孝謙天皇(称徳天皇)とは?2度即位した女帝についてシンプルに解説

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奈良時代の後半に2度即位し、「道鏡」との関係性や「藤原仲麻呂の乱」への対応など様々な歴史を残す存在である孝謙天皇(称徳天皇)。こちらでは、その生涯や人物像について、基礎知識と言えるポイントを中心になるべく簡単に解説していきます。

系譜

父親:聖武天皇(在位:724年~749年・文武天皇と藤原宮子の皇子)
母親:光明皇后
(藤原不比等と県犬養橘三千代の娘)

同じ母親を持つ弟:基王(1歳で亡くなりました)
異なる母親(※県犬養広刀自)を持つ兄弟姉妹:井上内親王・不破内親王・安積親王(17歳で死去)

諡:阿部(あべ・即位前の名称は「阿部内親王」)
和風諡号:高野姫天皇
この他宝字称徳孝謙皇帝・高野天皇・倭根子天皇とも呼ばれました。

即位への流れ

718年(養老2年)に聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれたのちの孝謙天皇。即位する前は「阿部内親王」と呼ばれ、史上唯一の「女性皇太子」としての存在でした。

父親である聖武天皇には、阿部内親王が生まれてから約10年後に「基王(もとおう)」という皇子が生まれましたが、わずか1歳で夭折(死去)され、その後は光明皇后との間に男児が生まれることはありませんでした。

聖武天皇の夫人としてはこの他県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)がおられ、こちらは井上内親王・不破内親王の2人の皇女のほか、安積親王(あさかしんのう)と呼ばれる皇子が生まれましたが、血筋が当時の有力な「藤原氏」の血統ではなく、結果として藤原氏の系統である光明皇后を母に持つ阿部内親王が738年(天平10年)に史上唯一の女性皇太子となり、皇位継承への道筋を付けることになったのです。

孝謙天皇の時代

皇太子となった阿部内親王は、749年(天平勝宝元年)には父親である聖武天皇から譲位される形で孝謙天皇として即位します。

即位に当たっては、母親である光明皇后が後見人として補佐するような形となりました。光明皇后は、同じ藤原氏一族にあたり、当時政治的地位を上げていた藤原仲麻呂を長年重用しており、紫微中台(しびちゅうだい)と呼ばれる機関を設け、仲麻呂が政治権力を振るう場所を生み出し、孝謙天皇の時代は仲麻呂が権勢を振るった時代でもありました。

なお、退位された聖武上皇は756年(天平勝宝8歳)に崩御され、この際に皇太子として新田部親王の子である道祖王を就けることを遺言に残しますが、孝謙天皇は道祖王が聖武天皇の喪に服する期間もだらしがない振る舞いをしていた。として皇太子の地位を廃し、独自の路線を歩み始めます。

なお、このタイミングで藤原仲麻呂と天皇に対するクーデター未遂「橘奈良麻呂の乱」が発生し、関与した人物が多数処罰されたことで、孝謙天皇と権勢を振るう藤原仲麻呂の力が一層増すことになりました。

上皇の時代・藤原仲麻呂との対立

基盤を強化した孝謙天皇ですが、光明皇太后の看病にあたるという名目で758年(天平宝字2年)には淳仁天皇に譲位し太上天皇となります。

この後、光明皇太后が崩御され、761年には近江国の保良宮にしばらく滞在しますが、ここで上皇自身が病に倒れ、この際に「禅師」として宮中に出入りしていた僧侶「道鏡」によって熱心な看病を受けます。上皇は看病を受けて病気が治ったことに心を打たれたのか、その後道鏡を寵愛するようになり、政治的にも重用しようとします。

突如皇族でも貴族でもない1人の僧侶を特別扱いするようになったことに、権力者である藤原仲麻呂、また淳仁天皇自身も上皇に注意(箴言)を行いますが、孝謙上皇はそれに激怒して法華寺に居住し出家して尼になると表明したり、自らが政治的実権を行使して淳仁天皇は儀式を行うだけの形式的な存在で構わない。と言い放つなど、続日本記にも「高野天皇、帝と隙あり」と記されるほど対立が次第に激化していき、上皇がやや暴走気味とも言える状況に転じていきます。

この対立は、最終的には孝謙・道鏡陣営に自らの権力基盤を脅かされることを恐れた藤原仲麻呂が「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」と呼ばれるクーデター未遂事件を引き起こす結果につながりますが、事前に孝謙上皇に密告がなされていたこと・吉備真備を派遣して徹底した鎮圧を図ったこともあり藤原仲麻呂一族の滅亡・孝謙上皇陣営の実質的な勝利という形で終わりました。

また、この流れで当時上皇と仲が悪かった淳仁天皇も「仲麻呂側の人物」ということで天皇の座から降ろされて淡路島へ流罪となり、不審な形で亡くなるという悲劇的な結末を迎えました。

称徳天皇の時代

当時の淳仁天皇を皇位から降ろしたことで、孝謙上皇は再度実質的な天皇として最高権力者の地位に戻る形になりました(重祚した後は一般に称徳天皇と呼ばれます)。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)や飢饉など、社会が大いに乱れた状況がある現状に対し、称徳天皇は仏教を重視した政治運営を行うことで対応を図ろうとします。

寵愛してきた道鏡は仲麻呂や淳仁天皇といった「反道鏡派」が減った朝廷においては一層重用されるようになり、道鏡は「太政大臣禅師」として僧侶が政治権力のトップに就任し、その後は「法王」として仏教界の頂点に立つなど「称徳・道鏡体制」とも言える環境の中で一時代を築くことになります。

仏教に関わる事績でとりわけ有名なのは、西大寺の造営であり、これについては藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の最中に四天王像の造立を発願し、その後乱が平定されてから像が完成し、西大寺が創建され、その後は現在とは比べ物にならないような大きな伽藍(境内地)が整備されていったとされています。

また、仲麻呂の乱による戦没者を慰霊しする目的などで「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」と呼ばれる100万基もの木製小塔に「陀羅尼経」を一つ一つ収納した物(現存するものも多い)を製作させ、仏教によって国家を守るという「鎮護国家」の象徴的存在となりました。

道鏡をめぐっては、この時代に最も権力を拡大させる一方、弟である弓削浄人が「道鏡を皇位に就ければ社会は安定する」といった「ご神託」を平城京へ送ったことで勃発する「宇佐八幡宮神託事件」により結果として天皇の地位へ就く道筋は断たれます。

称徳天皇は皇太子を指名しないまま770年(神護景雲4年)に崩御されますが、その遺言として(実際には朝廷内の権力関係によって死後に決定された可能性も)光仁天皇が即位することになりました。なお、唯一の後ろ盾と言っても良い天皇の崩御で、道鏡は実質的に失脚し、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に送られます。

人物像

孝謙天皇という存在は、2度即位して様々な権力を振るった存在、そして「怪僧」ともされた「道鏡」を寵愛・重用したことなどもあり、その人間像は苦しい時代を生き抜いた「孤独な女帝」といったイメージ、またはその逆に腐敗した時代を造った。というような否定的なイメージで描かれることも多くなっています。

なお、孝謙天皇は自らに反抗した存在、謀反を企てた人物に「ひどい(卑しい)名前」を命名するというかなり変わった行動を行うことでも知られました。

「橘奈良麻呂の乱」の際には、一時は皇太子にもなった道祖王には惑い者を意味する「麻度比(まどい)」という名前を、宇佐八幡宮神託事件では和気清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という実にわかりやすい「ひどい名前」を命名しています。

これらの意味するところは、当時に生きていない現代の人間にはわからない所ではありますが、一度入れ込むと徹底する。また否定されたら徹底してやり返し、抑え込む。といったような天皇の性格を見て取ることも出来るかもしれませんし、それ故「孤独な存在」として描かれるということにもつながるでしょう。

まとめ

孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれ、当初は「阿部内親王」と呼ばれました。兄弟である「基王(もとおう)」は生まれて間もない時期に亡くなり、他の皇子である「安積親王(あさかしんのう)」は藤原氏の血筋でないことなどから、738年(天平10年)には歴史上唯一の「女性皇太子」となりました。

749年(天平勝宝元年)には聖武天皇から譲位され孝謙天皇として即位し、その後は光明皇太后が後見人となる形で政治を進めます。光明皇太后は藤原仲麻呂を重用していたことなどから、クーデター未遂「橘奈良麻呂の乱」なども抑える中で仲麻呂の権力基盤は拡大していきました。

758年(天平宝字2年)淳仁天皇に譲位した孝謙上皇はその後一時期病気になり、朝廷に出入りする僧侶「道鏡」に看病され、病気が治った上皇は道鏡を特別な存在として寵愛・重用するようになりますが、それを警戒する藤原仲麻呂・淳仁天皇などとの関係が悪化していきます。

道鏡と孝謙上皇の関係に脅威を感じた仲麻呂は、「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」を引き起こしますが、上皇側に密告がなされていたことから徹底的に鎮圧され、その後は淳仁天皇も廃位され、自らが称徳天皇として実質的に最高権力者に返り咲きます。

乱世に苦しんだ天皇は道鏡とともに仏教を重視した政治運営を行い、西大寺の造営や「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」の製作など「鎮護国家」思想を象徴する施策を行います。道鏡をめぐっては「宇佐八幡宮事件」など皇位継承を巡るトラブルも発生しますが、結局皇太子を定めないまま770年(神護景雲4年)に崩御されました。