【近鉄の歴史】終戦から昭和の終わりまでの軌跡を追う【急成長期】 | 奈良まちあるき風景紀行

【近鉄の歴史】終戦から昭和の終わりまでの軌跡を追う【急成長期】

奈良の歴史解説

営業キロベースで「日本一の私鉄」として知られる近畿日本鉄道(近鉄)。

本ページではその歴史について、輸送人員の増加や沿線開発が進み、運行本数や両数・列車の種別も次第に充実していった「終戦以降の昭和期」の歴史を見ていきたいと思います。

なお掲載している内容の一部は『近畿日本鉄道100年のあゆみ : 1910〜2010』(2010年12月・近畿日本鉄道発行)を参考にしています。

昭和20年代

1945年(昭和20年)12月21日:近鉄が一定の株式を有する奈良電気鉄道について、奈良電の堀内駅と京阪神急行電鉄丹波橋駅(現在の京阪丹波橋駅)を統合し、一部は近鉄線内からも含め、奈良電・京阪神急行の直通運転が開始されました。

1946年(昭和21年)4月16日:奈良線生駒トンネル内で列車火災事故が発生し、28名が死亡・75名が負傷しました。なお、戦後しばらくは部品不足や車両整備体制の限界により、立て続けに運行トラブルや事故が発生することになります。

1947年(昭和22年)6月1日:高野山電気鉄道(現在の南海高野線、高野下~極楽橋間のみ運営していた企業)を改称した「南海電気鉄道」へ、3年前に合併した旧南海鉄道の全路線(南海線・高野線・阪堺線・上町線・平野線)を譲渡しました。これにより現在の近畿日本鉄道とほぼ同様の路線ネットワークになりました。また、南海電鉄の誕生で近鉄の難波営業局は無くなり、上本町・天王寺・名古屋の3営業局体制になりました。
1947年(昭和22年)8月19日:奈良線生駒トンネルを通過中の列車がモーターの過熱により発火し、約40名が負傷する事故が発生しました。
1947年(昭和22年)10月8日:現在の「名阪特急」のルーツとなる特急電車が運転を開始しました。当時は伊勢中川での乗り継ぎが必要で、所要時間は約4時間で大阪上本町駅~名古屋駅間を結びました。

1948年(昭和23年)3月31日:奈良線河内花園駅構内で急行電車が前方の普通電車へ追突する事故(近鉄奈良線列車暴走追突事故)が発生し、死者49人・負傷者282人という大惨事となりました。
1948年(昭和23年)7月18日:特急列車の車内で「車内販売」の営業が開始されました。
1948年(昭和23年):この年IATA(国際航空運送協会)代理店認可を取得し、近畿日本鉄道社内の業務局で国際貨物及び国際旅客の取扱いが開始されました(後の近畿日本ツーリストや近鉄エクスプレス)。

1949年(昭和24年)12月1日:当時の佐伯勇専務取締役が主導する形で、後の大阪近鉄バファローズ・オリックスバファローズの前身にあたるプロ野球球団「近鉄パールス」が発足しました。

1950年(昭和25年)8月22日:これまで直営であったタクシー事業を近鉄タクシーとして分社化しました。
1950年(昭和25年):この年奈良市内の郊外住宅地開発の先駆けとなる「学園前住宅地」の分譲が開始されました。

1951年(昭和26年)12月:近鉄中興の祖・近鉄史上最も重要な人物として知られる佐伯勇(さえきいさむ)氏が代表取締役社長に就任しました。

1954年(昭和29年)10月1日:直営であった旅行業及びフォワーダー(混載)事業を近畿日本航空観光(後の近畿日本ツーリスト・KNT-CTホールディングス・近鉄エクスプレス)に譲渡しました。

昭和30年代

1956年(昭和31年):9月28日:名古屋線の四日市市周辺の区間(川原町駅~四日市駅~海山道駅)間が新線に切り換えられました。これに伴い国鉄四日市駅を経由しなくなり、その近くにに存在した半径100mの曲線区間(善光寺カーブ)が解消されました。
1956年(昭和31年)12月8日:大阪線上本町駅~布施間の複々線化により、これまで共有していた奈良線と大阪線の線路が分離され、輸送力の増強が図られました。

1957年(昭和32年)10月18日:南大阪線に日本で初めての高加減速車両である「ラビットカー(6800系)」が登場しました。
1958年(昭和33年)7月11日:伊勢特急に2階建て車両が付いた特急「ビスタカー(ビスタカーI世)」が登場しました。

1958年(昭和33年)10月13日:名古屋線の軌間拡幅(標準軌化)計画を決定し、名阪直通運転に向けた構想が具体化していきました。
1958年(昭和33年):この頃から、一定の株式を既に有していた奈良電気鉄道について、近畿日本鉄道による株の買い増しが顕著になりました。

1959年(昭和34年)3月6日:近畿日本鉄道の提供番組である「真珠の小箱」が当時の毎日放送で放送開始されました。
1959年(昭和34年)9月26日:930hPaで紀伊半島を直撃した伊勢湾台風により、近鉄各路線に被害が生じ、とりわけ名古屋線の愛知県内区間については甚大な被害を受けました。
1959年(昭和34年)11月19日:計画されていた名古屋線の標準軌化について台風被害を契機に前倒しで工事が開始されました(神戸線=現鈴鹿線も含む)。
1959年(昭和34年)11月27日:開始から10日も経たずに名古屋線全線と神戸線の復旧・標準軌化工事が完了しました。
1959年(昭和34年)11月30日:伊勢中川駅構内に大阪線・名古屋線をつなぐ渡り線が設置されました。また、名古屋線と山田線の線路も接続され、名阪・名伊間の直通運転が可能になました。
1959年(昭和34年)12月12日:伊勢中川駅での乗り換えが必須であった名阪特急について、一連の工事が完成したことから直通運転が開始されました。

1960年(昭和35年)3月26日:特急座席予約について、電子計算機(コンピュータ)の使用がが開始されました。
1960年(昭和35年)9月15日:「ビスタカー」にちなみ、日本初の2階建てバス「ビスタコーチ」の営業を開始し、当初は一般路線(大阪上本町~石切神社)等で運用が開始されました。
1960年(昭和35年)12月1日:奈良線学園前駅近くに、東洋古美術を専門とする美術館「大和文華館」が開館しました。
1960年(昭和35年):この年「学園前住宅地」の開発に続き、学園前駅北側に「登美ヶ丘住宅地」の分譲が開始されました。これ以降奈良市街地における郊外の住宅開発が急速に進んでいきます。

1961年(昭和36年)1月22日:伊勢電気鉄道から継承した「伊勢線」のうち、戦後も存続していた江戸橋駅~新松阪駅間が廃止されました。
1961年(昭和36年)3月29日:伊勢中川駅を経由せずに大阪線と名古屋線を結ぶ「中川短絡線」が開通しました。これに伴い短絡線を経由する形で名阪ノンストップ特急(甲特急)が上本町駅~名古屋駅間で運行開始されました。
1961年(昭和36年)9月21日:奈良線の上本町駅~瓢箪山駅間で大型車両の運用が開始されました。
1961年(昭和36年)12月11日:近畿日本鉄道・京阪電気鉄道・奈良電気鉄道が協定を結び、京阪が奈良電の保有株を近鉄に売却する事で、奈良電が近鉄グループに入ることが決定しました。
1961年(昭和36年):海外子会社としてアメリカ近鉄興業株式会社が設立され、その後不動産事業・ホテル事業が開始されました。

1962年(昭和37年)4月4日:2階建ての団体列車専用車両「あおぞら」が登場しました。

1963年(昭和38年)4月8日:神戸線が平田町駅まで延伸され、鈴鹿線に改称されました。
1963年(昭和38年)10月1日:グループ企業であった奈良電気鉄道を合併し、近鉄京都線としました。
1963年(昭和38年):この年、大阪線沿線の大規模開発の先駆けとなる「桔梗が丘住宅地」の造成が開始されました。

1964年(昭和39年)4月28日:生駒山地を南北に貫く有料道路「信貴生駒スカイライン」が全通しました。
1964年(昭和39年)7月23日:奈良線の新生駒トンネルが開通しました。
1964年(昭和39年)10月1日:奈良線の東生駒駅~富雄駅間の「新向谷トンネル」の開通により、奈良線全線で大型車両の運用が開始されました。また、同時に「信貴生駒電鉄」を合併し、近鉄生駒線・東信貴鋼索線・田原本線としました。一方で、伊賀線のうち大阪線と並行していた伊賀神戸駅~西名張駅間が廃止されました。

昭和40年代

1965年(昭和40年)3月18日:南大阪線・吉野線の大阪阿部野橋駅~吉野駅で特急電車の運行が開始されました。
1965年(昭和40年)4月1日:三重交通グループの「三重電気鉄道」を合併し、近鉄志摩線・北勢線・湯の山線・内部線・八王子線としました。
1965年(昭和40年)7月1日:バス事業において「茨木バス」の事業を譲り受け、国鉄茨木駅・阪急茨木市駅発着の路線等、北摂エリアにも路線網を広げました。

1967年(昭和42年)3月26日:葛城索道線(葛城山ロープウェイ)が営業開始。
1967年(昭和42年)12月4日:奈良線で近鉄初のATSが使用開始。

1968年(昭和43年)4月1日:不動産事業を「近鉄不動産」に分社化しました。
1968年(昭和43年)12月20日:1945年以降実施されていた京阪電気鉄道(旧京阪神急行)との相互直通運転(丹波橋駅~三条駅)が廃止されました。これに伴いかつての奈良電堀内駅が復活する形で「近畿日本丹波橋駅」が開業しました。

1969年4月:近鉄エクスプレスが香港に子会社Kintetsu World Express (HK) Ltd.を設立し、海外進出を開始しました。
1969年(昭和44年)9月21日:京都線・奈良線・橿原線・天理線・生駒線・田原本線の架線電圧が従来の600Vから1,500Vへの昇圧が実施されました。
1969年(昭和44年)11月23日:上本町ターミナルビル「新館」の第一期部分(現在のビルの南半分)が完成しました。
1969年(昭和44年)12月5日:これまで阿部野橋地区にあった近鉄本社を、村野藤吾設計の新本社ビル(地上8階建て)の完成に伴い上本町駅近くに移転しました。
1969年(昭和44年)12月9日:奈良線の「近畿日本奈良駅(当時の駅名)」が地下化され、日本で最も大きな車両が通っていた「併用軌道(路面電車と同様)」区間が解消されました。これに伴い地上区間にあった油阪駅が廃止され、代わりに新大宮駅が開業しました。
1969年(昭和44年)12月15日:鳥羽線の一部として宇治山田駅~五十鈴川駅間が開業しました。

1970年(昭和45年)3月1日:鳥羽線が全線開業するとともに、直通する志摩線の改軌(伊勢電気鉄道から継承した路線・これまでは狭軌)工事も完成し、大阪・名古屋方面から賢島への直通運転が可能になりました。また、2週間後の難波線開業に先立ち上本町駅地下ホームの使用が開始されました。合わせて「近畿日本~駅」と称していた全駅が「近鉄~駅」に改称されました(一例:近畿日本奈良駅から近鉄奈良駅へ変更)。
1970年(昭和45年)3月9日:特急座席予約システムが更新され「即時発券」が可能となりました。合わせて世界初となる特急券自動発売機が実用化されました。
1970年(昭和45年)3月11日:併用軌道時代の旧奈良駅跡地に「奈良近鉄ビル」が完成しました。
1970年(昭和45年)3月15日:上本町駅~難波駅間を結ぶ難波線(地下線)が開業し、これに伴い奈良線の電車は難波までの運転が基本となりました。
1970年(昭和45年)3月21日:難波線の開業に合わせ、近鉄難波駅~名古屋駅・賢島駅間を直通する特急の運行が開始されました。

1971年(昭和46年)10月25日:大阪線榊原温泉口駅~東青山駅間で発生した列車衝突事故(近鉄大阪線列車衝突事故)により、多数の死傷者が発生しました。

1972年(昭和47年)3月14日:近鉄百貨店奈良店(ならファミリー)が開業しました。
1972年(昭和47年)6月1日:直営であった百貨店事業を「近鉄百貨店」に分社化しました。
1972年(昭和47年)8月2日:近鉄奈良線の菖蒲池駅~学園前駅間で列車爆破事件が発生し、21人が重軽傷を負いました。
1972年(昭和47年)11月7日:近鉄奈良線で従来運行されてきた「無料特急」が廃止され、代わりに「快速急行」が運行を開始しました。

1974年(昭和49年)5月11日 :当時の国鉄吉祥寺駅前に、「東京近鉄百貨店」が開業しました。

昭和50年代~

1975年(昭和50年)7月:傘下の近畿日本ツーリストが東京証券取引所・大阪証券取引所の2部に上場を果たしました。
1975年(昭和50年)11月23日:新青山トンネルが開通し大阪線が全線複線化され、輸送力の向上が図られました。

1976年(昭和51年)3月18日:東海道新幹線との競合により利用が減少した「名阪特急」の全列車が2両編成になりました。この後は再び需要が回復し、10年後には8両運行等が行われる程に回復します。

1978年(昭和53年)12月30日:30000系電車(ビスタカー3世=現在も運用される「ビスタEX」)が営業運転を開始しました。
1978年(昭和53年):傘下の近鉄不動産により、初の「ローレル」ブランドのマンション分譲(東生駒)が開始されました。以降近鉄不動産は各地で「ローレル」ブランドのマンションを多数建設していくことになります。

1980年(昭和55年)3月17日:近鉄奈良線の一部快速急行・特急で関西の私鉄では初となる10両編成での運行が開始されました。

1982年(昭和57年)10月5日:大阪線五位堂駅近くに「五位堂検修車庫」が完成し、各工場へ分散されていた車両整備の機能が一元化されました。

1983年(昭和58年)9月1日:奈良県側から信貴山へアクセスしていた「東信貴鋼索線」が廃止されました。

1984年(昭和59年)9月3日:VVVFインバータ制御車の1250系(現在の1420系)電車が落成し、以後は省エネ化の時代へと入っていきました。

1985年(昭和60年)10月3日:都ホテル大阪・近鉄劇場が開業し、上本町ターミナルの再開発事業が完成しました。

1986年(昭和61年)3月1日:京都市営地下鉄線との直通運転に対応する車両として、VVVFインバータ制御車の3200系が営業運転を開始しました。なお、この際に赤一色の車両塗装から、白色との塗り分けが行われる新塗装へと変更されました。
1986年(昭和61年)3月18日:大阪線上本町駅~名張駅間で一部の快速急行・区間快速急行が10両編成での運行を開始しました。
1986年(昭和61年)4月25日:近鉄百貨店橿原店が開業しました。
1986年(昭和61年)10月1日:大阪市営地下鉄(現大阪メトロ)中央線と相互直通運転を行う東大阪線が開業(長田駅~生駒駅間)しました。合わせてプリペイドカード「パールカード」・「パールカード11」の発売が開始されました。

1987年(昭和62年)2月1日:特急座席予約システムを新システムである「ASKAシステム」に更新しました。これに伴い特急券の前売開始が最大3週間前から最大1か月前に変更されました。
1987年(昭和62年)9月21日::けいはんな線生駒トンネル内で漏電を原因とするケーブル火災が発生し、死傷者も生じました。
1987年(昭和62年):傘下の近鉄不動産により広島郊外の「四季が丘」住宅地の分譲が開始されました。

1988年(昭和63年)3月18日:名阪特急用の車両として21000系「アーバンライナー」(現在のアーバンライナーplus)」が投入され、最高速度120kmでの運転を開始しました。また、近鉄奈良駅のホーム延長工事等が完成し、奈良線での10両運行が朝夕ラッシュ時の快速急行を中心に大幅に増加しました。
1988年(昭和63年)8月28日:京都市営地下鉄烏丸線との相互直通運転が、新田辺駅以北の区間で開始されました。
1988年(昭和63年)11月11日:阿部野橋ターミナルビルの増築が完成し、併せて高速バスのりば(あべの橋バスステーション)も開設されました。

まとめ

近畿日本鉄道は、昭和20年の終戦以降、昭和の終わり頃までは基本的に一貫して鉄道事業・関連事業共に「急成長」の時代を辿ります。

当初は車両整備等の限界から事故が多発する時期もありましたが、次第に輸送力・輸送サービスの向上が図られ、伊勢湾台風の被害を受けて早まった名古屋線の標準軌化、奈良線系統の大型車両化や奈良駅の地下化、難波線や志摩線の開業といった各種施策により、1970年代の初頭には現在に近い輸送の基盤が完成しました。

近鉄は新しい技術や先進的な輸送サービスの導入・提供も活発に行い、コンピュータによる列車予約システム・ビスタカーやアーバンライナーの導入・全国的にも最も早いVVVF制御車の導入等、鉄道業界を率いる存在としてその地位を高めていきました。

関連事業については、近鉄不動産による沿線の郊外住宅地やマンション開発、近鉄百貨店の出店や拡張が鉄道事業との相乗効果を生んだ他、近畿日本ツーリスト・近鉄エクスプレスといった巨大グループ会社も昭和の中頃以降に急成長し、連結決算1兆円を上回る近鉄グループの確固たる基盤が形成されていきました。

また、現在は存在しませんが「大阪近鉄バファローズ」がプロ野球球団として近鉄グループの知名度向上に寄与しました。