古代日本・奈良時代の「戸籍」とはどんなもの?

基礎知識・お役立ち情報

日本をはじめ東アジアの歴史上重要な役割を果たし、現代の日本でもその仕組みが残される「戸籍制度」。

こちらでは、古代(飛鳥・奈良時代頃)の戸籍の仕組みについて、その成立過程や制度の仕組みなどをなるべくシンプルに解説していきます。

「戸籍」ってそもそも何?

古代の戸籍、現在の戸籍の議論以前に、まずもってそもそも「戸籍」とは何か。ということを余りよくイメージできない方もいらっしゃるかもしれません。

ざっくり言えば、戸籍とは「戸」という単位でその国の国民の身分を登録・管理するシステムです。

「戸」単位というのは、要するに現代で言えば「家族」単位ということであり、現在の日本でも「戸籍謄本」という形でその人が誰の子に生まれたのか、いつ結婚したのかといった内容が記録され、証明書類などで使われることも多くなっています(住民票は「住んでいる」ことの証明にはなりますが、誰の子供でどの家族に属しているのか、といった内容の証明にはなりません)。

これから解説する古代・奈良時代の戸籍制度についても、その身分を明らかにするという意味では同じようなものですが、当時は現代にイメージする家族単位というよりは、やや人為的にまとめられた更に大きな大家族集団、また仕える人物など血縁がない存在も場合によっては含まれることがあるなど、もう少し規模が大きくかつ複雑な単位として編成されたと考えられます。

戸籍制度の目的・意義

古代日本において、戸籍が作成されるようになった要因は、様々な要素が考えられますが、理由を広い意味でまとめれれば「国民・人民の状況を把握することで、支配・管理を行うため。」と言えるでしょう。

そもそも大きな豪族のような「知名度の高い存在」を除き、何処に誰が住んでいるのか実際の所はよくわからない。というのがそれまでの古代国家の実情であり、そのような不安定な状況は本来望ましいものではありません。どこの誰が分からない人があちこちで色々なことをすると、社会が不安定になる(盗賊など)という懸念は常につきまとうものでした。

また、そういった治安面での支配以上に、とりわけ飛鳥時代の終わり以降・奈良時代には法令に基づく「律令制度(国家)」の仕組みが確立し、「班田収授法」に基づく農業政策として各個人単位に「口分田」の支給が国家によって行われるようになりました。

その中で戸籍は専らその「口分田」を支給するための確認(どこに誰が住んでいるのか)に用いられることにもなり、いわゆる「公地公民制」で人民を支配下に置く上においても一定の重要な役割を果たしました。

単位と記載内容

古代日本の戸籍は、個人の続柄など身分について記述される。という点は現代と近い点もありますが、その単位・編成の仕組みは大きく異なります。

古代の地方行政区分は、(例:大和国)・(例:添上郡)・(例:春日郷)・の大きく4つの区分に分かれており、戸籍では「50戸」を「1里」として数えることが基本とされました。

1つの戸戸主と複数の成人男性(丁男)・その配偶者や子供・寄口(きこう)と呼ばれる血縁関係が不明、ない存在も含まれる大家族的な単位として編成され、10~30人程度になることが多かったようです。
但し、戸はあくまでも行政的な単位であるため、人口が増減しても戸数などの編成が変わらないこともあったようで、厳密な家族単位とは言えない側面も多々あったと考えられます。

戸籍には、それぞれの個人の親や妻といった続柄に関する内容・名前・年齢などが記され、位階を有する場合や兵士などについてはその旨も記述されたようです。また、班田収授法に基づき「口分田」を与えるための証明書類でもあるため、配分された田の面積も記されることがあったようです。

なお、戸籍に似た存在としては別途「計帳(けいちょう)」と呼ばれるものもありました。こちらは戸籍が口分田の配分に主に用いられるのに対し、「租税(庸・調)」の徴収目安を測るための台帳と言えるもので、戸籍の6年毎とは異なり「毎年更新」されるものでした。

戸籍制度の確立は飛鳥時代

日本における「戸籍制度」は、奈良時代に始まったのではなく、それより少し前の飛鳥時代に既にある程度確立された制度です。

ルーツは比較的古いようで、既に6世紀頃には「名籍(なのふだ)」とも呼ばれる形で渡来系の人々を管理するための手段として既に戸籍の原型のようなものが、あくまでも一部の範囲で用いられていた歴史も残されています。

国民の広い範囲を含む戸籍制度自体は、飛鳥時代のターニングポイント「大化の改新」後の時代にその制度設計が本格化したと考えられます。

庚午年籍

日本ではじめての本格的な戸籍制度とされるのは670年(天智9年)に成立した「庚午年籍(こうごねんじゃく)」

こちらは、『日本書紀』の記述にも「戸籍を造り、盗賊と浮浪者とを断ず」と記されているように、国民の身分を朝廷・国家が把握して様々な問題を防ぐためなどに造られたものと考えられていますが、必ずしも現存している訳ではありません。但し、一般的な理解としては比較的広い階層・国民が戸籍に登録されたと考えられています。

庚寅年籍

689年(持統3年)に公布されたとされる本格的な律令法である飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)では、6年に1回戸籍を作り直すことが明記されました。

それを受けて翌年の690年(持統4年)には「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が作られることになり、これ以降定期的な戸籍の作成が行われるようになったことから、古代日本における戸籍制度・戸籍に基づく政治の本格的な幕開けを告げるものでした。

奈良時代も戸籍制度が続く・平安時代には衰退

飛鳥時代が終わりを告げ、710年に平城京へ遷都してからの時代も、少なくとも奈良時代の間は戸籍を制度そのものに大きな変化はありませんでした。

律令制度に基づく政治は奈良時代になりより本格化し、戸籍も6年に1回の作り替えが行われ、班田収授法に基づく口分田の配分も一定程度行われることになりました。

但し、時代が進むにつれて「墾田永年私財法」・「三世一身法」のように、国家が土地を配分する「公地公民」ではなく、人民が自ら土地を私有することを朝廷が認めるようになり、各地の有力者が土地を囲い込む「荘園」の原型のようなものも発生していきます。こうなると、朝廷が土地を配分する制度は緩んでいくことになり、その証明書類である戸籍もまた、次第に形式的な存在になっていくことになります。

戸籍制度が本格的に衰退しはじめるのは平安時代に入ってからであり、調査が不十分であったり、税などの徴収・国家に奉仕する「課役」を行う単位として記録されることを避けるため、戸籍(及び似た機能をもつ「計帳」)に掲載される内容が次第に実態を反映しないもの(女性が非常に多い戸ばかりになる・極端に長寿の高齢者が多数記録されるなど)になり、最終的には全国的な戸籍の作成が平安時代の後半には行われなくなりました。

すなわち、現在の日本で実施されている戸籍制度は、必ずしも奈良時代から全国的に続いていたものを継承するものとは言えません(内容もやや異なります)。

まとめ

古代の戸籍制度は、国家が人民を支配・管理するための手段、また「班田収授法」に基づいて個人単位で田んぼを配分(口分田)するための証明書類などとして用いられたものであり、「戸」を単位に各個人の続柄や名前・年齢などが明記されました。

制度自体は飛鳥時代の後半に確立したものであり、はじめての全国的な戸籍としては「庚午年籍(こうごねんじゃく)」、より本格的なものとしては「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」があり、奈良時代にかけて6年に1回の更新が行われるなど、一定の期間制度として機能し続けます。

戸籍については、人民が土地を私有するようになると口分田の重要性は薄れ、税などの徴収の単位として記録されることを嫌がる庶民により内容が実態とはかけ離れたものになったこともあり、平安時代には全国的な作成は行われなくなり、古代の戸籍制度は実質的な終焉を迎えました。