平城京空白の5年間?「恭仁京・難波京・紫香楽宮」への繰り返す遷都とは

基礎知識・お役立ち情報

聖武天皇の治世に代表される「奈良時代」の歴史ですが、その中で一か所だけ奇妙な歴史が残されている部分があります。

それは740年から745年の歴史。簡単に言えば、この間は「奈良時代」と言っても都は平城京(奈良)になく、恭仁京・難波京・紫香楽宮と呼ばれる都を転々としていました。

こちらの記事では、その空白の5年間とも言える謎の時期について、時代背景・度々行われる「遷都」の流れ・各都の場所等を解説していきたいと思います。

聖武天皇の東国行幸から始まる「平城京離脱」

740年の10月、それまで平城京を拠点にしていた聖武天皇は、東の伊賀国・伊勢国・美濃国・近江国への行脚を開始しました。

当時は「藤原広嗣の乱」が九州太宰府で発生しており、その鎮圧へと官軍が派遣されており、その戦局がまだはっきりとしていない段階で、聖武天皇は行脚を開始しました。

乱は畿内・平城京ではなく遠く離れた九州太宰府で起きていたものの、聖武天皇はこれに衝撃を受け、あわてて平城京から離れることになったという解釈もありますが、厳密な確証があるとは言い切れません。

聖武天皇は、現在で言う所の三重県の名張市を抜け、鈴鹿・四日市・桑名から現在の岐阜県へと入り、その後滋賀県内を琵琶湖の南側に沿って進み、京都方面から南に進み、現在の京都府木津川市の木津川北岸に「恭仁京」を設置し、そちらへ落ち着くことになりました。

恭仁京への遷都

聖武天皇の東国行脚の結果、辿り着いた「恭仁京」の地。この地は、右大臣として地位を築いた橘諸兄(たちばなのもろえ)が恭仁京一帯(相楽地域)を根拠地としていたことから、遷都の決定にはその影響も推定されています。

もっとも、恭仁京は違う都とは言っても、現在で言う所の奈良市に隣接する「京都府木津川市」の木津川北岸沿いに位置し、その後も立て続けに遷都する中では最も平城京(奈良)に近い場所にありました。平城京からは距離にして5キロ少々、歩いて1時間くらいの所ですので、離れているとは言えません。場所としては東国行幸をした後、地理的には奈良に戻ってきたような形になっているのです。

「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」との正式名称で呼ばれた恭仁京は、740年の12月15日から、厳密には744年の2月までの約3年少々設置されていました。もっとも、実質的には途中で紫香楽宮の造営等が行われるため、都としてはっきりと機能していた期間は更に短いものとなります。

都としては、741年以降左京右京・条坊の地割り等が画定され、木津川には橋が架けられ、平城京からは大極殿の移築も行われる等、一定の「都」としての体裁が整えられていきます。規模としては恭仁宮は平城宮よりも少し小さかったとされています。

しかし、平城京から恭仁京へ寺院や庶民生活の基盤が移るようなことは実質的にはなく、都市としては機能しないまま難波京・紫香楽宮へと遷っていくことになりました。

なお、恭仁京の跡については、聖武天皇が同じ時期に発した「国分寺」建立の詔に従い、「山城国分寺」としての再整備が図られます。平城京から移築された恭仁宮大極殿は、山城国分寺の金堂にそのまま活用され、この他に七重塔といった寺院建築も建立され、その後中世までは寺院として存続していたと考えられています。

難波京への遷都

恭仁京に移転してから3年程した後に、聖武天皇は平城京へ戻るのではなく、次は「難波京(難波宮)」への遷都を決定します。

難波京は、その名の通り現在の大阪市に設けられた都であり、具体的には大阪城の南側、地下鉄谷町四丁目駅と森ノ宮駅の間に位置するような場所に中心となる難波宮が築かれました。

この地は古くは「難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」として飛鳥時代には既に存在したとされ、652年の完成後は一時的には都とされていた他、686年に火災で焼失するまでは一拠点として維持され続けたともされています。

奈良時代の難波宮は、遷都の期間を問わず恭仁京等と比べても基盤整備が進んだともされ、単に宮殿が設けられていただけではなく、一定数の人間が京域に住んでいた事を伺わせるような発掘調査の結果も示されている等、より都市らしい体裁が整っていたとも考えられます。

元より難波京のそばにある「難波津(港)」は、遣唐使の派遣や様々な地域との海運の拠点として極めて重要な場所であり続け、この遷都もそのような流れの中で行われたため、一定の都市機能があったというのは当然の事とも言えるでしょう。

難波宮は、遷都の期間はごくわずかで天皇も実質的には滞在していなかったとすら言われますが、元々拠点地域であったことから紫香楽宮・平城京へと戻ってからも「複都」とも言えるような形で機能したともされ、奈良時代の終焉までは重要な存在であり続けました。

紫香楽宮への遷都

3度目の遷都は、現在の滋賀県甲賀市の陶芸で有名な信楽地域にあたる場所、「紫香楽宮(しがらきのみや)」への遷都が行われたとされています。一方で、この遷都については恭仁京や難波京と比べると、歴史的な謎がやや多い遷都でもあります。

この紫香楽宮は、恭仁京への遷都が行われてから間もない時期に、既に聖武天皇の離宮としての建設が開始されており、天皇は度々行幸することがあった場所でした。

また、743年には後に「奈良の大仏」となる「盧舎那仏」を造営することを発願しますが、これは当初は紫香楽宮に設置される予定で進められました。盧舎那仏は、唐の都である洛陽に「恭仁京」に、また山奥と言っても良い場所にある紫香楽宮を龍門石窟に見立て、龍門石窟に安置されている盧舎那仏をイメージして造立が図られたともされています。

もっとも、恭仁京と紫香楽宮の双方を整備することは必ずしも合理的とは言えず、盧舎那仏造営が決められて間もない時期に恭仁京の整備は中止され、紫香楽宮の整備に注力することになります。

なお、744年からは紫香楽宮ではなく現在の地名にも残る「甲賀宮」との名称が用いられるようになります。この変化を巡っては、紫香楽宮が甲賀宮と呼ばれるようになったのか、紫香楽宮のそばに別途甲賀宮が設置されたのか等、不明点が多くなっています。

遷都自体についても、745年1月には難波京から一時的に遷都されたとされていますが、平城京の側からの反対が強かったとされている他、遷都後すぐに火災などの災害が頻発したともされ、結局は同年中に平城京へすぐに戻っています。

後世の発掘調査により、宮殿跡等が発掘されている事から、離宮が存在し遷都が一時的に行われていたことは間違いのない事とは言えますが、なぜ盆地でもなく、大規模河川の流域でもなく、海上交通の要衝でもない「山深い」場所に都を置こうとしたのかについては、必ずしも定かではありません。

遷都中の平城京は?

さて、度重なる謎めいた遷都の間、本来の都であったはずの奈良「平城京」はどうなっていたのでしょうか。

これは、結論から言うと「遷都に伴う多少の人口流出(一部役人・宮廷の使いその他)」があったことは否定できないでしょうが、実質的な都市機能は相変わらず維持していたであろう。ということになります。少なくとも、遷都に伴い平城京がもぬけの殻になったようなことはまずなかったと言えるでしょう。

この辺りについては、必ずしも当時の記録が事細かに記されている訳ではありませんが、大寺院を保護する宗教都市としての性質もあった平城京で、興福寺や薬師寺といった大寺院がこの遷都に応じて移転したような歴史は一切ありません。また、港としての拠点性があった難波京はともかくも、恭仁京・紫香楽宮といった「都」は何もない場所に造営したものに過ぎず、一時的な遷都期間内では、実質的な都市機能を整備する事は出来なかった現実もあります、例えば恭仁京等では条坊制に基づく市街地の跡は発見されていません。

そのため、このわずな5年程度の遷都期間では、平城京の拠点性に大きなダメージはなく、その後再び平城京へ再遷都されてからは、概ね元通りの都市機能を持つ「都」へと戻っただけであったとも言えるでしょう。

遷都はなぜ繰り返されたか?

さて、平城京から恭仁京へ、そして難波京へ、更には紫香楽宮へ、結果としては再び平城京へと戻るという極めて奇妙な動きがあったの740年~745年の歴史ですが、この「要因」は一体何なのでしょうか。

これについては、歴史学的な統一的見解・明確な歴史的証拠と言えるものは残念ながら存在しません。

しかし、一般的に言われているように、聖武天皇が741年の10月に九州太宰府での「藤原広嗣の乱」が発生する最中に東国行幸を開始したという事実からは、この混乱した状況下での何らかの焦りや危機意識が反映されているという解釈も可能でしょう。

一方で、その後乱が終結してから時間が経っても、難波京に紫香楽宮と遷都を繰り返している状況からは、一時的な戦乱ではなく、より大きな時代背景を考慮する必要もあります。

聖武天皇の治世を代表する「天平年間(729年から749年)」は、「藤原広嗣の乱」が発生する前から地震といった様々な天災や飢饉、また737年に藤原四兄弟が全員死亡したことで有名な天然痘の流行など、国にとっての「災い」が絶えない期間でした。

遷都を繰り返す流れには、そのような一時的というよりは、継続して国を襲う災いに対する意識が働いていたのではないか。という解釈も可能なのです。

遷都を繰り返す時期と同じタイミングでは、「国分寺建立の詔」や「大仏建立の詔」等、国家を仏教によって守ろうという「鎮護国家思想」を反映した施策も矢継ぎ早に打ち出されます。遷都にしても、仏教への帰依にしても、突然の思い付きで短期的な救いを求めたというよりは、厳しい時代状況を反映した天皇の意思であったと見る方が適切なのかもしれません。

まとめ

平城京が都とされた奈良時代ですが、聖武天皇の治世にあたる740年~745年の間には、「恭仁京・難波京・紫香楽宮」へと度々遷都が行われました。

恭仁京は、奈良に近い現在の京都府木津川市に設置され、難波京はその名の通り現在の大阪都心部に、紫香楽宮は滋賀県甲賀市の信楽地区に設置されました。

各遷都については、海上交通の要衝にあたる難波津を元より有していた「難波京」以外は十分な基盤整備も行われないままに終わったため、平城京から大規模に都市機能が移るようなことはなかったようです。なお、恭仁京の跡地は「山城国分寺」へと転用される異例の措置が講じられました。

遷都が繰り返された理由については不明点が多くなっていますが、その契機としては太宰府で発生した「藤原広嗣の乱」に伴う混乱時に天皇が東国行幸を行ったことから始まっています。また、時代背景としては戦乱に限らず疫病・地震・火災等当時の天平時代は国に災いが次々と降りかかる状況があったとされ、鎮護国家思想の展開と共に、災厄を回避する・国を守る意図もあったと推測する事も可能です。