【和同開珎(わどうかいちん・かいほう)】とは何か?初の流通貨幣の基礎知識を解説

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日本ではじめて市中に流通した貨幣と言われる「和同開珎」。こちらでは、和同開珎に関する歴史上の基本的な知識について解説していきます。

いつ出来たものなの?他の貨幣はあったの?

和同開珎と呼ばれる貨幣は、奈良時代に入る少し前の708年(和銅元年)8月に発行された貨幣です。奈良時代は2年後の710年からですので、実質的には奈良時代に流通していた貨幣である。と考えてよいでしょう。

この貨幣は、当時の日本ではじめて広く流通した貨幣であるとされていますので、これ以前には広く出回る貨幣はありませんでした。

但し、貨幣という物自体はこれ以前から存在したようで、飛鳥で発掘された「富本銭(ふほんせん)」や、滋賀で発掘された「無文銀銭(むもんぎんせん)」と呼ばれる硬貨は、和同開珎以前の時代から貨幣に近い存在が存在したことを裏付けています。

実際に、和同開珎発行時の都では、既に私鋳銭と呼ばれる貨幣が限定的に出回っており、和同開珎発行時にはこれらの流通を切り替える必要もあったともされ、貨幣経済が皆無ではなかった可能性もあります。

但し、これらがはっきりと大規模に社会で流通したような記録は残されておらず、一定範囲の利用に留まっていた可能性もありますので、あくまでも「和同開珎」が日本最古の流通貨幣である。ということになるのです。

デザイン・読み方

コイン(硬貨)である和同開珎は、以下のような意匠(デザイン)となっています。

大きさ直径2.4センチ(24ミリ)ほど
円形で、中央には7ミリ四方の正方形の穴が開いている
表裏:表には「和同開珎」と書いているが、裏には何も描かれていない

なお、これらは当時の中国(唐)で621年から流通していた「開元通宝(かいげんつうほう)」のデザインを模倣しています。形や中央の穴、また「和同開珎」の書体に至るまで、基本的には開元通宝のそれを踏襲しており、和同開珎自体は特段オリジナリティのある存在ではありません。

読み方については、「わどうかいちん」と「わどうかいほう」の2つの読み方が説としてあり、「珍」を「珎」にあてる形で「かいちん」説が現在は有力ですが、漢字の使い方や読み方については諸説あり、確実な読み方が判明している訳ではありません。

発行の目的は?

和同開珎の発行については、いくつかの目的・理由が考えられます。様々な歴史的解釈はありますが、主な内容としては以下の3つが挙げられるでしょう。

埼玉県の秩父で良質の銅が採掘された(和銅採掘露天掘)ことで、鋳造への機運が高まったということ

平城京の建設がちょうど行われるタイミングであったことから、莫大な労働力の投入に対する「対価」として貨幣で払う狙い

貨幣の制度というものがほぼ全く整っていない日本の社会において、中国(唐)のような一定の貨幣経済の仕組みを作っていく。律令制度に基づく中央集権的な社会を発展させていくための目的

埼玉で銅が採れたことは形式的な理由とする考え方もあり、必ずしも主たる理由とは言えないかもしれませんが、ざっくりまとめるとこういった流れがありました。

平城京の建設という問題については、対価として貨幣で払う中で、和同開珎の価値を、硬貨に使われている銅の価値よりも大幅に高くすることで、財政的な問題を解消しようとした。とも考えられます。

厳密な発行の目的ははっきりしませんが、当時の社会は中国の制度なども取り入れて急速に発展していく途中にありましたので、貨幣発行・流通もその一環であったと考えるのは難しいことではありません。

どのように使われたの?流通は?

日本で初めて一般の市中・市場で流通した貨幣とされる和同開珎ですが、どの程度流通したのかと言うと、「ある程度流通はしたけれど、限定的であった」という表現が無難であるということになります。

そもそも、奈良時代の庶民の暮らしと言えばまだ竪穴式住居に住み、自給的な生活やせいぜい物々交換で生計を立てていた程度であり、都市部に住まない一般庶民が、いちいち和同開珎を使って物の取引をしていたかと言えば、それはまずありえない。ということになります。

他方、奈良の平城京内や平城京に近い畿内のエリアでは、天皇を中心とした中央集権的な政治・「律令制度」の縛りを強く受けることになりますので、少し状況は異なります。

ある程度統一的なルールに従った政治・生活の仕組みの中では、利害が異なる存在同士が、物・商品や様々な対価の価値を「共有」しなければいけません。その中では、価値づけに有無を言わせない「貨幣」はある程度説得力のあるツールとして使われるようになりますので、時間は掛かったかもしれませんが、都の周辺を中心に次第にある程度の流通がなされるようになったことは確かです。

平城京内では、全て判明している訳ではありませんが、市場での買い物などに和同開珎が利用されることもあったようで、限定的ながらもはっきりとした貨幣経済は生まれつつあったようです。

和同開珎は、平城京周辺のみならず、地方の位の高い人物・官僚などの間でも象徴的な意味も含めて所有されたようで、関東・九州・北陸など各地で出土の実績があります。平城京周辺をメインにしつつも、全国で発掘されていることから「日本初の流通貨幣」と言われる上で説得力を持っている訳なのです。

なお、和同開珎については使用されている「銅」の価値よりも高額の価値を貨幣に与えているため、「私鋳銭」と呼ばれる「偽金」が大量に出回って市場を狂わせ、和同開珎自体の価値を下げてしまう問題等も発生しました。

和同開珎と政治

奈良時代に入ってからは、和同開珎を巡ってユニークな政策が披露されたことがありました。

それは「蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)」。これは和同開珎の利用促進を図るために、貨幣をたくさん貯めた(貯蓄した)人に位階を授ける。という変わった政令であり、要するに「和同開珎を貯金しろ」というメッセージを朝廷が出したことになります。

もっとも、この政策は「貨幣経済」を促進させる目的でありながら、実際は「貨幣を使わない=貯め置く」行為をアシストするもので、位階の授与が行われた記録も少なく、最終的には平安時代に廃止されました。

なお、和同開珎については「私鋳銭」と呼ばれる「偽金」が大量に出回ってしまうことで、本来の流通量を上回ってお金の価値が下がる現象が発生することが懸念されました。これは貨幣経済の促進という観点・国のメンツとしても許されざる事態ですので、蓄銭叙位令の公布と同時に「私鋳銭」を造ることによる刑罰を「斬(死罪)」とするという、非常に厳しい罰則が導入されました。

しかし、死罪になるという罰則付きでありながら、偽金である私鋳銭の流通や製造は無くならなかったようで、お金の流通を巡っては、利用を図る以前の問題として私鋳銭による価値の下落。という悩みの種がずっとつきまとうことになりました。

和同開珎の終わり

奈良時代の初めから唯一の貨幣として用いられて来た和同開珎ですが、市中に出回るお金が「和同開珎一種類」である時代は、約50年程で終わりを告げます。流通貨幣を巡る大まかな流れは以下の通りです。

760年(天平宝字4年)万年通宝(萬年通寳・まんねんつうほう)が発行。このタイミングで万年通宝1枚=和同開珎10枚という低いレートが設定(デノミ)
765年(天平神護元年)神功開宝(じんぐうかいほう又はじんこうかいほう)が発行、万年通宝の発行は停止
779年(宝亀10年):価値の違いが混乱をもたらすことから、和同開珎とその他貨幣の価値を同じに戻す
796年(延暦15年)隆平永宝(りゅうへいえいほう)の発行に伴い、和同開珎・万年通宝・神功開宝の流通を4年後に停止するとの詔が示されますが、旧銭の廃止計画は808年(大同3年)に中止となっています。

和同開珎の発行は、50年ほどで終了してからも、和同開珎そのものの流通は長期間続いたことが分かります。また、価値を突然低く設定したり、元に戻したりするなど、お金のレートを巡ってはかなり混乱があったことも確かです。

実際の所は、様々な紆余曲折があって少しづつ流通が減る中でも、9世紀の半ば頃までは和同開珎の流通は多少なりとも続いていたものと考えられます。

まとめ

和同開珎(わどうかいちん・かいほう)は、奈良時代に入るすぐ前の708年(和銅元年)に発行された貨幣で、一般的には「日本初の流通貨幣」として知られています。発行の目的は、良質の銅が採れたからとも、平城京の建設費用を賄う目的とも言われるほか、唐に倣って律令制度に基づく社会を作る一環とも考えられます。

デザインは基本的に唐(中国)の貨幣をほぼ模倣したもので、直径2.4センチ(24ミリ)ほどの円形で、中央には7ミリ四方の正方形の穴が開いており、周囲に「和同開珎」と記されています。

利用については、平城京内での物の売り買いなど、都の周辺地域ではある程度利用された(貨幣経済の仕組みが生まれた)と考えられますが、遠く離れた地域の一般庶民にまで浸透していたかと言うと、全くそういう訳ではなかったようです。なお、利用促進策としては貯蓄を勧める「蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)」なども公布されました。

和同開珎のみが貨幣であった時代は約50年ほどで、その後は万年通宝・神功開宝・隆平永宝といった新しいコインが発行されます。しかし、平安時代に入ってからもしばらくの間は和同開珎も含めて流通していたようです。