遣唐使とは?その目的・成果・歴史などをわかりやすく解説

各種お役立ち情報

奈良時代(または飛鳥時代・平安時代)などの歴史用語として最も知られた存在の一つ「遣唐使」。こちらはその名の通り当時の中国を治めていた国家「唐」に「使節」を「派遣」するというものです。

こちらの記事では、遣唐使について、その目的や成果・歴史的経過、関係した主な人物などについて、なるべくわかりやすく解説していきたいと思います。

遣唐使の目的・成果

当時のの中国に海を渡って使者を派遣する「遣唐使」。

その目的は、基本的に技術・制度・仏教文化などが発達した当時の中国大陸から、それらを学び取り日本に持ち帰ることが目的とされました。

また、日本から朝貢品を持っていき、唐側から「回賜(かいし)」という返礼品をもらって持ち帰るという「交易」としての側面もありました。

遣唐使で派遣された使節や留学生などが、中国の文物や制度を学んで日本に持ち帰るなどし、実際に飛鳥時代の後半から奈良時代にかけては、中国の制度などに基づいて日本でも本格的な律令制度(律・令と呼ばれる法律に基づく国家運営)が制定され、各種の学問も中国文化を基本とする形で発展していきました。

また、唐の都市づくりを参考にして平城京などが計画・建設され、奈良時代の建築などは中国の影響を受けたものとなるなど、目に見えるものも含め、文化のあちこちに唐からの直接的影響が見られました(もちろん、細かい部分や実際の運用などは、日本の現状に即したものとなっている部分も多かったようです)。

仏教についても、唐から最新の経典などがもたらされ、有名な「鑑真」は遣唐使船に密航する形で日本へ渡来したほか、日本からも空海らの行き来もあったなど、奈良時代から平安時代初期にかけての仏教の発展に大きな影響を与えました。

遣唐使(遣隋使)の歴史・期間・回数

遣唐使が開始される前には、そのまえの中国王朝である「隋」に派遣する「遣隋使」がありました。

その後隋が滅び唐へと変わったため、遣唐使としては630年(舒明天皇2年)の初回以降、概ね平安時代の前半までの約200年間に渡って続きました。

遣唐使が派遣された回数については、必ずしも確定された数字がある訳ではなく、12回とも、14回・16回・20回とも歴史学的な様々な見解があります。

派遣の歴史をざっくりと見ると、概ね以下のような流れになります(わかりやすくするために、詳細な内容は割愛しています)。

初回(630年)

唐に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを派遣し、帰国時には唐の使節である高表仁(こうひょうじん)が日本へやってきますが、日本と中国の立場(中国の下に仕える冊封国であるかないか)などで議論・交渉がうまくいかなかったことが示唆されており、「失敗」に終わったと考えられています。

その後は20年ほど関係が断絶され、遣唐使はしばらく派遣されませんでした。

緊張の時代(653年~)

20年ほど経ってから、653年(白雉4年)に遣唐使は再開されました。この時点ではどうやら日本と中国の上下関係はうやむやにされていたようで、669年(天智天皇8年)までの間に、短期間に6回もの遣唐使が派遣されています。

当時は朝鮮半島をめぐって百済・新羅の対立が激化し、日本は新羅を支援する唐と、伝統的な友好国であった百済との板挟みとなり非常に難しい立場に置かれます。663年の白村江の戦いでは、百済を守るために新羅・唐の連合軍と戦火を交えるなど、唐とは実質的な敵対関係に陥った時期もありました。

頻繁に遣唐使が派遣された背景には情報収集や朝鮮半島情勢を巡る関係性(日本本土への攻撃を防ぐ)の問題などがあり、決して「仲が良かった」からではありません。

なお、669年の派遣以降は、671年に唐の軍勢が筑紫国に一時的に駐留する騒動が起きますが、その後は唐と新羅の関係性の変化や壬申の乱の発生、国内の安定を優先したことなどもあり、30年程度に渡り派遣は行われませんでした。

安定の時代(704年~)

704年には30年以上の間を置いて、8回目の遣唐使は朝廷での格も高い粟田真人らが、文武天皇から大権の象徴でもある「節刀」を授けられる形で派遣され、唐との関係改善の足掛かりになるものでした。当時は唐を取り巻く国際情勢もあり、日本側の使節は概ね歓迎を受けたようで、以降は定期的な交流が図られるようになります。

717年(養老元年)にはよく知られる阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らが派遣され、仲麻呂は帰国せずに唐の高官として一生を終えたほか、吉備真備・玄昉も733年(天平5年)までの間長期に滞在し、大量の経典や典籍などを携えて帰国しています。

752年(天平勝宝4年)の遣唐使では、長安で当時の唐皇帝の玄宗に使節らが拝謁する機会を得ています。なお、この際に阿倍仲麻呂が帰国に失敗(難破して中国に戻る)したほか、鑑真は事実上密航する形で長年の願いであった日本への渡来を成し遂げることになりました。

遣唐使衰退と終焉(9世紀)

平安時代に入ってからは、804年(延暦24年)の遣唐使では一時海賊に間違えられるなどのトラブルはあるも、唐から手厚い歓待を受けたほか、空海・最澄が派遣され仏教教学の研究に勤しみ、日本に本格的な密教文化を伝えることになるなど、当初は依然重要な意味を持つものでした。

しかし、その後しばらく派遣が行われないうちに航海技術や船舶技術などに衰えが見えたのか、835年(承和5年)の遣唐使は複数回渡航失敗に終わり、その意義や現実性などに疑問符が示されるようにもなります。

838年(承和5年)にはようやく遣唐使が派遣され、約35年ぶりに唐と日本の公式的つながりが生まれますが、この際も乗船拒否騒動や航海ルートを巡る対立などがあったほか、かつては唐が手当てをしていた留学生の待遇が失われ、丁重な扱いを受けなくなるなど、環境面での変化も顕著になります。

そもそも、この時期以降は唐が国家の統制下とは言え民間の貿易を認めるようになっていくため、唐からの物的なつながりは遣唐使以外のルートも確保され、存在意義は薄れていきました。結果、894年(寛平6年)に計画された遣唐使が取りやめられ、その後唐が滅亡したことで、遣唐使の歴史は名実ともに終わりを迎えることになりました。

派遣された人数・人物について

長期間の航海や現地滞在を前提とする遣唐使は、必ずしも地位の高い使者だけが派遣されたのではなく、様々な日常業務に携わる存在も含め、多いケースでは総勢500人単位が渡航するかなり大がかりなものでした。

例えば、乗船した人を主な職種別に分けと、施設や留学生といった遣唐使本体のほか、医師や船の操縦に関わる人々など、以下のような多岐に渡る職種の人々が乗船していたとされています。

大使(トップ)・副使(2番目の地位)・判官・録事(書記・議事録を取る担当)・知乗船事(航海長)・訳語生(日中通訳)・請益生(短期留学の学僧)・主神(神をお祀りする担当)・医師・陰陽師(占い担当)・絵師(絵を描く担当)・史生(記録係)・射手(射撃手・武装担当)・船師・音声長・新羅訳語生(新羅語通訳)・奄美訳語生(奄美語通訳)・卜部(占い担当)・留学生・学問僧・従者・雑使・音声生・玉生(玉を加工する担当)・鍛生(鍛冶師)・鋳生(鋳物師)・細工生・船匠・舵師・舵とり・水手長・水手

また、派遣された・渡来した主な有名人物は以下の通りです。

阿倍仲麻呂(ふじわらのなかまろ)717年に渡航、以降唐で高級官僚として出世。753年に帰国に失敗し、唐で一生を終えました。
吉備真備(きびのまきび)717年に渡航、733年に帰国するまでに学問を究め、様々な典籍を持ち帰ったことで知られます。752年にも渡航、帰国後は高齢で右大臣も務めています。
玄昉(げんぼう)717年に渡航、733年の帰国時には多数の経典などを持ち帰ったことで知られます。日本に法相宗(興福寺)を伝えた人物として有名ですが、様々な奇妙なエピソードも残されています。
空海(くうかい)いわゆる「弘法大師」として有名な僧は、804年に渡航、2年に帰国する中で唐の仏教を学び、その後真言密教の開祖としてその基盤の強化に努めました。
最澄(さいちょう)空海と同時期に唐に派遣され、密教文化を日本に伝える役割を果たし、天台宗の開祖としてその基盤の強化に努めました。
山上憶良(やまのうえのおくら)701年の遣唐使で派遣され、唐の文化を広く学んで帰国します。その後は奈良時代前半を代表する歌人の一人として名を残しました。
鑑真(がんじん)遣唐使として唐に渡った僧侶である栄叡・普照らから日本で仏教伝道をすることを要請され、複数回渡航を試みるも失敗し、753年に実質的に密航に近い形で日本に渡ります。その後は日本での仏教戒律の確立を果たし、唐招提寺を創建しました。

日本側の立場と中国側の立場

遣唐使というものは、日本側が中国の文化を学ぶために唐に使節を派遣する。という基本的な構図がありますが、日本側としては必ずしもそこに「上下関係」はなく、唐と日本側が「対等」な関係でやり取りをしていた。という立場を建前上は取っていたようです。

一方で、中国の唐側としては、世界の中心であり最も偉大な国家であるという中華思想に基づき、自らは「ボス=宗主国(そうしゅこく)」として振舞い、日本の朝廷を格下の「冊封国(さくほうこく)・朝貢国(ちょうこうこく)」として取り扱っていたという歴史も残されています。

特に遣唐使の序盤ではこの関係性がぎくしゃくし、舒明天皇の時代には中国側へ冊封の関係を拒否したことがあったと推定され、一時的に関係が断絶していた時期や中国側からの影響が少ない時期もあったようです。また、その後も朝鮮半島情勢を巡って敵対的な関係になり、しばらくの間は難しい状況が続きました。

しかし、飛鳥時代の終わりからはそれぞれの姿勢が軟化したこともあり状況は安定し、奈良時代にかけては文化的交流を中心に比較的活発なつながり、やり取りが行われるようになりました。当時の関係性は、日本と中国の「立場」に加え、朝鮮半島の情勢や中国の国内情勢などにも大きく左右されていたと考えられます。

遣唐使に使われた「船」は?危険性は?

遣唐使は東シナ海を越えて中国大陸へ赴くという任務を果たすためには、船で海を渡らなければなりません。また、総勢500人規模に及ぶ規模となりますので、船は4隻単位で運航されるなど、船団方式となっていましたが、命の危険とは隣り合わせものもでした。

但し、遭難については例えば船団全体が全滅したり、毎度のように必ず船が沈没していたといったような悲惨な状況ではなく、全体で10回以上・船の数にして40隻以上の規模の中で、概ね数隻程度の喪失であったと推定されています。

遣唐使の危険性については、当時の技術や航海のレベルを考慮すれば、過剰にイメージするほどではないが、一定の命の危険がある勇敢な渡航であった。という解釈が無難であるように思われます。

もっとも、今のようにGPSはおろか、羅針盤すらない時代ですので、遭難しなくても「どこにたどり着くかはその時の流れ」であり、到着時も帰国時も漂着のような形であったことは否定できません。

船のデザインや技術については、確実な歴史史料が残っているとは言い難い状況で、どのような船であったのかは、はっきりとはわかりません。

復原された遣唐使船は奈良の平城宮跡(朱雀門ひろば)で現在展示されているほか、かつての上海万博でも披露されたことがあります。なお、いずれも当時の様々な歴史史料を参考にイメージしたものであり、船の設計図その他に基づいて復原したものではありません。

まとめ

遣唐使(けんとうし)は、当時の日本の朝廷が、中国(唐)から先進的な技術や文化などを取り入れるために派遣した使節です。飛鳥時代の当初は関係が緊張する時期もありましたが、奈良時代には文化的交流が活発になり、仏教の経典をはじめ様々な唐由来の文化が持ち込まれ、日本で定着していきました。

遣唐使の期間は630年から約200年に渡り続き、その間12~20回程度の渡航があったと推定されています。渡航に当たっては最大4隻の船団で、500人以上の規模と大所帯で唐へ渡りました。航海は命の危険が伴うもので、数回程度の遭難もありましたが、イメージされるほど頻繁に渡航に失敗していた訳ではありません。

派遣された有名な人物としては阿倍仲麻呂・吉備真備・空海・最澄などがおり、奈良時代の仏教史上最も重要な人物である鑑真は、逆に遣唐使船で唐から日本に渡った人物として知られています。