麻呂の乱で戦没)
息子:藤原薩雄(ふじわらのひろお、従五位下・右虎賁率、仲麻呂の乱で戦没)
息子:藤原執棹(ふじわらのとりさお、従五位下・美濃守、仲麻呂の乱で戦没)
娘:藤原東子(ふじわらのとうし、平安時代にかけて生存)
など

兄:藤原豊成
弟:藤原乙麻呂・藤原巨勢麻呂・藤原南殿

氏名は長年「藤原仲麻呂(仲麿・仲丸との表記も)」でしたが、淳仁天皇の時代に唐風の名前を名乗って「藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)」となりました。

藤原仲麻呂は、藤原不比等の長男である藤原武智麻呂の次男として生まれ、その後複数の妻と多数の子をもうけました。子女については生年不詳の場合も多く、かなりの数が藤原仲麻呂の乱で死没していることから、詳細ははっきりしていない点もあります。

年表・略歴

706年(慶雲3年)藤原不比等の長男である藤原武智麻呂の次男として生まれました。
若い頃より学問などに秀でた存在であったとされ、内舎人・大学少允といった官職で経験を積みました。
734年(天平6年)従五位下に昇叙されました。
739年(天平11年)従五位上に昇叙されました。翌年には正五位下、正五位上と更に昇進を重ねます。
741年(天平13年)従四位下に叙せられたのち、民部卿となり、各種の施策を担当しました。
743年(天平15年)従四位上・参議となり公卿の仲間入りを果たします。また、平城京内の左京を管轄する左京大夫に就任しました。
745年(天平17年)正四位上に叙位され、近江守も兼任することになりました。
746年(天平18年)従三位に叙位され、人事などを司る式部卿・東山道鎮撫使といった要職を務めます。
748年(天平20年)正三位に昇叙されました。
749年(天平勝宝元年)孝謙天皇即位の折に、大納言へ飛び級で昇進し、紫微中台(しびちゅうだい)の長官(紫微令)と、中衛大将を兼任するに至ります。
なお、紫微中台とは孝謙天皇の後見人である光明皇太后の意を受けて設置された政治・軍事組織であり、事実上仲麻呂が独自の政治権力を握る基盤として機能しました(同じ藤原氏の系譜にあたる光明皇后は長年仲麻呂との関係が深く、政治的にも重用し続けました)。
750年(天平勝宝2年)従二位に昇叙されました。また、朝廷に関する業務を司る中務省のトップである中務卿に就任しました。
757年(天平宝字元年)対立していた橘奈良麻呂がクーデターを計画していたことが判明(橘奈良麻呂の乱)し、多数の関係者が厳罰に処せられました。不比等は結果として自らの対立陣営を滅ぼすことに成功します。
758年(天平宝字2ねん)孝謙天皇から淳仁天皇へと譲位されたことを契機に、仲麻呂は独自の政治を行う範囲を広げます。特筆すべきものとしては官名を中国風(唐風)に変更させるといった「唐風政策」を推進し、自らも藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)と名乗るようになりました。また雑徭の削減や庶民の苦しみを問うとして「問民苦使」を派遣するなど、比較的寛大な政策を行いました。
759年(天平宝字3年)仲麻呂は、新羅の使節が無礼をはたらいたとして、新羅への大規模な出兵を計画しますが、孝謙上皇との不和が露呈し始めており、その関係で計画は実行されずに終わりました。
760年(天平宝字4年)従一位に昇叙されました。
762年(天平宝字6年)位階の最高位である正一位に昇叙されました。生前に正一位に昇叙される例は多くなく、藤原不比等・藤原武智麻呂・橘諸兄など少数に限られています。
764年(天平宝字8年)9月、孝謙天皇・道鏡に対抗して事実上のクーデターを引き起こそうとしますが、事前に情報が漏れていたことなどもあり失敗し、官軍に追い詰められて一族とともに戦死しました。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)とは?

奈良時代最大規模のクーデター未遂事件として知られる「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」。この大きな歴史的事件はどのようなものだったのでしょうか。

背景・要因

乱が発生した原因・歴史的背景については、非常に大まかに言うと、以下の内容に集約されます。

孝謙上皇が次第に僧侶である「道鏡」を寵愛するようになり、政治的決定などに道鏡を重用するようになった。

道鏡と孝謙上皇の関係を仲麻呂や当時の淳仁天皇が批判したところ、上皇が逆上し自らを最高権力者と言い張って仲麻呂らの政治基盤を脅かすようになり、対立が深まった。

絶大な権勢を振るう自らの基盤を守りたかった仲麻呂が、孝謙上皇と道鏡らを排除しようとクーデターを計画し、実行した。

このような流れで起こったものであり、孝謙上皇・道鏡陣営VS藤原仲麻呂陣営という非常にわかりやすい対立の図式がありました。

なお、当時の天皇は淳仁天皇であり、天皇は仲麻呂の計画には協力しませんでしたが、元々の関係性・系譜としてはかなり「仲麻呂寄り」の存在でした。

失敗に終わった原因

もっとも、結論から言うとこのクーデターは結果として失敗し、未遂に終わったどころか藤原仲麻呂を含む一族は事実上滅亡するという悲惨な結果を生みました。

なぜ失敗に終わったのかというと、大まかに言うと以下のよう流れに集約されます。

1.仲麻呂は軍事力で上皇の陣営を圧倒しようと、新しく出来た官職「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に就任し、本来必要な数を上回る兵士を勝手に集めてクーデターの準備を開始しました。

2.しかしながら、仲麻呂のクーデター計画(兵士を集めていることを事実上知っていた周囲の人物(高丘比良麻呂ら)が自らに責任が及ぶのを恐れて孝謙上皇側に密告を行います。

3.孝謙上皇側には、何度も密告が行われ「クーデター計画」は筒抜けになっていました。そのため、天皇としての権力を発動するために必要な鈴印(御璽と駅鈴)を手元に取り戻そうとします。

4.慌てた仲麻呂は息子の訓儒麻呂を派遣して奪い返しますが、上皇側も負けじと軍勢を送り、交戦が開始されます。結果訓儒麻呂は戦死し、守勢に立つことになります。

5.上皇側は吉備真備を征伐軍のトップに就け、平城京から脱出した仲麻呂を追い詰めるためにあらゆる手段を尽くします。仲麻呂はまず近江国へ逃亡して再起を図ろうとしますが、勢多橋(瀬田の唐橋)を真備が派遣した軍勢に封じられて行く手を阻まれます。

6.近江国への進軍を阻まれた仲麻呂陣営は、現在のJR湖西線沿いにあたる琵琶湖西岸を通って息子の辛加知が国司である越前国へ逃げようとします。また、天武天皇の孫であり仲麻呂陣営の「塩焼王」を「今帝」である=天皇であるとして自らの正当性をアピールします。

7.越前国へ入ろうとした仲麻呂陣営ですが、越前国司であった息子の辛加知は官軍によって既に征伐され、越前国の入口にあたる愛発関にも軍勢が構えており、入国することは出来ず再び逆戻りをする形で現在の滋賀県高島市付近に追い込まれ、琵琶湖上に逃げようとしますが、一族や氷上塩焼らとともに坂上石楯に打ち取られて亡くなりました。

終結後の影響

恵美押勝の乱は、当初は勝ち誇っていた藤原仲麻呂の圧倒的敗北に終わったクーデター未遂事件でしたが、仲麻呂自身が亡くなったことに留まらず、当時の政治的流れにも大きな影響を及ぼすものでした。

まず、乱によって仲麻呂の息子らは大半が戦死し、仲麻呂一族はごく一部を除き事実上滅亡しました。仲麻呂と関係の深い皇族・貴族なども流罪、官位剥奪といった処罰を受け、政治的な構図が大きく変わることになりました。

また、当時の淳仁天皇は、元から「仲麻呂寄り」の存在であったことから、今回の乱には直接関わっていなかったとされるにも関わらず、孝謙上皇の軍勢に包囲されて天皇を廃位・淡路島へ流罪とされ、その後逃亡を図り不審な形で亡くなるという悲劇も起こりました。

結果としては、孝謙上皇が再び「称徳天皇」として再度即位(重祚)する形で「独り勝ち」をする結果となり、上皇が寵愛してきた僧侶「道鏡」の政治的権力も高まっていくことになりました。

まとめ

藤原仲麻呂は、藤原不比等の長男である藤原武智麻呂を父親に、阿部貞媛を母親にもつ人物であり、その出自の良さや能力の高さもあり、奈良時代の中盤に急速に昇進を重ね、孝謙天皇の即位以降は光明皇太后の後ろ盾もあり、事実上政治の実権を握るなど権勢を振るいました。

権力を握り続けてきた仲麻呂ですが、後ろ盾である光明皇后の死後は孝謙上皇との関係性の悪化が目立つようになり、孝謙上皇が僧侶「道鏡」を寵愛・政治的に重用するようになると一層関係は悪化し、仲麻呂の権力基盤をも脅かすようになっていきました。

脅威を感じた仲麻呂は、孝謙上皇・道鏡陣営を一掃しようとクーデターを計画します。自ら「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」として兵力を勝手に集めて準備を整えますが、連座を恐れた周囲の人物が孝謙上皇に密告していたことから、上皇側により事前に察知され、戦闘となりますが追い込まれ、近江国・越前国へ逃亡を図ったものの、琵琶湖上で討ち取られる結果となりました。

藤原仲麻呂の乱の失敗は、仲麻呂が亡くなったことに留まらず、これまで権勢を振るってきた仲麻呂陣営の滅亡・権力の剥奪淳仁天皇の廃位と配流孝謙上皇が称徳天皇として再即位道鏡とともに独裁的な権力を振るう契機となるなど、奈良時代の政治の大きなターニングポイントとなりました。