光仁天皇とは?最も高齢で即位した天皇の生涯をわかりやすく解説

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奈良時代の後半に在位し、天皇の歴史上、令和の時点でも最も遅く・ご高齢で即位された天皇として知られる「光仁天皇(こうにんてんのう。こちらでは、光仁天皇の系譜・事績・生涯など基本的な情報について、なるべくシンプルに解説をしていきます。

系譜

父親:志貴皇子(しきのみこ)
・天智天皇の皇子として生まれましたが、天武天皇の血統が皇位を継ぐ流れとなったこともあり、天皇の地位とは無縁の人生を送り、歌人として知られるなど文化的な分野で活躍されました。

母親:紀橡姫(きのとちひめ)

皇后:井上内親王(いのうえないしんのう)
・聖武天皇皇女として生まれた人物で、在位中の天皇を呪詛(呪いをかけた)として皇后の地位を途中で廃されました。
皇女:酒人内親王(さかひとないしんのう)
・のちの桓武天皇妃
皇子:他戸親王(おさべしんのう)
・光仁天皇の皇太子として将来の皇位継承者となりますが、井上内親王の罪に連座して失脚、そのまま不審な死を遂げました。

夫人:高野新笠(たかののにいがさ)
・渡来系にルーツを持つ氏族「和乙継」の娘として生まれた人物で、桓武天皇即位後は皇太夫人となりました。
皇女:能登内親王(のとないしんのう)
皇子:山部親王(やまべしんのう:桓武天皇)
・桓武天皇として後に即位し、長岡京・平安京への遷都を行うなど積極的な政治を行いました。
皇子:早良親王(さわらしんのう)
・桓武天皇の時代には弟として皇太子(弟)の地位に就きますが、藤原種次の死に関与したとして皇太子の地位を廃され、非業の死を遂げた人物です。後世には「怨霊」に関わる代表的な存在として恐れられ、崇道天皇の称号が贈られるなどしています。

その他夫人や宮人:藤原産子(ふじわらのうぶこ)・藤原曹司(ふじわらのそうし)・紀宮子(きのみやこ)・尾張女王(おわりじょおう)など

・諱(いみな)は「白壁(しらかべ)」
・和風諡号は「天宗高紹天皇(あまむねたかつぎのすめらみこと)」

出世の遅かった人物

のちの光仁天皇となる「白壁王」は、709年11月18日(和銅2年10月13日)に志貴皇子(しきのみこ)と紀橡姫(きのとちひめ)の子として生まれました。

父親である志貴皇子は天智天皇の皇子でありながらも、権力関係により天武天皇の血統が優先されるようになっていたことから、皇位とは無縁の人物でした。また、白壁王がまだ若い時期に亡くなってしまったため、朝廷における地位・後ろ盾がいなくなってしまいました。

結果として白壁王の出世は非常に遅くなり、はじめての位階が授けられたのは30歳になる直前737年(天平9年)にずれこみます(従四位下)。

その後もしばらくは昇進が遅く、この時点では皇位継承の流れに位置づけられる存在という訳ではありませんでした。なお、この時期には既に夫人である高野新笠との間に能登内親王、また後の桓武天皇である山部親王が生まれています。

次第に昇進・酒を飲んで過ごした日々?

白壁王が出世の道を少しづつ歩み始めるのは、749年(天平勝宝元年)に聖武天皇から女帝である孝謙天皇に譲位が行われ、その後しばらくして井上内親王と自らが結婚をした時期からとなります。

結婚自体は比較的高齢でのもの(白壁王は40代、井上内親王も30代半ば過ぎ)でしたが、754年(天平勝宝6年)には井上内親王との間に酒人女王が誕生します。その後も井上内親王45歳というかなりの高齢出産でしたが、761年(天平宝字5年)には他戸親王が生まれ、近い時期に白壁王の出世ペースも加速しています。

757年(天平宝字元年)には正四位下、翌758年には正四位上、759年には従三位となり、更に762年(天平宝字6年)には中納言になり公卿の仲間入りを果たしました。その後も764年(天平宝字8年)には正三位、766年(天平神護2年)には大納言に昇進し、10年ほどで一気に朝廷の上位まで上り詰めています。

これらの昇進にあたっては、当時の孝謙上皇・称徳天皇の信任なども影響したと考えられ、実際に白壁王は時の権力者である藤原仲麻呂がクーデター未遂を起こし自滅した際(藤原仲麻呂の乱・恵美押勝の乱)の際にも上皇側で対応にあたっています。

一方で、この時代の光仁天皇については、一般的に「お酒を飲んで無能を装った」というエピソードが語られることも多くなっています。

これらについては、当時様々な権力争いによって多くの有力者が失脚する姿を見る中で、自らの身を守るためにお酒に溺れて「自分には野心はない」ということを示したものと考えられ、大安寺にはその「お酒を飲む白壁王」のエピソードや崩御後の一周忌が行われたことににちなんだ「がん封じ笹酒まつり(光仁会)」が行われていることでも知られます。

最高齢での即位

お酒を飲んで身を守ったともされる光仁天皇ですが、770年(神護景雲4年)10月、当時の称徳天皇が崩御された後に急転直下、光仁天皇として皇位に就くことになります。

称徳天皇の時代は皇太子を定めることなく推移し、一時は僧侶の道鏡が皇位に就くという神託を巡ってトラブルも生じたりしました(宇佐八幡宮事件)が、それらも収拾が図られ、最終的には称徳天皇がしかるべき後継者を定めるとされていました。

そんな中で称徳天皇が急に崩御され、後継者を急に選出する必要に迫られた訳ですが、様々な政治的混乱により、これまで当たり前とされてきた天武天皇の血筋を引く有力者がほとんどいない状況がありました。

この光仁天皇の即位については、天皇自身は天智天皇の系譜にあたる従来の流れからは「異端」の存在であり、公式的には称徳天皇の遺言に基づいて決定したともされる一方、皇子である他戸親王は天武系と天智系の両方の血筋を引く存在であることなどを考慮し、藤原永手らが白壁王を推したといった話もあります。

即位後は井上内親王を皇后とし、他戸親王(おさべしんのう)は皇太子として次期の皇位継承者となりますが、即位して間もない772年(宝亀3年)3月には、皇后が天皇に呪いをかけたとしてその座から降ろされその流れで皇太子も廃位となり、2人ともその後更に迫害を受け、3年後に幽閉先で不審な形で亡くなっています。

この一連の動きは、他戸親王とは母親が異なる山部王(桓武天皇)を皇太子とするために藤原良継らが起こした陰謀ともされ、実際に773年には山部王が皇太子の座を手に入れています。

権力争いを避けてきた光仁天皇も、自らの周囲で起こる様々な権力関係の争いを封じられる訳ではありませんでした。

この後は「井上内親王の怨霊」ともされる災いなども生じ、在位中は不安定な状況が続いたようで、高齢の天皇にはストレスの大きな在位期間であったと言える中、781年(天応元年)には皇太子である山部王に譲位し、自らは太上天皇となり、間もなく73歳で崩御されました。

御陵について

光仁天皇の御陵については、当初は「広岡陵」と呼ばれる御陵に埋葬されたとされますが、786年(延暦5年)には現在の御陵(田原陵)に改葬が行われています。

広岡陵と呼ばれる御陵については、奈良市北端の山間部に位置する広岡町にあったという説や、現在の奈良市街地北側の法蓮町東側(聖武天皇そば)に広岡の名称が残されてきたことから、そちらを御陵とする考え方もありますが、はっきりしたことは分かりません。

田原地域にある光仁天皇陵は、奈良市街地からは離れた場所にあり、田んぼの中に浮かぶ島のような風景を生み出す空間になっています。

まとめ

光仁天皇は、天智天皇の皇子である志貴皇子(しきのみこ)と紀橡姫(きのとちひめ)を父母に持つ人物です。即位前は「白壁王」と呼ばれて来ました。

天皇の血統が「天武系統」に移っていることや、志貴皇子が白壁王が幼いうちに亡くなったことなどもあり、朝廷での出世は非常に遅く30歳の手前になってようやく位階を授けられるなど、当初は皇位の継承とは無関係とみなされる存在でした。なお、後の桓武天皇にあたる山部王など複数の子女は比較的若いうちに生まれています。

その後、聖武天皇から孝謙天皇の時代へ変わり、自らは井上内親王(いのうえないしんのう)と結婚して酒人内親王・他戸親王などの子女を持つ頃になると急速に出世ペースが上がり始めます。760年前後から「藤原仲麻呂の乱」周辺の時期にかけては次々に昇進を重ね、朝廷のトップクラスにあたる大納言の地位も手に入れることになります。

もっとも、昇進を重ねた時代の白壁王は、一般には「お酒に溺れた」とも言われることが多く、無知を装って自らに野心がない=反抗しないことをアピールすることで権力闘争の世界を生き抜いたともされています。

称徳天皇(孝謙天皇)が崩御した後は、既に天武系統の有力者が減っている状況などもあり、また様々な権力バランスも考慮され(本人は天智系統でも、皇子の他戸親王は天武系統の血筋を引く)、結果として最高齢で天皇の地位に就くことになり、10年ほど天皇として在位されました。
なお、即位後も皇后の廃位など目まぐるしい混乱があり、必ずしも安定した環境の治世という訳ではありませんでした。