奈良時代後半の歴史において、大いに権勢を振るいながらも最後にはクーデターを起こし敗北した人物として知られる「藤原仲麻呂」。こちらのページでは、その仲麻呂の生涯について、歴史的事件である「恵美押勝の乱」の流れを中心に当時の歴史的背景なども見ながらなるべくわかりやすく解説していきます。
系譜
藤原仲麻呂は、藤原不比等の長男である藤原武智麻呂の次男として生まれ、その後複数の妻と多数の子をもうけました。子女については生年不詳の場合も多く、かなりの数が藤原仲麻呂の乱で死没していることから、詳細ははっきりしていない点もあります。
年表・略歴
706年(慶雲3年) | 藤原不比等の長男である藤原武智麻呂の次男として生まれました。 |
若い頃より学問などに秀でた存在であったとされ、内舎人・大学少允といった官職で経験を積みました。 | |
734年(天平6年) | 従五位下に昇叙されました。 |
739年(天平11年) | 従五位上に昇叙されました。翌年には正五位下、正五位上と更に昇進を重ねます。 |
741年(天平13年) | 従四位下に叙せられたのち、民部卿となり、各種の施策を担当しました。 |
743年(天平15年) | 従四位上・参議となり公卿の仲間入りを果たします。また、平城京内の左京を管轄する左京大夫に就任しました。 |
745年(天平17年) | 正四位上に叙位され、近江守も兼任することになりました。 |
746年(天平18年) | 従三位に叙位され、人事などを司る式部卿・東山道鎮撫使といった要職を務めます。 |
748年(天平20年) | 正三位に昇叙されました。 |
749年(天平勝宝元年) | 孝謙天皇即位の折に、大納言へ飛び級で昇進し、紫微中台(しびちゅうだい)の長官(紫微令)と、中衛大将を兼任するに至ります。 なお、紫微中台とは孝謙天皇の後見人である光明皇太后の意を受けて設置された政治・軍事組織であり、事実上仲麻呂が独自の政治権力を握る基盤として機能しました(同じ藤原氏の系譜にあたる光明皇后は長年仲麻呂との関係が深く、政治的にも重用し続けました)。 |
750年(天平勝宝2年) | 従二位に昇叙されました。また、朝廷に関する業務を司る中務省のトップである中務卿に就任しました。 |
757年(天平宝字元年) | 対立していた橘奈良麻呂がクーデターを計画していたことが判明(橘奈良麻呂の乱)し、多数の関係者が厳罰に処せられました。不比等は結果として自らの対立陣営を滅ぼすことに成功します。 |
758年(天平宝字2年) | 孝謙天皇から淳仁天皇へと譲位されたことを契機に、仲麻呂は独自の政治を行う範囲を広げます。特筆すべきものとしては官名を中国風(唐風)に変更させるといった「唐風政策」を推進し、自らも藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)と名乗るようになりました。また雑徭の削減や庶民の苦しみを問うとして「問民苦使」を派遣するなど、比較的寛大な政策を行いました。 |
759年(天平宝字3年) | 仲麻呂は、新羅の使節が無礼をはたらいたとして、新羅への大規模な出兵を計画しますが、孝謙上皇との不和が露呈し始めており、その関係で計画は実行されずに終わりました。 |
760年(天平宝字4年) | 従一位に昇叙されました。 |
762年(天平宝字6年) | 位階の最高位である正一位に昇叙されました。生前に正一位に昇叙される例は多くなく、藤原不比等・藤原武智麻呂・橘諸兄など少数に限られています。 |
764年(天平宝字8年) | 9月、孝謙天皇・道鏡に対抗して事実上のクーデターを引き起こそうとしますが、事前に情報が漏れていたことなどもあり失敗し、官軍に追い詰められて一族とともに戦死しました。 |
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)とは?
奈良時代最大規模のクーデター未遂事件として知られる「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」。この大きな歴史的事件はどのようなものだったのでしょうか。
背景・要因
乱が発生した原因・歴史的背景については、非常に大まかに言うと、以下の内容に集約されます。
このような流れで起こったものであり、孝謙上皇・道鏡陣営VS藤原仲麻呂陣営という非常にわかりやすい対立の図式がありました。
なお、当時の天皇は淳仁天皇であり、天皇は仲麻呂の計画には協力しませんでしたが、元々の関係性・系譜としてはかなり「仲麻呂寄り」の存在でした。
失敗に終わった原因
なぜ失敗に終わったのかというと、大まかに言うと以下のよう流れに集約されます。
1.仲麻呂は軍事力で上皇の陣営を圧倒しようと、新しく出来た官職「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に就任し、本来必要な数を上回る兵士を勝手に集めてクーデターの準備を開始しました。
2.しかしながら、仲麻呂のクーデター計画(兵士を集めていることを事実上知っていた周囲の人物(高丘比良麻呂ら)が自らに責任が及ぶのを恐れて孝謙上皇側に密告を行います。
3.孝謙上皇側には、何度も密告が行われ「クーデター計画」は筒抜けになっていました。そのため、天皇としての権力を発動するために必要な鈴印(御璽と駅鈴)を手元に取り戻そうとします。
4.慌てた仲麻呂は息子の訓儒麻呂を派遣して奪い返しますが、上皇側も負けじと軍勢を送り、交戦が開始されます。結果訓儒麻呂は戦死し、守勢に立つことになります。
5.上皇側は吉備真備を征伐軍のトップに就け、平城京から脱出した仲麻呂を追い詰めるためにあらゆる手段を尽くします。仲麻呂はまず近江国へ逃亡して再起を図ろうとしますが、勢多橋(瀬田の唐橋)を真備が派遣した軍勢に封じられて行く手を阻まれます。
6.近江国への進軍を阻まれた仲麻呂陣営は、現在のJR湖西線沿いにあたる琵琶湖西岸を通って息子の辛加知が国司である越前国へ逃げようとします。また、天武天皇の孫であり仲麻呂陣営の「塩焼王」を「今帝」である=天皇であるとして自らの正当性をアピールします。
7.越前国へ入ろうとした仲麻呂陣営ですが、越前国司であった息子の辛加知は官軍によって既に征伐され、越前国の入口にあたる愛発関にも軍勢が構えており、入国することは出来ず再び逆戻りをする形で現在の滋賀県高島市付近に追い込まれ、琵琶湖上に逃げようとしますが、一族や氷上塩焼らとともに坂上石楯に打ち取られて亡くなりました。
終結後の影響
恵美押勝の乱は、当初は勝ち誇っていた藤原仲麻呂の圧倒的敗北に終わったクーデター未遂事件でしたが、仲麻呂自身が亡くなったことに留まらず、当時の政治的流れにも大きな影響を及ぼすものでした。