奈良時代の歴史の中で「仏教」の流れを見ていくと、大仏の建立といった出来事に並んで重要な事柄に位置づけられるのは「国分寺」の建立。
「国分寺」と言うと、現代では中央快速線の駅・またその駅のある市の名前というイメージが先行しがちですが、その地名が裏付けるように、実際は「国分寺」と呼ばれる寺院があった歴史につながるものです。
こちらの記事では、国分寺とは何なのか?お寺の区分や種類はどうなっているのか?国分寺の成立・歴史はどのようなものか?といった基本的な知識を、なるべくわかりやすく解説していきたいと思います。
国分寺の種類について
国分寺というものは、奈良時代に聖武天皇がその建立を指示したものですが、その歴史を振り返る前に、一般的に「国分寺」と呼ばれるものが何なのか。その区分・種類について解説しておきます。
奈良時代以降各地に建立された国分寺と呼ばれるものは、実際は「国分僧寺」と「国分尼寺」の2種類の分かれており、現在も残るものなども含め、一般的には「国分僧寺」の方が「国分寺」と呼ばれてきています。
国分僧寺とは
国分僧寺は、一般的に「国分寺」と名の付くお寺に該当する寺院であり、「僧」という単語からイメージされる通り、男性の僧侶が在籍する寺院のことを指します。
奈良時代の正式名称としては「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と呼ばれ、例えば奈良では「東大寺」が国分僧寺とされました。なお、東大寺は総国分寺として全国の国分寺の頂点に位置づけられました。
規模としては、寺の財源として僧寺には封戸50戸と水田10町、僧侶は20人を配置する事が定められ、国分尼寺と比べるとその規模は明らかに大きなものでした。
国分尼寺とは
国分尼寺(こくぶんにじ)は、男性の「僧」に対し女性の「尼僧」が在籍する寺院として建立されたものであり、財源としては水田10町、規模としては尼僧10人を置くことも定められ、概ね国分僧寺と比べると規模の小さな寺院となっていました。
奈良では現在の「法華寺」が国分尼寺として建立された歴史を持っています。こちらも東大寺と同様に全国の国分尼寺の頂点である総国分尼寺として位置づけられました。
国分寺の成立・国分寺の詔とは?
「国分寺」と呼ばれる寺院の歴史は、奈良時代の中盤に遡ります。
奈良時代の中で最も長く続いた元号である「天平」時代は、貴族的で唐の影響も強く受けた「天平文化」が華開く一方で、相次ぐ地震や天災・天然痘等の疫病の流行といった「国家を揺るがす問題」に次々に襲われるなど、決して「長く続いた元号」だからといって平和で安泰な時代ではありませんでした。
当時の聖武天皇は、そのような厳しい環境下において、当時奈良の都で活発に信仰・研究がなされていた「仏教」によって国を守るという「鎮護国家思想」へと傾斜していくことになりました。
仏教を篤く信仰して、仏教の力で国を守っていく。このような鎮護国家思想により、国分寺建立や大仏建立・東大寺の整備や奈良の南都七大寺に対する手厚い保護といった国家的な「仏教政策」が実施されていく事になったのです。
国分寺については、741年(天平13年)の2月14日に聖武天皇から「国分寺建立の詔」が発せられる形でその建立が日本全国に指示されました。
「国分寺建立の詔」では、以下のような内容が指示されました。
寺院の財源として、国分僧寺には封戸を五十戸・水田十町を施し、国分尼寺には水田十町を施す。
国分僧寺には二十人の僧を配置し、その寺の名は「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)とする。
国分尼寺には十人の尼を配置し、その寺の名は「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)とする。
国分寺・国分尼寺の立地は、それぞれ距離を置く。
僧尼は教戒を受け、僧尼にもし欠員が出た場合は、直ちに代わりの僧尼を補充する。
毎月8日に必ず『最勝王経』を読む。月の半ばには『戒喝羯磨(かいかつま)』を暗誦する。
毎月の六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)には、漁や狩りといった殺生をしてはならない。
国分寺の歴史
国分寺は、聖武天皇による「国分寺建立の詔」が出された後、すぐに全国各地に建立されたという訳ではありません。
当初は全国各地の国司に建設事業が委任されたものの、国司らの怠慢(恐らくは財源不足も一因)により建立がスムーズに進むことはなかったとされ、747年(天平19年)11月の「国分寺造営督促の詔」で国司からその下位の郡司に建設の主導権を移行し、ようやく全国的な建設が進んだとされています。
その後は平安時代になってからも、全国各地の国分僧寺・国分尼寺も維持されていきますが、鎮護国家思想を支えてきた「律令国家」の仕組みが次第に崩れていく中では、国家による財政的な裏付け等が失われていくことになり、次第に国分寺のシステム自体は瓦解していったとされています。
もっとも、国家的な寺院という位置づけが失われたからといって、全国各地の国分寺が直ちにすべて廃寺となったかと言うと、実際には宗派を変えたり、お寺を庇護する存在が別途現れる形で維持され続けた寺院もあったようです。また、中世以降に廃寺となってしまったお寺も、江戸時代等になってから再興されているものもあります。
実際に、現在も「~国分寺」と名乗る寺院は多数残されており、その多くは何らかの形で一時廃寺になるも近世以降に復興が図られているものや、廃寺とならずに荒廃の度に再建が繰り返されどうにかその歴史を保ってきた(例:伊予国分寺)お寺等、様々な経過を辿っています。
なお、荒廃したり廃寺となった歴史を大半の寺院が有しているため、現在残る「国分寺」にあたる寺院に創建当時の建築物が残されているケースはごく稀です(東大寺等に限られる)。
地名に残る「国分寺」
国分寺という存在は、その地域最大の寺院・拠点として位置づけられたものであり、歴史的にも比較的「わかりやすい」存在であったため、現在お寺が残されているかを問わず、その痕跡は「地名」に多数残されています。
簡単に言えば「国分」という地名は「国分寺」があった場所である場合が多く、最初にも述べたように東京の「国分寺市・国分寺駅」、また大阪の「河内国分駅」等はその典型的な事例と言えるでしょう。
なお、国分寺は各地域(国)の行政の中心である「国府」が置かれた場所に合わせて設置されたケースが少なくありません。そのため「国分寺」という地名とともに「国府」という地名が残されている場合もあります。
まとめ
国分寺(こくぶんじ)とは、聖武天皇が741年に「国分寺建立の詔」によって建立を指示した寺院であり、鎮護国家思想に基づき国を守るため、全国各地(国ごと)に「国分僧寺」と「国分尼寺」の2つのお寺を建立することが求められました。
国分僧寺は、20人の僧(男性)を擁する寺院として、国分尼寺は10人の尼僧(女性)を擁する寺院とされ、それぞれ水田等の財政的な裏付けが与えられ、国家により庇護されました。
建立は「詔」が出てすぐには進まなかったものの、奈良時代から平安時代にかけて順次整備が進み、基本的には全国のほとんどの地域にお寺が建立されました。
国家的な寺院としての位置づけは平安時代の途中から「律令国家」の衰退により失われましたが、その後も形式を変えて維持された寺院もあり、廃寺となったものも江戸時代等に一部は再興される等、現在も「国分寺」を名乗る寺院は多数残されています。