天平文化とは何か?その特色や内容を詳しく解説

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こちらのページでは、歴史の授業等でも必ず登場する古代日本を代表する文化「天平文化」の特徴やその内容について、なるべくわかりやすく解説していきます。

天平文化とはいつ頃の文化?

天平文化というと、奈良・平安・鎌倉といった時代区分とは違う名称が用いられているため、「どの時代のもの」なのかよくわからない。と思われる方も多いかもしれません。

天平文化については、簡単に言ってしまえば「奈良時代」に栄えた文化の事です。奈良時代は710年から784年まで続きましたが、その中でも729年から749年まで続いた元号である「天平」の時代は、奈良時代を代表する存在である聖武天皇の時代(治世)と重なり、ある種の「最盛期」とも言える時期でした。そのため奈良時代を代表する文化の流れとして「天平文化」という表現が使われています。

この用語には厳密な定義はありませんので、「奈良時代全体」の文化を広く「天平文化」と言っているような表現もありますし、上述した奈良時代中頃にかけての天平時代頃に生み出された要素を重視して「天平文化」と表現しているケースもあります。

天平文化の特色

奈良時代に栄えた「天平文化」は、その特色として以下のような要素を持っています。

・比較的豊かで「貴族的」な文化
・遣唐使の派遣等により、中国(唐)の影響を強く受ける等国際色も豊か
・「鎮護国家思想」に基づく仏教文化を反映
・多数の大規模建築や後世に評価される仏教美術を生み出す

奈良時代に入る少し前には、日本における「律令制度」・法に基づく支配を事実上初めて明確にすることになる「大宝律令」が制定され、朝廷・都に権力や富が集約されやすくする(中央集権的)システムが構築されていきます。

奈良時代に入ってからの中央集権的なシステムは、国の事情に合うように絶えず見直しと試行錯誤が図られますが、平城京に様々なヒト・モノ・カネの流入をもたらしたことには違いなく、朝廷の関係者や貴族らはそれなりに豊かな生活文化を享受し、高貴な文化を生み出していくことになるのです。

また、当時は飛鳥時代から継続的に「遣唐使」が中国(唐)へと派遣されていました。奈良時代の特に聖武天皇の時代には、国を守るために仏教の力を利用するという「鎮護国家思想」が明確になり、国家と仏教の関係性が強まりますが、そのような流れでは常に中国(唐)から輸入された最新の仏教文化(経典や仕組み等)が活用される事となり、奈良時代の文化には様々な場面で一定の「国際色」も反映されています。

例えば、唐の影響は生活にも及ぶものであり、庶民は無関係だったとは言え、律令政治の根幹を成す『養老律令』では「衣服令」と呼ばれる決まり事もあり、場面(儀式)・地位に応じて貴族らが着る服装について細かく規定されており、そのルール・デザイン・色彩等は、唐の影響を受けたものでした。

この他には、例えば大仏建立や国分寺設置といった国家的な大事業や国家による庇護を受けた寺院等(南都七大寺)の勢力や規模の拡大等、それまでの時代と比べると規模感の大きい物事が増えていきます。現在はほとんど残されていないものの、相当なスケールの建築物が平城京周辺に建設された他、多数の仏教美術も生み出され、こちらは現在も貴重な文化財として残されているものも多くなっています。

文学

『万葉集(まんようしゅう)』
成立:奈良時代末頃編纂
編者:不明だが、大伴家持が関わったと推定
代表的な歌人:有間皇子・額田王・柿本人麻呂・大伴旅人・大伴家持・山上憶良・山部赤人・大友坂上郎女等

天平文化の具体的な事例として、最も有名かつ典型的なものは、奈良時代に生み出された各種文学、とりわけ「万葉集」の世界です。

万葉集は、天皇や貴族らが詠った高貴な和歌に留まらず、下級官人・防人・大道芸人・農民の歌や、東国(かつての関東地方)で作られた「東歌」等、身分や地位、地域も様々な対象から集められた当時の文学の総集編とも言えるものであり、4500首以上の和歌が全20巻に収録される壮大な歌集です。

『懐風藻(かいふうそう』
成立:751年(天平勝宝3年)頃
編者:淡海三船と推定
代表的な作者:大友皇子(弘文天皇)・川島皇子・大津皇子・智蔵(渡来僧)・葛野王・文武天皇・藤原不比等・長屋王等

奈良時代の中頃には、現存する最古の日本漢詩集である『懐風藻』が成立します。こちらは万葉集とは異なり、飛鳥時代を含む天皇や皇族、貴族・僧侶らを中心とした作品が集められています。

日本において重厚な漢詩集を編纂するということは、遣唐使等も盛んに行われていた当時において、律令国家の先進地である中国(唐)をある種の手本・標準としていた一つの事例とも言えるでしょう。実際に、奈良時代の貴族階級は漢詩のたしなみを当然の教養としていました。

仏教美術

<代表的な仏像【乾漆像】>
興福寺「八部衆立像」(阿修羅像など)
興福寺「十大弟子立像」
東大寺法華堂(三月堂)「不空羂索観音立像」
東大寺法華堂「梵天・帝釈天立像」
東大寺法華堂「四天王立像」
東大寺法華堂「金剛力士立像・密迹力士立像(阿吽)」
唐招提寺金堂「盧舎那仏坐像」
唐招提寺御影堂「鑑真和上坐像」

<代表的な仏像【塑像】>
東大寺法華堂「執金剛神立像」
東大寺法華堂「日光菩薩・月光菩薩立像」
東大寺法華堂「弁才天・吉祥天立像」
東大寺戒壇堂「四天王立像」
新薬師寺「十二神将立像」

奈良時代においては、天皇や皇后・貴族らの多くが仏教に深く帰依したことや、奈良の南都七大寺が朝廷による保護の対象として手厚く取り扱われ、仏教研究の拠点としての機能拡大を奨励していたこともあり、あちこちで多数の仏像が造立されました。

仏像としては、金銅像や木像といった従来の技法に加え、木材を芯として粘土で固める塑像(そぞう)・粘土の原型の上に麻布を麦漆で貼り重ねていく乾漆像(かんしつぞう)の技法が確立し、仏教美術の水準やバリエーションが一気に広がった時代でもあります。

仏像の特徴としては、均整・調和の美を感じさせる仏像や、表情豊かでリアリティを感じさせる仏像が多くなっています。天平文化が生み出した仏像は、とりわけ「興福寺国宝館」や「東大寺法華堂」に多く安置されており、通常の場合1年を通して公開されているため、じっくりとご覧頂く事が可能です。

建築

<現存する天平建築(奈良市内)>
東大寺法華堂東大寺転害門東大寺本坊経庫東大寺正倉院正倉
唐招提寺金堂唐招提寺講堂唐招提寺経蔵及び宝蔵
新薬師寺本堂・元興寺五重小塔・手向山八幡宮宝庫・海龍王寺西金堂・海龍王寺五重小塔

奈良時代には、平城京に各寺院が移転する中で、仏教が国家を守るという「鎮護国家思想」に基づき仏教と国家の距離が近づいた事、またその結果奈良の大寺院を朝廷が保護したこともあり、各寺院はその規模を一気に大きくしました。

また唐招提寺等の新しい寺院も建立され、最盛期の平城京周辺は、多数の七重塔や五重塔、巨大な金堂建築が多数立ち並ぶ壮大な風景が広がっていたと考えられています。そのような環境下で建てられた建築物が「天平建築」と呼ばれています。

建築のスケールとしてはそれまでの時代と比べても大きく進歩した天平建築は、平安時代以降に発展する和様建築の基礎となる技術を確立したという点でも重要な存在です。天平建築の発展には、当然ながら渡来人の持ち込んだ様々な技術も数多く活用され、奈良時代の間は日本独自のスタイルはまだ希薄な点はありましたが、この技術を基盤に平安時代以降は一定のオリジナリティを次第に獲得していき、鎌倉時代に大仏様・禅宗様と呼ばれる中国由来の建築技術が新しい時代を築くまでの間のスタンダードとして大きな文化を形成していく事になりました。

記紀や風土記の編纂

712年(和銅5年):古事記が完成
編者:太安万侶

720年(養老4年):日本書紀が完成
編者:舎人親王など

713年(和銅6年)以降~:風土記の編纂が開始
各国ごとに編纂させる形で実施。現存するものはごく一部に留まる

美術や建築とは異なるジャンルであり、どちらかと言えば政治的側面が目立つものではありますが、奈良時代の初頭には歴史書である『古事記』・『日本書紀』が成立し、日本各地の風土・地理を詳しく記述した『風土記』の編纂も行われていきます。

『古事記』と『日本書紀』はいずれも日本のルーツを記した歴史書という扱いではありますが、古事記についてはエピソードを中心とした紀伝体で記されている等物語性が強く、神話時代の内容に重点が置かれています。一方で日本書紀は時系列の編年体で記された正統派の「お堅い歴史書」としての特徴が強い等、それぞれの特徴があり、古事記については文学的な意義が評価されているという側面もあります。

工芸・絵画等

この他の天平文化の遺産については、例えば高い知名度を誇る「正倉院宝物」を忘れてはいけません。正倉院宝物は、光明皇后が夫の聖武天皇の追悼のために天皇の遺品約650点程を東大寺に献納した歴史にルーツを持つものであり、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)・白瑠璃碗(はくるりのわん)等多数の美麗な工芸品が現在まで良好な状態で保存されています。

正倉院宝物の1割程度は海外由来のものであり、中国に留まらず、シルクロードを通り遠くペルシア方面から輸入されたものもある等、国際色豊かな天平文化を象徴する要素の一つと言えるでしょう。

なお、工芸品としては正倉院宝物以外にも、奈良時代後半の「恵美押勝(えみのおしかつ)の乱」を平定した後、その慰霊のために称徳天皇の勅命によって造られた「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」も有名で、こちらはその名の通り無数の木製三重小塔に陀羅尼経を納めたという独特の存在として知られています。

「絵画」については、現在残されている作はかなり少ないですが、正倉院宝物に含まれる「鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょのびょうぶ)」の樹下美人図や、「薬師寺吉祥天像(やくしじきちじょうてんぞう)」、唐のものを模写した「過去現在絵因果経(かこげんざいえいんがきょう)」等が代表的なものとして知られています。

まとめ

天平文化は、基本的に「奈良時代の文化」を指す名称です。奈良時代ではとりわけ前半から中頃にかけて「天平」年間が文化的な最盛期であったことから、この「天平文化」という用語が使用されています。

天平文化の特徴としては、概ね貴族的・遣唐使等の関係から国際色も豊か・鎮護国家思想に基づく仏教の重要性を反映といった特徴が見られ、仏教美術や寺院建築の分野では特に多くの遺産を残しました。

文学としては『万葉集』・『懐風藻』が編纂されたことが有名であり、『古事記』や『日本書紀』、『風土記』といった歴史書や地誌を記した書も編纂されました。

仏教美術としては「塑像」や「乾漆像」といった新たな技法が発展し、東大寺法華堂の各仏像をはじめ、調和ある美しさを感じさせる仏像が多数造立されました。

建築については平城京周辺に多数の寺院建築が建設され、天平建築のスタイルは渡来技術の影響を強く受けつつも、平安時代以降に受けるがれる「和様」の基本となるものとして発展していきました。

この他には、光明皇后ゆかりの「正倉院宝物」の美麗な工芸品(海外由来も含む)や、一部の絵画など、国際色豊かかつ王朝・貴族文化を反映した遺産が現在に至るまで残されています。