奈良時代の後半に在位し、天皇の歴史上、令和の時点でも最も遅く・ご高齢で即位された天皇として知られる「光仁天皇(こうにんてんのう)」。こちらでは、光仁天皇の系譜・事績・生涯など基本的な情報について、なるべくシンプルに解説をしていきます。
系譜
・諱(いみな)は「白壁(しらかべ)」
・和風諡号は「天宗高紹天皇(あまむねたかつぎのすめらみこと)」
出世の遅かった人物
のちの光仁天皇となる「白壁王」は、709年11月18日(和銅2年10月13日)に志貴皇子(しきのみこ)と紀橡姫(きのとちひめ)の子として生まれました。
父親である志貴皇子は天智天皇の皇子でありながらも、権力関係により天武天皇の血統が優先されるようになっていたことから、皇位とは無縁の人物でした。また、白壁王がまだ若い時期に亡くなってしまったため、朝廷における地位・後ろ盾がいなくなってしまいました。
結果として白壁王の出世は非常に遅くなり、はじめての位階が授けられたのは30歳になる直前の737年(天平9年)にずれこみます(従四位下)。
その後もしばらくは昇進が遅く、この時点では皇位継承の流れに位置づけられる存在という訳ではありませんでした。なお、この時期には既に夫人である高野新笠との間に能登内親王、また後の桓武天皇である山部親王が生まれています。
次第に昇進・酒を飲んで過ごした日々?
白壁王が出世の道を少しづつ歩み始めるのは、749年(天平勝宝元年)に聖武天皇から女帝である孝謙天皇に譲位が行われ、その後しばらくして井上内親王と自らが結婚をした時期からとなります。
結婚自体は比較的高齢でのもの(白壁王は40代、井上内親王も30代半ば過ぎ)でしたが、754年(天平勝宝6年)には井上内親王との間に酒人女王が誕生します。その後も井上内親王45歳というかなりの高齢出産でしたが、761年(天平宝字5年)には他戸親王が生まれ、近い時期に白壁王の出世ペースも加速しています。
757年(天平宝字元年)には正四位下、翌758年には正四位上、759年には従三位となり、更に762年(天平宝字6年)には中納言になり公卿の仲間入りを果たしました。その後も764年(天平宝字8年)には正三位、766年(天平神護2年)には大納言に昇進し、10年ほどで一気に朝廷の上位まで上り詰めています。
これらの昇進にあたっては、当時の孝謙上皇・称徳天皇の信任なども影響したと考えられ、実際に白壁王は時の権力者である藤原仲麻呂がクーデター未遂を起こし自滅した際(藤原仲麻呂の乱・恵美押勝の乱)の際にも上皇側で対応にあたっています。
一方で、この時代の光仁天皇については、一般的に「お酒を飲んで無能を装った」というエピソードが語られることも多くなっています。
これらについては、当時様々な権力争いによって多くの有力者が失脚する姿を見る中で、自らの身を守るためにお酒に溺れて「自分には野心はない」ということを示したものと考えられ、大安寺にはその「お酒を飲む白壁王」のエピソードや崩御後の一周忌が行われたことににちなんだ「がん封じ笹酒まつり(光仁会)」が行われていることでも知られます。
最高齢での即位
お酒を飲んで身を守ったともされる光仁天皇ですが、770年(神護景雲4年)10月、当時の称徳天皇が崩御された後に急転直下、光仁天皇として皇位に就くことになります。
称徳天皇の時代は皇太子を定めることなく推移し、一時は僧侶の道鏡が皇位に就くという神託を巡ってトラブルも生じたりしました(宇佐八幡宮事件)が、それらも収拾が図られ、最終的には称徳天皇がしかるべき後継者を定めるとされていました。
そんな中で称徳天皇が急に崩御され、後継者を急に選出する必要に迫られた訳ですが、様々な政治的混乱により、これまで当たり前とされてきた天武天皇の血筋を引く有力者がほとんどいない状況がありました。
この光仁天皇の即位については、天皇自身は天智天皇の系譜にあたる従来の流れからは「異端」の存在であり、公式的には称徳天皇の遺言に基づいて決定したともされる一方、皇子である他戸親王は天武系と天智系の両方の血筋を引く存在であることなどを考慮し、藤原永手らが白壁王を推したといった話もあります。
即位後は井上内親王を皇后とし、他戸親王(おさべしんのう)は皇太子として次期の皇位継承者となりますが、即位して間もない772年(宝亀3年)3月には、皇后が天皇に呪いをかけたとしてその座から降ろされ、その流れで皇太子も廃位となり、2人ともその後更に迫害を受け、3年後に幽閉先で不審な形で亡くなっています。
この一連の動きは、他戸親王とは母親が異なる山部王(桓武天皇)を皇太子とするために藤原良継らが起こした陰謀ともされ、実際に773年には山部王が皇太子の座を手に入れています。
権力争いを避けてきた光仁天皇も、自らの周囲で起こる様々な権力関係の争いを封じられる訳ではありませんでした。
この後は「井上内親王の怨霊」ともされる災いなども生じ、在位中は不安定な状況が続いたようで、高齢の天皇にはストレスの大きな在位期間であったと言える中、781年(天応元年)には皇太子である山部王に譲位し、自らは太上天皇となり、間もなく73歳で崩御されました。
御陵について
光仁天皇の御陵については、当初は「広岡陵」と呼ばれる御陵に埋葬されたとされますが、786年(延暦5年)には現在の御陵(田原陵)に改葬が行われています。
広岡陵と呼ばれる御陵については、奈良市北端の山間部に位置する広岡町にあったという説や、現在の奈良市街地北側の法蓮町東側(聖武天皇そば)に広岡の名称が残されてきたことから、そちらを御陵とする考え方もありますが、はっきりしたことは分かりません。
田原地域にある光仁天皇陵は、奈良市街地からは離れた場所にあり、田んぼの中に浮かぶ島のような風景を生み出す空間になっています。