奈良の都を拠点とした奈良時代から、日本史上最も貴族文化が栄えた時代でもある平安時代への移行期に在位していた天皇である「桓武天皇」。
こちらのページでは、その系譜や生涯の事績(行った事柄)等について、なるべくわかりやすく解説していきます。
桓武天皇の「系譜」
父親:光仁天皇(こうにんてんのう)
◇高齢で即位・これまでの天皇とは異なり「天智天皇」の血統
母親:高野新笠(たかののにいがさ)
◇光仁天皇の「皇太夫人」・帰化氏族にルーツ・相対的な地位が高い人物ではない
皇后:藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)
◇父は藤原良継・母は阿倍古美奈、神野親王・高志内親王の2子を産むも、31歳で崩御
妃:酒人内親王(さかひとないしんのう)
夫人:藤原旅子(ふじわらのたびこ・後に贈皇太后)・藤原吉子・多治比真宗・藤原小屎
◇藤原乙牟漏(皇后)を母とする子女
第一皇子:安殿親王(あてしんのう・後の平城天皇)
第二皇子:神野親王(かみのしんのう・後の嵯峨天皇)
皇女:高志内親王(こしないしんのう)
◇藤原旅子(夫人)を母とする子女
第七皇子:大伴親王(おおともしんのう・後の淳和天皇)
◇酒人内親王(妃)を母とする子女
第一皇女:朝原内親王(あさはらないしんのう・後の平城天皇妃)
諱(いみな):山部(やまべ)
漢風諡号:桓武天皇
崩御後の諡号:日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)
別称:柏原天皇(かしわばらてんのう・柏原帝)・天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇
事績・年表
737年(天平9年):天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の第一皇子として誕生しました。
764年(天平宝字8年)10月7日:白壁王が正三位に叙される等官位を高める中、その皇子である山部王も従五位下に叙され、その後も位階を上げて行きます。なお、若い頃は皇族としての地位ではなく、官僚としての立身出世が望まれていたようです。
770年(神護景雲4年)11月6日:白壁王が光仁天皇として即位したことに応じ、山部王は「四品」の「山部親王」となりました。一方でこの時点では皇太子は他戸親王とされ、山部王は必ずしも高位には位置づけられていません。
773年(宝亀4年)1月29日:「山部親王立而皇太子」と定められ立太子しました。これにより次期天皇としての地位を事実上確約されます。なお、相対的な地位が低かった山辺王が即位するに至った理由としては、藤原氏を巻き込んだ政争の中で、光仁天皇の皇后井上内親王と、皇太子である他戸親王がその地位を廃された事に由来します。
781年(天応元年)4月30日:光仁天皇からの譲位に伴い、桓武天皇として即位されました。また、即位後すぐに弟である早良親王を皇太子と定めました。
783年(延暦2年)5月23日:藤原乙牟漏を皇后とし、その後皇后との間には安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)、高志内親王の3子が誕生しました。
784年(延暦3年)11月11日:天皇の勅命により、平城京から「長岡京」への遷都を行います。遷都自体はスムーズに行われ、宮殿は平城京ではなく難波宮の建物を移築する等の形で整備が行われました。遷都の理由には様々な説がありますが、奈良で権勢を振るう仏教勢力と距離を置くため・地域を支配する豪族との関係性・水上交通の利便性等の要因が想定されます。
785年(延暦4年)秋ごろ:皇太子とした早良親王について、藤原種継の死に関与したとして廃位し、早良親王は配流中の11月、抗議のため絶食(その他の説もあり)し薨去するという事件が発生しました。早良親王に関しては、この後都に災いが起きる度に「怨霊」として恐れられることになります。
789年(延暦8年):征東大使である紀古佐美(きのこさみ)を筆頭に、蝦夷征討を行いますが、現在の岩手県内で発生した「巣伏の戦い」で敗北、征伐には失敗しました。
792年(延暦11年)6月10日:長岡京で発生する度重なる災いを危惧し、陰陽師にその要因を占わせた所、廃位して非業の死を遂げた早良親王の祟りであるとされ、怨霊を鎮める為の祭事等が行われるようになります。また、この結果や和気清麻呂の建議等を受け、整備が進まない長岡京からの「再遷都」への動きが具体化していきます。
792年(延暦11年)6月:優秀な人物を抜擢して地方軍事力とし、国家的な軍事力(徴兵制)である「軍団(兵士)」を廃止する「健児(こんでい)制」を、軍事的な懸念の強い東北や九州を除き導入しました。
794年(延暦13年)11月22日:長岡京を放棄し、平安京への遷都が行われます。平安京の地が選ばれた理由は確実な事は判然としませんが、風水の観点から「四神相応」の縁起の良い立地であった等の理由が推定されています。なお、合わせて平安京のある地域を「山背国」から現在も使われる「山城」国の表記に変更しました。この他、同年にも蝦夷征伐を実施しています。
801年(延暦20年):在位中三度目の蝦夷征伐を行い、征夷大将軍坂上田村麻呂の功もあり、約2年程度の間に蝦夷の首長アテルイを降伏させ志波城を築く等、事実上蝦夷を平定するという成果を挙げました。
805年(延暦24年)12月31日:藤原緒嗣と菅野真道に良い政治について議論させるいわゆる「徳政相論」が行われ、藤原緒嗣の論に従う形で、庶民への負担も大きい蝦夷征伐と平安京のこれ以上の造営が中断されました。
806年(延暦25年)4月9日:70歳で崩御されました。崩御に伴い、安殿親王が平城天皇として即位されました。
当初は天皇になると目されていなかった存在
桓武天皇(若い時代は山辺王と呼ばれる)は、光仁天皇(白壁王)の実子ではありましたが、母親である高野新笠(たかののにいがさ)は相対的な地位が低い人物と推定されており、必ずしも山部王も将来の皇太子・天皇・皇族としての地位を生まれながらに期待される人物ではありませんでした。
実際に、父親の光仁天皇(白壁王)の地位故に一定の厚遇を受けつつも、当初は官僚としての出世が期待され、実際に大学頭や侍従に任じられ職務経験を積むなど、ある種の地道な経歴を有しています。
そのような山部王が、突如皇太子・天皇としての階段を登り始める事になったのは、772年~773年の政変に由来します。
政変では、当時光仁天皇の皇后であった井上内親王が光仁天皇を呪詛したという大逆罪に問われ、連座する形で皇太子である他戸親王もその地位を剥奪され、最終的には庶民と同等の存在まで格下げされるという大きな変化が生じました。
この結果、皇太子として山部王が「山部親王立而皇太子」と定められ立太子することになったのです。
この「激変」は、山部王を立太子させるために藤原良継(藤原宇合の次男であり藤原式家の祖)・藤原百川(藤原宇合の八男)が起こした陰謀であるとも考えられており、山部王自身がどの程度関与していたかは不明ですが、必ずしも平穏な過程でなかった事は確かと言えるでしょう。
歴代天皇の中でも積極的な「親政」
桓武天皇は、奈良時代を終結させ、貴族が権勢を振るうイメージの強い「平安時代」の起点に立った天皇ではありますが、摂関政治が本格化する前の過渡期に在位していたことや、天皇自身が当初は皇位を継承する存在としてではなく「官僚」としての基礎教育を受けてきた経歴を持つ事から、奈良時代で言う所の聖武天皇のように天皇自らが政治を行う「親政」を積極的に推進した天皇として知られています。
長岡京への遷都・平安京への遷都・3度に渡る蝦夷征伐、地方行政を監察する「勘解由使(かげゆし)」の設置、軍団及び兵士を廃止し一種の志願兵である「健児制」を導入するといった様々な施策・改革は天皇の積極的な関与の下行われたと推定されており、その後展開される摂関政治の中における「飾り」のような形式的な位置づけではありませんでした。
遷都を行った天皇として、平城京(奈良)の既存勢力とは距離を置く姿勢も見せ、当時の日本仏教を支配していた南都六宗には一定の圧力を加えた他、天台宗の開祖でもある最澄を保護した事でも知られ、密教文化を導入し、新しい仏教の風を吹かせようとしていた事が伺えます。
もっとも、多数の子女に恵まれ、子女からは3名の後の天皇が誕生したとは言え、早良親王の廃位と非業の死に伴う「怨霊騒ぎ」をはじめ、在位中には災害や悪疫といった問題が続き、長岡京も早々に放棄する等、無事平穏な在位期間と言えるような状況とは言えません。
しかし、平城京の時代から千年の都である平安京へと移り変わる時代を造り上げた存在として、歴史的な意味合いは大変大きな天皇と言えるでしょう。
まとめ
桓武天皇は、天智天皇系の光仁天皇(白壁王)を父親に、母親を渡来系氏族のルーツを持つ高野新笠に持つ存在であり、当初は「山部王」と呼ばれました。高野新笠は必ずしも高位の人物でなかったこともあり、当初から皇位継承が想定された存在ではなく、若い頃は官僚としての出世コースを期待されました。なお、子女の中には後の平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇がおられます。
官僚ルートから皇太子・天皇への道筋へ大きな変化が生じたのは、光仁天皇即位後に当時の皇后井上内親王と、皇太子である他戸親王がその地位を廃され、山部王に皇太子の地位が巡って来た「事件」に由来します。この政変は藤原良継らが関与したとされ、詳細は定かではありませんが、山部王の擁立が前提であったと推定されています。
皇太子となった後は、光仁天皇が在位中に譲位がなされ天皇として即位します。桓武天皇は貴族が政治を牛耳る平安時代の一般的イメージとは異なり、「天皇親政」によって長岡京及び平安京への遷都・3度に渡る蝦夷征伐、地方行政を監察する「勘解由使(かげゆし)」の設置といった各種政治的決断を行いました。