【聖武天皇陵・光明皇后陵】奈良時代を象徴する天皇・皇后の御陵

聖武天皇陵 観光スポット・みどころ

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観光のご案内

奈良時代を代表する天皇・皇后は「きたまち」の近くに眠る

聖武天皇陵(佐保山南陵)光明皇后陵(佐保山東陵)は、東大寺の転害門のほど近く、また松永久秀が築城した「多聞城」跡のすぐ西の位置にある陵墓です。

二つの陵墓は寄り添うかのように、ごく近い位置に設けられていますが、佐保川に面する入り口から北に見える陵墓が奈良時代を代表する人物であり、大仏建立の詔を出したことでも有名な聖武天皇のものであり、聖武天皇陵の手前で北東に分かれる道をしばらく進んだ突き当たりにある陵墓が、病人の救護等を行い、社会福祉の創始者とも言われる光明皇后の陵墓となっています。

長期の「治世」も苦労が多かった「聖武天皇」

聖武天皇の治世は奈良時代前期の神亀元年(724年)から奈良時代中盤の天平勝宝元年(749年)の25年に渡るものであり、母親は奈良時代に絶大な権威を誇った貴族「藤原不比等」の娘である藤原宮子であり、先述したように大仏建立の中心的存在であったなど、奈良時代を語る上では欠かせない人物となっていますが、治世の当初に権威を振るった「長屋王」を巡る権力争いや、藤原広嗣の乱、また天然痘の流行による藤原四兄弟の死没など、常に様々な災厄に見舞われてきた治世となっています。

なお、その結果仏教に深く帰依し、大仏建立を決定した聖武天皇ですが、その過程で恭仁京や紫香楽野宮、難波宮への遷都を繰り返すなど、実は「平城京」を一時的に放棄したこともあり、大仏自体も当初は「信楽の大仏」になる可能性があったなど、一概に「奈良の地」にこだわり続けた訳ではないというエピソードも持ち合わせています。また、治世を終える際には、崩御ではなく「譲位」という形で退位することになり、初の「太上天皇」として大仏開眼を見届け、天平勝宝8年(756年)に崩御されました。

「書家」でもあり仏教思想に基づく「福祉」の実践者でもあった「光明皇后」

また、光明皇后は、奈良時代の有力貴族「藤原不比等」の娘として生まれた人物であり、これまで「皇后」が全て「皇族」内部から立てられていた中で、はじめて皇族以外から皇后になった存在として、後世に「藤原氏」の子女が皇后となる歴史の端緒となった人物としても知られています。

光明皇后は、主に歴史上では「文化人」や「社会福祉の創始者」として知られる人物であり、文化人としては「能書家」として数多くの美麗な作品を残したほか、和歌なども複数残されています。また、聖武天皇と同様、もしくはそれ以上に仏教に深く帰依したことでも知られており、興福寺や法華寺などの各寺院の発展にも大きく寄与したほか、貧しい人を救うための施設である「悲田院」や医療を施す「施薬院」などを建立したことも有名なエピソードとなっています。

明治維新の頃まで古墳の上に存在した巨大寺院「眉間寺」

なお、現在の聖武天皇陵の周辺には、明治維新の頃まで「眉間寺」と呼ばれる寺院があったとされ、高台に位置する伽藍には、本堂・観音堂・多宝塔などが存在したと伝えられています。眉間寺については、廃寺が比較的新しい時代とは言え、残された資料に乏しいために詳しいことはあまり分かっていませんが、本堂に安置されていたという阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、薬師如来坐像は現在東大寺の所蔵となっており、東大寺ミュージアムで揃って展示されたこともあります。

また、戦国時代には松永久秀が周囲(現在の奈良市立若草中学校を中心とするエリア)に歴史ファンにはよく知られる名城「多聞城」を建造し、その城郭の範囲は現在の陵墓のあるエリアにも及んでいたとも言われ、築城にあたっては様々なものが破壊され、周辺は築城される以前とは違う地形になってしまっているとも言われています。

参道沿いから味わう「町並み」も魅力

また、周囲は「多門町」と呼ばれる「きたまち」エリアの中でも古い家屋や屋敷が多いエリアで、とりわけ光明皇后陵一帯には静かな陵墓の横に古い蔵や土塀が立ち並ぶなど、陵墓を眺めつつ、観光客にはあまり知られていない「きたまち」エリアのの奥深さも感じることが出来ます。また、聖武天皇陵はきたまち有数の「観光スポット」であるにも関わらず、実際のところ周辺まで訪れる観光客は限られており、昼間の陵墓でも無人の場合が多いため、非常に静寂な雰囲気を味わうことが可能です。

聖武天皇陵・光明皇后陵のみどころ・風景

入り口付近

聖武天皇陵への参道

きたまちエリアの町並みの一角、佐保川を渡る橋がかかる場所に唐突に表れる巨大な聖武天皇・光明皇后陵参道の長さは奈良市内随一といってもよいスケールの大きな陵墓となっています。

聖武天皇陵

聖武天皇陵本体

道路沿いの入り口からひたすら正面に進んだ位置にあるのが「聖武天皇陵」です。ちょうどこの位置に廃仏毀釈の時期まで「眉間寺」と呼ばれる大規模なお寺があったわけです。

聖武天皇陵の敷地を望む

聖武天皇陵は高い位置にあり、きたまち方面への眺めが少しだけ広がっています。なお、写真からも分かるように敷地は大変広くなっており、市内の陵墓では最も整備が行き届いた空間の一つとなっています。

参道一帯

光明皇后陵へ進む長い参道

聖武天皇陵の東側には、光明皇后陵へと進む参道が更に長く続いています。

多門町界隈の風景

周辺は「多門町」と呼ばれる古いお屋敷が立ち並ぶエリアでもあり、光明皇后陵へと進む参道沿いはお屋敷と陵墓を区切る土塀が立ち並び、古い土蔵などにも囲まれた閑静な空間となっています。

光明皇后陵

光明皇后陵本体

参道をしばらく進むと光明皇后陵にようやく到着します。かなり奥まった位置にありますので、ここまで辿り付く観光客の方はかなり少数となっており、常に静かな雰囲気が広がっています。なお、鳥居などには聖武天皇陵のように正面まで近づくことは出来ません。

次項では、交通アクセスについてご案内致します。

アクセス(電車・バス)

近鉄・JR線各駅からのアクセス

奈良交通バス

・JR奈良駅西口、近鉄奈良駅から「加茂駅」・「高の原駅」・「大和西大寺駅」行き乗車、「法蓮仲町」バス停下車、東に徒歩5分

近鉄奈良駅から北に徒歩15分

JR奈良駅から北東に徒歩25分

周辺のみどころ・観光スポット

周辺はきたまちエリア、「法蓮造」の町並み一帯から北東に徒歩5分、転害門から西に徒歩5分、西安の森・鴻池から南東に徒歩5分、八鐵神社(弁財天)から西に徒歩8分、興福院から東に徒歩12分

聖武天皇陵・光明皇后陵周辺地図