山上憶良はどのような人物か【貧窮問答歌】

基礎知識・お役立ち情報

歴史のみならず国語の授業の「文学史」でも奈良時代の人物は「歌人」として多数登場しますが、その中でもやや異色の歌風を持つ人物としては「山上憶良(やまのうえのおくら)」が挙げられます。

こちらでは、山上憶良の経歴や歌風(和歌の特徴)など、基礎知識と言える内容について簡潔に見ていきたいと思います。

何をした人?人物像は?

奈良時代きっての「社会派」歌人として有名

山上憶良は、一般に日本最古の和歌集である『万葉集』に複数の和歌が収録されているなど奈良時代の初頭に活躍した「歌人」として知られる人物で、奈良時代全体を見てもその時代を代表する歌人の一人となっています。

当時の和歌と言えば、風景を詠んだものや宮廷社会の日常、個々の物思いなどについての歌が多くなっており、一般に現代の短歌であるような社会的な・時事的な題材や批評性を帯びた歌が多かった訳ではありません。

そんな中で山上憶良は一線を画し、様々なテーマの和歌も詠む一方、農民や九州に派遣された防人、貧しい家族の姿といった貴族とは異なる「一般庶民」の姿についてそのリアルな姿を和歌に詠みこむという「社会派」とも言える独自の歌風も作り上げました。

代表的なものとしては、地方で過酷に税を取り立てられる民衆の姿・困窮する家族の姿を詠み込んだ『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』があり、食事も取れず、もはや何もなすことができない地獄のような生活状況が比較的直接的な、わかりやすい言葉ではっきりと表現されています。

本人は貴族階級・役人、遣唐使派遣歴も

この時代にはやや珍しく、社会に生きる様々な階層の人々へも目を向けた山上憶良ですが、本人の経歴自体は決して貧しいといったものではなく、山上氏と呼ばれる皇別氏族(臣籍降下をした旧皇族)にルーツを持つ当時の社会では貴族(下級貴族)に位置づけられるある程度は「上流階級」の人物で、晩年は役人として朝廷・各地方行政などに関する職務を果たしました。

なお、経歴全体を見ると山上憶良自身は役人としては特別に出世した存在とは言えず、長らく主要な官職を得ることなく過ごし、50代になりようやく役人としてある程度の地位を得た人物となっています。一方で、奈良時代の初頭に遣唐使として派遣されるなど、儒学・仏教文化など唐からの知識を数多く吸収する機会には恵まれており、このような経験が深みのある和歌を生み出す上で大きな役割を果たしたとも考えられます。

山上憶良の「主要な和歌」

『万葉集』に80近くもの和歌が収録されている山上憶良は、上述した庶民の苦しみなどに対するまなざしの他にも、様々な和歌を詠んでいます。特に「子供」をうたったものや、「七夕」をうたったものなどが広く知られています。

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』5巻893)

瓜食めば 子供念ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』5巻802)

風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩着ぬ 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか ながよはわたる(『貧窮問答歌』)

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ(『万葉集』1巻163)

天の川 いと川波は 立たねども さもらひかたし 近きこの瀬を(『万葉集』8巻1524)

秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』8巻1537)

系譜・経歴

父母など詳細は不明
出自は「山上氏」と呼ばれる氏族(春日氏の系列で、粟田真人などとも同族にあたる)にルーツを持つとされています。山上氏は皇族から臣籍降下した皇別氏族の一つとされ、山上健豆(やまのうえのたけず)などの先祖を持ちます。

660年(斉明天皇6年):この頃誕生したとされますが、詳細は不明となっています。
702年(大宝元年):遣唐使として唐に派遣され、現地で学問(儒学や仏教)に励みました。
714年(和銅7年):正六位下から従五位下に昇叙となりました。
716年(霊亀2年):伯耆守に任命されました。
721年(養老5年):首皇子(のちの聖武天皇)の侍講(じこう)として学問を教える役割に就くことにもなりました。
726年(神亀3年):筑前守に任命され、こののち大友旅人とともに地域性豊かな和歌を数多く残しました(一般に「筑紫歌壇」と呼ばれる)。
733年(天平5年):この頃亡くなったとされますが、詳細は不明となっています。