当ページでは、奈良時代~平安時代にかけての貴族の1人である「和気清麻呂(わけのきよまろ)」について、具体的な歴史との関わり・行ったこと・経歴や系譜をなるべく簡潔に見て行きます。
何をした人?
宇佐八幡宮事件のキーマン
和気清麻呂は、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)生まれの人物で、奈良時代の中頃から平安時代の初頭にかけて生きた貴族・高級官僚の一人です。
宇佐八幡宮神託事件とは、761年頃より「称徳天皇(孝謙天皇・上皇)」と深い関係を持ち、寵愛される形で政治的な地位を高めていった僧侶「道鏡」について、大分の宇佐八幡宮のご神託として「皇位継承者」とすれば社会が安定する。という内容が朝廷に伝えられた際に、その事実を確認しにいったところ、それとは正反対のご神託を持ち帰った(皇室の人間以外を皇位継承者としてはいけない)。というもので、道鏡の勢いに歯止めが掛けられたという一つの政治的事件でもあります。
和気清麻呂は、この宇佐八幡宮事件において、そのご神託を宇佐八幡宮へ確認しに行くために称徳天皇によって派遣された人物です。
事件についてはご神託を持ち帰ったということもあるのかもしれませんが、実質的には道鏡を皇位継承者としてはいけない。という天皇を除く朝廷全体のムードを感じながら和気清麻呂がある種の「使命」を当初より持って宇佐八幡宮を行き来したのかもしれません。但し、伝承上の話ですのではっきりとしたことはわかりません。
「醜い名前」に改名させられる
道鏡に肩入れし続けてきた称徳天皇(孝謙天皇・上皇)は、恐らくは道鏡の皇位継承に比較的肯定的であったことが推測されますが、自らが道鏡の皇位継承の「お墨付き」を確認するために派遣したはずの和気清麻呂は、「道鏡を皇位継承者に絶対してはいけない」という予想外・期待外れの「ご神託」を持ち帰ってきました。
なお、清麻呂は改名のみならず大隅国へ流罪となったほか、清麻呂の姉である広虫も『別部広虫売(わけべのひろむしめ)』という醜い名前をやはり付与されるという「制裁」を与えられました。
称徳天皇(孝謙天皇・上皇)は、歴史的に見ても稀なパターンですが、このように「自らに背いた人物」に対して「醜い名前」を付与する癖があったようで、宇佐八幡宮神託事件以前にも橘奈良麻呂の乱・不破内親王関連などでやはり「醜い名前」に改名させる事件が発生しています。
奈良時代末~平安時代初頭には高官として活躍
自らを流罪とした称徳天皇は、宇佐八幡宮神託事件の翌年770年に崩御され、後ろ盾を無くした道鏡が失脚したことで、清麻呂は再び朝廷の中に戻ることを許されます。
平城京から長岡京への遷都時には、大阪湾(難波)方面からの水運ルートを確保したり、その後は平安京への再遷都を進言して「造宮大夫」として建設事業に関わるなど、むしろ奈良時代が終わってからの時代に、遷都を巡るあわただしい動きの中で重要な役割を果たした人物であり、功績という面では「宇佐八幡宮神託事件」の紆余曲折のみならず、これらの後年の政治的役割も大きな存在となっています。