藤原武智麻呂とはどのような人物か?【藤原四兄弟】

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奈良時代の前半に「長屋王」から政権を奪還して一時的に権力を握った「藤原四兄弟」。こちらではその中でも藤原南家の祖にあたる長男の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)という人物について見て行きたいと思います。

系譜

父親:藤原不比等(中臣鎌足の子・奈良時代初頭に権力を握る)
母親:蘇我娼子(蘇我連子の子)

正妻:阿倍貞媛(阿倍貞吉もしくは阿倍真虎の娘)
・長男:藤原豊成(のちの右大臣)
・次男:藤原仲麻呂(藤原仲麻呂の乱を引き起こし敗北)

妻:紀麻呂の娘
・三男:藤原乙麻呂(のちに軍事を担当する武部卿などを務める)

妻:阿祢姫 (小治田功麻呂の娘)
・四男:藤原巨勢麻呂(藤原仲麻呂の乱に連座)

年表・略歴

680年(天武天皇9年)この年生まれました。なお、母親の蘇我娼子は武智麻呂が幼いうちに亡くなっています。
701年(大宝元年)正六位上・内舎人に叙任される形で官僚の世界へと入ります。翌年には中判事に任命されますが、病気で辞任し一時的に休養しました。
704年(大宝4年)学問を行う官僚養成機関の担当である大学助に任命されます。翌年にはトップの大学頭となり、学者を集めて儒学を中心とした学問の振興を図ります。
708年(和銅元年)図書頭兼侍従に任命され、各種書籍の収集などを行いました。
712年(和銅5年)地方官である近江守に任命され、寺院や土地関係の問題解決を図るなど各種政策を展開します。
716年(霊亀2年)式部大輔に任命されます、2年後には式部卿となり、順調な出世を遂げていきました。
719年(養老3年)正四位下に叙せられるとともに、皇太子の教育担当である東宮傅(聖武天皇になる前の首皇子担当)に就任しました。
721年(養老5年) 従三位に叙せられ、中納言となります。なお、これまでの時期は弟にあたる藤原房前と同じ位かそれよりも下位に位置づけられていましたが、これ以降武智麻呂が上位となり、政治的主導権を握っていきます。
724年(神亀元年)正三位に叙せられます。この後知造宮司事や播磨守も兼任します。
729年(神亀6年)春先に長屋王の変を主導し、藤原宇合らに長屋王邸に兵を送らせるなどして長屋王は自害する形となります。その後すぐに武智麻呂は大納言となり、権力基盤を確実なものへとしていきます。
734年(天平6年)従二位・右大臣に叙任され、既に実権を握っていた中で、名実ともに権力機構の頂点に立つことになりました。
737年(天平9年)7月25日、天然痘により亡くなりました。なお、同時期に四兄弟全員が同じ病気で没しています。死没とともに正一位左大臣に叙せられています。また、760年には太政大臣の号が追贈されました。

現在の墓所は、奈良県五條市の栄山寺の裏手にあります。

長屋王の変では主導的な役割を果たす

藤原四兄弟の筆頭格である藤原武智麻呂は、藤原不比等という奈良時代の初期を造り上げたといっても過言ではない存在の子息であり、官界でも比較的順調に出世を遂げていった人物ですが、途中段階では「長屋王」との権力闘争がありました。

長屋王は武智麻呂を除く藤原四兄弟の年齢が比較的若いことなどもあり、身内の勢力で権力を固め、藤原氏を圧倒する勢いで一世を風靡しますが、それを脅威に感じた藤原四兄弟(武智麻呂)の側が「長屋王が謀反を企てた」として兵士を送り、皇親勢力らを使って尋問を行い自害に追い込むという「長屋王」の変を引き起こします。

長屋王の変については、四兄弟の中でも武智麻呂が主導的な役割を果たしたと推測されており、この権力闘争に勝利したことで、武智麻呂をトップとする形で藤原四兄弟が政治の主導権を持つことになりました。

なお、737年には武智麻呂を含む四兄弟全員が当時流行していた天然痘で亡くなっています。余りにもあっけない形での権力の喪失に、「長屋王の呪い」ではないか。などといった言われようをされるのも無理はありません。

学問・文化に精通した教養人

藤原武智麻呂は、長屋王の変に関わったことから権力闘争のイメージがつきものですが、本来の人物像としては、どちらかといえば温和で大学頭や図書頭を歴任したこともあり、学問(儒教文化)や文学などに精通した教養人としての側面が強い存在です。

大学助・大学頭としては学問を行う空間として学者を招へいし大学制度の復興を図り、719年には後の聖武天皇である首皇子の教育担当に任命されるなど、その経歴には権力闘争とはまた異なった人物像を見て取ることも可能です。

まとめ

藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)は、藤原不比等の長男として生まれた、いわゆる「藤原四兄弟」のうちの一人です。

いわゆる「長屋王の変」を主導した人物として知られ、長屋王亡き後は、737年に亡くなるまでの期間実質的な権力を握りました。

なお、若い頃は大学をはじめとする機関で学問・文化に携わることが多く、教養人・文化人としての側面も強く、必ずしも権力闘争に明け暮れていただけという訳ではありません。