【多聞城跡】松永久秀の築いた城郭の跡地は中学校に

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ごあんない

多聞城跡(多聞山城)は、奈良「きたまち」地区の北側、奈良の旧市街地が途切れる位置に広がる丘陵地上にある城跡です。

こちらの城跡は、現在は大半が「奈良市立若草中学校」または「聖武天皇陵・光明皇后陵」等の敷地となっており、観光で訪れても中学校の前にある案内板や石碑をご覧頂く他は、お城に詳しい方を除き「城跡」らしさを実感できる場所は基本的にありません。

多聞城については、近年は知名度が上がって来ている戦国武将「松永久秀(当時の大和・奈良の支配者)」が1560年(永禄3年)に築城したもので、その後1573年(天正元年)には織田信長陣営に引き渡され、筒井順慶が大和守護になった1577年(天正5年)には郡山城以外の廃城が命じられた事から速やかに破却され、建物の一部は旧二条城等に流用されました。すなわち、わずか17年程度の「短命」のお城であったという歴史を持っています(廃城後すぐに危機感を強めた松永久秀が再び謀反を起こし、信貴山城の戦いで自害)。

城郭は奈良の街を見渡す位置にあり、近世城郭のように四層の「天守」があったかどうかは判明していませんが、塁上には長屋形式の櫓が築かれたとされ、これが後のいわゆる「多聞櫓(たもんやぐら)」のルーツであるとも考えられています。

なお、多聞城は不明点も多い謎めいたお城ではありますが、各種の建築・庭園・茶室や美麗な内装(絵画・工芸品等も飾られたようです)等、現在の奈良のイメージとはまた異なる極めて豪華で規模の大きなお城であったとされています。多聞城の存在については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの著作『日本史』に、宣教師ルイス・デ・アルメイダの書簡が引用される形で「美麗なお城」として海外にも伝えられており、詳細な構造は不詳とは言え、建築として見る者を魅了する空間であった事は間違いないようです。

なお、多聞城の石垣としては石仏等が流用されていたとされ、現在近鉄奈良駅近くにある「称名寺」ではその石仏を廃城後に集めたとされる「千体地蔵尊」が残されています。

交通・アクセス

JR奈良駅・近鉄奈良駅から奈良交通バス「青山住宅」・「州見台八丁目」行き乗車、「手貝町」下車、北西に徒歩約8分

近鉄奈良駅から北東に徒歩約20分

※中学校の入口付近に案内板のみがあります。必ずしも観光地として整備されているとは言い難い点をご理解の上ご訪問下さい。

※駐車可能なスペースなどはなく、学校付近という事で車によるアクセスはお控え下さい。

周辺地図・近隣スポット

周辺は「きたまち」エリアの主要な観光ルートからは少し外れていますが、聖武天皇陵・光明皇后陵転害門等の観光スポットからは近い場所にあります。