奈良時代に存在した組織であり、一般に宮殿一帯の警備や天皇の身辺警護を担っていたとされる「五衛府(ごえふ)」。こちらでは、その組織の構図や変遷など、ごく基本的な内容を説明していきます。
何が「五」なの?
五衛府という名称は、その名の通り「五つ」の組織が集まった集合体として呼ばれているものです。
五つの警護組織を持つということは、奈良時代の国家運営の柱である「律令制度」に基づくもので、当時の行政の仕組みなどを定めた大宝律令で上記の五衛府を有することが定められていました。
それぞれの任務は?
五衛府というものは、総称すれば宮殿一帯の警備・天皇の身辺警護を行っていた組織と言うことができますが、それぞれの府によってその任務の内容や担当エリア、また出自なども異なる側面がありました。
具体的な特徴としては、衛門府については律令制に基づく国家が成り立つ前から存在した宮殿の門を警備する「門部(かどべ)」と呼ばれる武人の職能集団に由来するもので、その名の通り「門」の警護を中心とするという点が挙げられます。
また、衛士府は庶民から集められた衛士などを中心に宮殿の外側などの警備に広くあたり、兵衛府については国造・郡司などいわゆる地方の有力者・豪族の子息から選抜したある種のエリートが、宮殿の内側を警備するという役割を主に果たしたとされています。
歴史・変遷は?台頭する近衛府
一般に「五衛府」と呼ばれる存在は、律令制に定められた事実上の軍事組織として奈良時代以降一定の役割を果たしました。
一方で、歴史的な変遷を見ると、常に同じような組織として安定的に機能していたかというと、その限りではない場合もあったと言えます。
例えば、宮殿一帯の警護を担っていたとされる組織には、この五衛府だけではなく、律令制に定められていない「令外官(りょうげのかん)」として、「授刀舎人寮(たちはきのとねりりょう)」というものが奈良時代の当初よりありました。
これは主に兵衛府の任務内容と一部重複する点があったともされますが、728年(神亀5年)にはこれを「中衛府(ちゅうえいふ)」という組織に変え、746年(天平18年)には騎舎人と呼ばれる官職を改めて授刀舎人寮を復活させ、その後「授刀衛」と呼ばれる組織へと発展していきます。
授刀衛はその後765年(天平神護元年)には近衛府と名を変え、平安時代に入ってからの807年(大同2年)には近衛府を左近衛府、存続してきた中衛府を右近衛府とする形になりました。
また、その流れで衛士府と衛門府を統合し、最終的に811年(弘仁3年)には左右の衛門府にまとまる形となり、そこに左右近衛府が加わる形で、「左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府」の「六衛府」制へと変化することになりました。
平安時代に入っていくと、警護という武装・軍事色の強い内容から、とりわけ近衛府の任務はより儀式的な、格式を重視した内容に変化していき、儀仗兵としての性質を帯びた存在がはじめて成立するようになったともされています。
なお、これらの仕組みの一部はほとんど形骸化していった側面はあるとは言え、鎌倉時代以降の中世、また江戸時代においても存続し、名誉職・武士としての官位としては残り続けました。