淡海三船はどのような人物か【懐風藻】

奈良の基礎知識

奈良時代を代表する文化人の一人であり、とりわけ漢詩や唐由来の文物についての知識に優れていたとされる「淡海三船(おうみのみふね)」

こちらでは、その人物像について「行ったこと」・「経歴や系譜」をなるべくシンプルに見て行きます。

何をした人?どんな人?

現存する最古の漢詩集『懐風藻』の編者とされる

淡海三船は、一般にその名が登場する際には、日本で最も古い(現存するものとして)漢詩集である『懐風藻』(かいふうそう)の編者である可能性がある人物として登場することが多くなっています。

『懐風藻』は、天平勝宝3年(752年頃)に成立したもので、天皇や皇族・僧侶などが作者として116首の漢詩が収録されています。

なお、編者であることについては必ずしも歴史的な証拠があるとは言えず、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)など他にも漢詩に精通した文人がいたことから、それらの人物が編纂に関わったという見方もあります。

歴代天皇の「漢風諡号」を考案(撰進)したとも

特に漢詩や中国由来の書物への教養が深い文化人であった淡海三船は、歴代の天皇が亡くなった後に贈られる名前「諡号(しごう・おくりな・漢風諡号)」を、762年(天平宝字6年)~764年(天平宝字8年)の間に一括して考案(撰進)した人物であるともされています(『釈日本紀』による)。

ざっくりと言えば、例えば「神武天皇」や「聖武天皇」など現代一般的に歴代天皇の名称として呼称しているものは、淡海三船が漢籍に関する知識や天皇陛下のご功績などを参考に決めたとされている訳なのです。なお、歴代天皇のうち一部では、既に漢風諡号が存在したものもあるとされるため、全てを考案した訳ではない可能性もあります。

皇族出身・僧侶から朝廷の役人へ

淡海三船はその系譜を見た場合、天智天皇の玄孫・大友皇子の曽孫にあたる人物であり、当初は御船王(みふねおう)と呼ばれたなど皇族に位置づけられる存在です。

経歴については、若い時期に一時期出家して僧侶となり「元開」と名乗っていましたが、その後再び一般の世界に戻り(還俗)し、当時一般的であった臣籍降下(皇族から離脱)によって淡海三船を名乗るようになったという流れがあり、その後は一貫して朝廷の役人として生涯を送ります。役人としては地方での経歴も長く、駿河守・美作守・東山道巡察使などを歴任し、文化人らしく漢文学などを教える文章博士、大学頭などを務めたこともあります。

経歴・系譜など

父親:池辺王(いけべのおおきみ)
父方の祖父:葛野王(かどののおう・弘文天皇大友皇子の第一皇子であり、式部卿などを務める)

皇族としての名は「御船王(みふねおう)」、僧侶としての名前は「元開(げんかい)」、臣籍降下後は「淡海三船(おうみのみふね)」を名乗りました。

722年(養老6年):池辺王の子として誕生しました。
若い頃:唐からの渡来僧である道璿(どうせん)につく形で仏教の道に励み、元開を名乗り一時出家しました。
751年(天平勝宝3年):僧侶から還俗したうえで、臣籍降下によって淡海真人姓を賜与されました。
760年(天平宝字4年):山陰道巡察使に任命されました。
761年(天平宝字5年):従五位下に昇叙、および駿河守に任命されました。
762年(天平宝字6年):文部少輔に任命されました。
764年(天平宝字8年):美作守、次いで近江介に任命されました。また正五位上に昇叙しました。なお、当時の「藤原仲麻呂の乱」に際しては孝謙天皇の側につき、その功績を称えられて昇進が進んだ側面もありました。
766年(天平神護2年):功田20町を授かりました。また、東山道巡察使に任命されました。
767年(神護景雲元年):兵部大輔、次いで大宰少弐に任命されました。なお、東山道巡察使については職務内容に問題があるとして解任されたという出来事もありました。
771年(宝亀2年):刑部大輔に任命されました。また、このころ文化人としての地域ふさわしく大学頭にも任命されました。
772年(宝亀3年):漢文学など自身の専門分野を享受する文章博士にも任命されました。
777年(宝亀8年):大判事に任命されました。
778年(宝亀9年):大学頭に任命されました。
780年(宝亀11年):従四位下に昇叙となりました。
781年(天応元年):御装束司に任命されました。
782年(延暦元年):因幡守に任命されました。
784年(延暦3年):刑部卿に任命されました。
785年(延暦4年):64歳で亡くなりました。