奈良時代に即位された天皇陛下の中で、唯一途中でその皇位から降ろされ、その後悲劇的な形で亡くなったという経歴を持つ「淳仁天皇」。こちらのページでは、淳仁天皇の人物像や系譜・経歴など基本的な知識について解説していきます。
どのような人物?
藤原仲麻呂と強い関係を築く
淳仁天皇は、天武天皇の皇子である「舎人親王(とねりしんのう)」の七男として誕生した人物です。遅く生まれた上に父親の舎人親王が早くして亡くなったこともあり、当初は皇位継承者とは目されていませんでした。
しかし、孝謙天皇が即位された後、新田部親王の子である道祖王が皇太子となったものの、すぐに素行の悪さといった事情を天皇から批判されてその座から降ろされるという事件が発生します。そして、その後継となる皇太子として白羽の矢が立ったのはこの淳仁天皇でした。
この時期には、天皇のみならず光明皇后を庇護者とする形で「藤原仲麻呂」が権勢を振るい始めており、詳細は不明ですが、淳仁天皇の擁立にも仲麻呂が深く関わっていたとも考えられます。
どういう過程でここまで深いつながりを持ったかははっきりしていない部分もありますが、皇太子時代・後の天皇としての時代においても、仲麻呂との関係とは切っても切れないもので、仲麻呂の権力も時を重ねるごとに一層強くなっていきました。
天皇に在位中の淳仁天皇は、積極的な親政を行った訳ではなく、仲麻呂が実質的な政治力を握っていたと考えられ、当時行われた各官職の名称を中国の唐に倣った表現に変える「唐風政策」なども、仲麻呂が自ら「恵美押勝」を改名するなど主導的に行ったものでした。
孝謙上皇との不仲
光明皇后の看病などを理由に758年(天平宝字2年)に天皇の地位を淳仁天皇に譲位した孝謙上皇は、その後761年に自らも病に倒れ、その際に宮中に出入りする僧侶「道鏡」の看病を受けた結果治癒に向かったことから、道鏡を「一番のお気に入り」として重用・寵愛するようになります。
しかし、孝謙上皇はそれに逆上され、「国家の重要な決定などは自らが行い、淳仁天皇は儀式的な役割だけ果たしておけばよい」と言った形で自らが政治的権力の頂点であることを主張するようになった上、出家して法華寺に居を構えるなど、状況は混迷度合いを強めていきます。
この結果として天皇・仲麻呂と上皇の関係性は著しく悪化し、仲麻呂は道鏡・上皇の権力拡大を大きな脅威と感じるようになり、2人の追放を狙って自らがクーデターを引き起こす「藤原仲麻呂の乱」につながっていくことになりました。
流罪と非業の死
764年(天平宝字8年)9月には、道鏡・孝謙上皇を追放しようとする仲麻呂による「藤原仲麻呂の乱」が発生しますが、クーデターは情報が漏れていたこともあり未遂に終わり、仲麻呂一族は戦死、関係者も流罪など厳しい処罰が加えられました。
結果、淳仁天皇は孝謙上皇陣営の兵士に居宅を取り囲まれ、仲麻呂の乱の翌月である10月には淡路島へ配流(流罪)となります。しかし、淳仁天皇を擁護する勢力なども宮中には残っていたようで、孝謙上皇=称徳天皇側は常に警戒を続ける中、翌765年10月には自ら淡路島からの逃亡を図り、その過程で捕まりその後間もなく亡くなりました。
亡くなった経過については病死とされる一方、称徳天皇側の意を受けた形で命を奪われたともされ、その後は称徳天皇により歴代天皇として取り扱わず「淡路廃帝」と呼ばれ、公式的に慰霊が行われたのは次代の天皇である光仁天皇の時代となってから、更に「淳仁天皇」としての称号が与えられるようになったのは1000年以上経過した明治時代になってからとなっています。
系譜・経歴など
◇御陵について
淳仁天皇陵は、流罪先にあたる淡路島南あわじ市賀集にある淡路陵(あわじのみささぎ)の陵墓が宮内庁により治定されています。