【般若寺】コスモス寺として有名な「きたまち」を代表するお寺

観光スポット・みどころ

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観光のご案内

場所・概要

般若寺(はんにゃじ)は、「奈良きたまち」の北部、奈良阪を通り京都へ通じる京街道沿いに位置する真言律宗の寺院です。

山号は「法性山」、本尊は文殊菩薩で、正確な建立年代は定かではありませんが、少なくとも奈良時代から存在した寺院であると伝えられています。周辺は、近年は「きたまち」の観光ルートとして人気を集めており、「植村牧場」や「奈良少年刑務所跡」など、レトロ感ある雰囲気も味わえるエリアとなっています。

歴史

この寺院の創建は、寺伝によれば平城京に遷都する前の舒明天皇元年(629年)にさかのぼるとされており、当初は高句麗からの渡来僧であり、日本の三論宗の開祖である「慧灌」法師により「般若台」として創建されたとされています。

また、その後奈良時代になると天平7年(735年)には聖武天皇により伽藍がしっかりと整備され勅願寺となり、十三重石塔の建立や聖武天皇自らが書き上げた大般若経が安置されることになったともされていますが、この時期の般若寺についての確たる歴史は明らかにはなっていません。また、平安時代に観賢僧正と呼ばれる僧侶により仏教研究を極める学問のお寺として大いに繁栄したという寺伝が般若寺によって採用されていますが、これについては正史としては京都の同名寺院との混同であるともされ、平安時代までの般若寺の歴史は謎の多いものとなっています。

具体的な歴史に残る「般若寺」の存在は、平安末期以降のものとなっていますが、歴史に残る「般若寺」は、その歩みの中では数多くの災難に見舞われました。例えば、1180年、平清盛の命を受け、平重衡による南都焼き討ちが行われた際は、興福寺や東大寺と同じく焼け落ちてしまいます。その後鎌倉時代に西大寺の僧である叡尊とその弟子の忍性が伽藍を復興し、七重塔や南大門を擁する大寺院となったと言われ、また叡尊らは病人や貧者の救済などを行う先駆的な試みも行うなど、一時復興を成し遂げますが、戦国時代、松永久秀による東大寺大仏殿の戦いで再び大部分が消失することとなりました。また明治初期の廃仏毀釈においても、その他奈良県内の多くの寺院と同様、再び廃寺同然になり、現在のような形になったのは、戦後にようやく復興を成し遂げて以降のこととなっています。

なお、基本的に般若寺が栄えた時代、また現在の境内地のみどころの多くが生み出された時代は、叡尊らが関わった中興の時代「鎌倉時代」となっており、現存する十三重石宝塔、楼門、また本尊である文殊菩薩騎獅像などはいずれも鎌倉時代のものとなっています。

仏像

御本尊 文殊菩薩騎獅像

般若寺には多数の仏像が安置されていますが、このうち般若寺所蔵の仏像として唯一重要文化財に指定されている本堂の文殊菩薩騎獅像は、鎌倉時代に慶派の仏師である康俊・康成により製作されたものとなっており、鎌倉幕府の打倒を目指していた後醍醐天皇の御願仏として造立されたものとされています。その姿はまるで「童」を見ているような気分になる独特の佇まいとなっており、大きさは比較的小ぶりなものとなっています。

なお、かつての本尊としては別の文殊菩薩像があったとされ、こちらは叡尊により造立されたものとされており、現在の文殊菩薩様は当初の本尊が失われたために代替として本尊になったものとなっています。

秘仏 伝阿弥陀如来立像

般若寺の「秘仏」としては、通常は公開されていない「宝蔵堂」に奈良時代より前の飛鳥時代に造立されたと考えられる像高30センチほどのごく小さな伝阿弥陀如来立像が安置されています。こちらは頭部や手足が大きい姿が特徴となっており、三国時代の朝鮮半島の影響を受けつつ日本で造立されたものと推定されています。なお、この阿弥陀様は昭和期に十三重石塔の解体修理の際に偶然発見されたものとなっています。

このほか宝蔵堂には阿弥陀仏とともに発見された大変小さな平安時代の作である「胎内仏三尊」(地蔵菩薩・大日如来・十一面観世音菩薩)も安置されています。

その他の仏像

本堂には、このほかには江戸時代の仏像としては、火焔の光背が印象的な不動明王坐像、また彩色が残された持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されています。また弘法大師像や中興の祖である興正菩薩叡尊上人の像なども安置されています。

「コスモス寺・花の寺」として大変有名!

般若寺は、上記のような歴史・仏像の魅力のみならず、一般には「コスモス」や「あじさい」が特に美しい「花の寺」として知られ、遠方からも大勢の観光客を集めることで知られています。

コスモスに関しては、年2回のシーズンがあり、5月から6月頃に見ごろを迎える「初夏咲き」9月から11月にかけての「秋咲きコスモス」が咲き誇り、とりわけ秋の見ごろには境内をコスモスで埋め尽くす光景が見られます。

また、6月頃にはアジサイも美しい花を咲かせ、奈良市内のみどころの1つとなっています。

また、このほかにも境内には、四季折々の花が咲き誇り、例えば「ヤマブキ」・「スイセン」等、季節ごとに彩りあふれる風景を楽しむことが出来ます。

般若寺は、観光ルート上とは言え、東大寺や興福寺といった奈良市内の主要な観光スポットからはバス利用が便利な比較的離れた位置にありますが、上述したような「花の寺」として、特にコスモスの見ごろには、多くの観光客で賑わうこともあります。

もっとも、2017年からは駐車場が新たに拡大整備され、拝観受付の場所も便利な場所に移転したため、基本的にはどのような場合でもスムーズに拝観して頂けるようになっています。

また花の見ごろではない時期の通常時については、静かな風情を満喫できるような日も多くなっています。

般若寺のみどころ・風景

楼門周辺

般若寺楼門

現在は実際に出入りする場所としては用いられていませんが、鎌倉時代に建立された貴重な建築物として現在も残されている「楼門」。京街道に面するかつての「西門」として建設された門は日本古来の様式のみならず東大寺南大門にも見られる「大仏様」と呼ばれる中国由来の建築様式も織り交ぜた特徴を持ち、現在では最古の楼門建築とも呼ばれるほどで傷みも目立ちますが、般若寺唯一の「国宝」らしい堂々たる風格を見せています。

楼門周辺からは、十三重石宝塔方面へ向けて美しい眺めが広がります。こちらのエリアには観光客の流れが押し寄せることが少ないので、撮影スポットとしては大変おすすめとなっています。

般若寺楼門付近から十三重石宝塔方面への眺め

本堂周辺

般若寺本堂

般若寺の顔である「本堂」は、境内の中央部にあり、内部には本尊文殊菩薩騎獅像などが安置されています。現在の本堂の歴史は比較的新しく、楼門のように鎌倉時代にまでさかのぼることはなく、江戸時代の寛文7年(1667年)に建立されたものであるとされています。なお、内部は拝観料を払っている方であればどなたでも拝観して頂けます。

コスモス畑に包まれる般若寺本堂

十三重石宝塔

般若寺の十三重石宝塔と本堂

般若寺を語る上でもう一つ忘れてはいけない存在と言えば、境内の風景のアクセントとして強い存在感を放っている「十三重石宝塔」。こちらは楼門と同様鎌倉時代の般若寺中興の時代に建立されたものであり、十三重石宝塔の高さは14メートルにも及ぶ日本有数の石塔となっており、全国各地にある同様の石塔はこの般若寺のものをモデルに建立されたものも多いと言われています。

経蔵

般若寺経蔵

十三重石宝塔の東側には、鎌倉時代の建築である「経蔵」もあります。こちらは建立当初は床もない開放的な建物であったとされ、当初の利用目的は不詳ですが、その後「元版一切経」を収蔵する「経蔵」として転用されるようになった建物となっています。

般若寺経蔵と十三重石宝塔

三十三所観音石像(石仏群)

般若寺の西国三十三カ所観音石仏

境内にはあちこちに石仏が設けられていますが、とりわけ本堂の周辺には江戸時代のものである「西国三十三カ所観音石仏」が多数並べられています。

般若寺の石仏
般若寺の初夏
石仏とコスモス(般若寺)

コスモスと石仏の織りなす風景は、ゆっくりとした時間、やさしさに包まれたような気分にさせてくれます。

鎮守社

般若寺の「鎮守社」

本堂の北東側には、厳重に保護された痛みの激しい「鎮守社」があります。こちらは伊勢・春日・八幡の3神を合祀した神社であり、明治以前の神仏習合の歴史を強く反映した神社となっており、廃仏毀釈・神仏分離の時代を乗り越えて現在に残された貴重な遺産となっています。

鐘楼

般若寺の鐘楼

本堂の西側には、西大寺由来の鐘とも言われる梵鐘を吊るす鐘楼もあります。

笠塔婆

般若寺の笠塔婆

経蔵の近くには、どこか異国情緒を感じさせる石塔である「笠塔婆(かさとうば)」が建っています。こちらは中国からの渡来人である石工により建立されたものであり、かつてはこの地ではなく、京街道沿いに建っていたものを境内に移設したものとなっています。なお、笠塔婆の近くには明治時代の再建時に使用した唐草文様の「フランス製」金具(エッフェル塔建造時に開発されたもの)が現在も残され、境内では異色の存在となっています。

その他のみどころ・風景

般若寺境内には、これまでご紹介して来た見どころ以外にも、数多くの石造物などが設置されており、とりわけ歴史上の人物・般若寺関係者の「供養塔」や、ご利益をもたらす石などをあちこちで見ることが出来ます。

宝蔵堂

境内北側にあり、白鳳時代の伝阿弥陀如来立像と胎内仏三尊が安置される空間となっています。お堂自体は昭和期の建設ですが、建っている場所は鎌倉時代の講堂跡となっているほか、建物の内部には一部奈良時代の古材が残されています。

踏み蓮華石

踏み蓮華石は、般若寺の現在のご本尊である文殊菩薩騎獅像ではなく、それ以前の鎌倉時代の文永4年(1267年)に造られた丈六仏の文殊菩薩騎獅像の「獅子の足」を乗せる台座であったものであり、現在のご本尊よりもはるかに大きなスケールの仏さまがいた時代を示す数少ない痕跡となっています。

旧相輪

現在の「十三重石塔」は相輪部分が後世に補われたものとなっていますが、鎌倉時代に十三重石塔が建立された当初の相輪と考えられているものも現存し、現在も境内に残されています。

なお2代目の相輪も現存し、般若寺とつながりの深い西大寺の本坊前庭に設置されているほか、3代目の相輪は青銅製となっており、白鳳阿弥陀仏の安置されている宝蔵堂に収蔵されています。

天神社

鎮守社のみならず、鐘楼の近くには「天神社」と呼ばれる小さな神社が設けられています。

藤原頼長供養塔

コスモス畑の中には保元の乱の折、逃亡を重ね般若寺周辺の「般若野」の地で死去した公卿で藤原一族の有力者であった「藤原頼長」を供養する石塔も設けられています。

三界万霊碑

カンマン石

神秘的な巨石である「カンマン石」はその頂上部に小さな不動明王様がお祀りされています。

平重衡供養塔

コスモス畑の中には「南都焼討」で奈良に壊滅的被害を与えた当事者である「平重衡」を供養する石塔も設けられています。

大塔宮護良親王供養塔

境内西側には後醍醐天皇第三皇子である「大塔宮護良親王」の供養塔も設置されています。

釈迦如来像

まかばら石

いつの頃からか自然と境内にあったとされる不思議な石「まかばら石」は、「オン・マカバラ・ウン」という呪文を唱えながら石の上を右回りに3周なでることで運気が向上する石であると言われています。

中興上人良恵大徳供養塔

南朝関連の供養塔のみならず、般若寺そのものに関わる人物としては、十三重石宝塔を建て伽藍の復興を成し遂げた人物と伝わる「観良上人良恵大徳」の供養塔も設置されています。

力だめしの石

コスモス畑の一角には「力だめしの石」として実際に持ち上げて頂けるユニークな巨石も設置されています。石は3種類あり、「戒の石」=もてる女石と呼ばれる石は22キロ、「定の石」=もてる男石と呼ばれる石は31キロ、「慧の石」=もてない石と呼ばれる石は51キロとなっており、かなり重い石ばかりとなっています。なお、この石は般若寺にかつて存在し、笠置山において鎌倉幕府軍との戦いで大きな戦功をあげた「本性坊」と呼ばれる僧侶にちなんだものとなっています。

水かけ地蔵尊と手水石船

本堂近くに佇む「水かけ地蔵」。般若寺の「みどころ」としては知名度は全くないような存在ですが、江戸時代中期に現在の「きたまち」エリアの町人により寄進されたものとなっており、コスモス畑の中で素敵な風情を醸し出しています。

小さなお風呂のような「手水石船」は再建された本堂に江戸時代前期の延宝年間に寄進されたものとなっています。

石塔部材群

石塔部材群は、かつて聖武天皇陵近くに存在した戦国武将「松永久秀」の拠点である「多聞城」跡から発見された五輪塔などであり、市内にはこの他のお寺にも称名寺などに同様の「多聞城」の名残が残されています。

次項では、拝観に関する情報を解説していきます。

拝観情報

拝観料

通常期:大人500円・中高生200円・小学生100円
花期特別:大人700円・中高生300円・小学生200円(6月1日~6月30日・10月1日~11月10日)

拝観時間

9時~17時(受付は16時30分まで)
1・2・7・8・12月=短縮拝観の期間は16時まで

次項では、交通アクセスについてご案内致します。

アクセス(電車・バス)

近鉄・JR線各駅からのアクセス

奈良交通バス

・JR、近鉄奈良駅から「青山住宅」・「州見台八丁目」行き乗車、「般若寺」バス停下車、北西に徒歩2分

近鉄奈良駅から北東に徒歩25分

※駐車場あり(コスモス開花シーズンは500円、それ以外の期間は無料)

周辺のみどころ・観光スポット

奈良少年刑務所跡から北東に徒歩3分、北山十八門戸から北に徒歩5分、奈良豆比古神社から南に徒歩8分、八鐵神社(弁財天)から北に徒歩10分、五劫院から北に徒歩12分

般若寺周辺地図