奈良時代の政治。その構図は天皇を頂点にしていたものの、実際は各皇族・貴族などが多数関わる複雑な形で行われ、権力の争いなども絶えませんでした。こちらでは、その中でも重要な存在として挙げられる「藤原四兄弟」について、その系譜や果たした役割・権力関係など基礎的な知識を簡単に解説していきます。
藤原四兄弟とは誰のこと?
藤原四兄弟と呼ばれる存在は、以下の4人です。
彼らは全員が奈良時代初頭に権勢を振るった「藤原不比等(ふじわらのふひと)」の息子であり、武智麻呂が長男、房前が次男、宇合が三男、麻呂が四男となっています。
また、母親は宇合までの3人は蘇我娼子(そがのしょうし)、麻呂は五百重娘(いおえのいらつめ)となっており、麻呂のみが異母弟にあたります。
長屋王との争い
藤原四兄弟は、歴史的な流れの中では、同時代の「長屋王」との権力争いで有名な存在です。
奈良時代の初頭に藤原不比等が権力を握り、藤原氏の影響力が非常に大きなものとなりますが、その後不比等が亡くなった後には既に出世していた長屋王が天武天皇の皇子である舎人親王らとともに権力を振るい、皇族が政治の主導権を握る「皇親政治」の時代が展開されます。
長屋王の行う実質的な政策は不比等の手法をなぞるものも多いものでしたが、権力関係として見ると、藤原氏が長屋王らに圧倒されかねない脅威は常にありました。特に聖武天皇が母親である藤原宮子に「大夫人(だいふにん)」の称号を与えようとすると、長屋王がそれを差し止めさせる「辛巳事件(しんしじけん)」が起こってからは、対立の構図がよりはっきりしたともされています。
その後は、聖武天皇の皇子である「基王(藤原系)」の立太子に長屋王が反対し、その後基王がすぐに亡くなるなど藤原氏側の権力継承に懸念が高まるなど対立の構図は着実に深まり、結果として729年に「長屋王の変」が生じます。
長屋王の変は、長屋王が謀反を企てているとの密告が天皇に行われ、謀反の疑いを掛けられた長屋王の邸宅が軍勢に包囲され、最期を悟った長屋王が一族とともに自害したというものであり、一般的に藤原四兄弟(とりわけ武智麻呂)陣営の陰謀によるものと理解されています。
懸念材料であった長屋王陣営を追い落とすことに成功した藤原四兄弟陣営は、長屋王の死後は一気に権力の座を手にすることになり、四兄弟の時代へと突入することになります。
藤原四子政権
長屋王亡き後、自分たちの権力基盤を大いに脅かす存在はいなくなった藤原四兄弟陣営は、731年(天平3年)には四兄弟の中で出世が遅れていた宇合と麻呂が参議に任命され、兄弟全員が政治的な意思決定を担う議政官の仲間入りを果たし、「藤原四子政権」と呼ばれる時代が本格的に幕を開けました。
この時代には地方の治安を維持するための「鎮撫使(ちんぶし)」が新たに設置されたほか、財政基盤の確立や新羅への「遣新羅使」の派遣なども行われましたが、社会不安がつきまとう時期であり、735年からは天然痘の流行が本格化することで一層状況は不安定になっていきました。
全員が同じ年に亡くなる(天然痘)
権力を固めて一時代を築いた藤原四兄弟陣営ですが、その終わりはかなりあっけなく訪れます。
737年には4人の兄弟全員が既に大流行していた天然痘に罹患し、房前が5月に、残りの3人も夏以降に次々と亡くなり、権力闘争ではなく感染症によって「政権」は終焉を迎えることになりました。
なお、時の権力者が4人とも同じ時期に同じ病気で亡くなるということは、感染症による被害が現代よりも多かった奈良時代でも多少は驚くような事態であり、朝廷は一時的に混乱に陥ったと考えられますが、四兄弟亡きあとは皇族である橘諸兄が実質的な権力を握ることになりました。なお、740年には藤原宇合の長男である藤原広嗣が反乱を起こして鎮圧されるなどしたこともあり、藤原氏の影響力は藤原仲麻呂などが台頭するまでの時期、一時的に衰えることになります。