奈良「平城京・平城宮跡」の歴史を簡単に解説(建設・保存の歴史)

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平城遷都と建設

平城京の歴史は、その大部分は学校の授業で習うように「奈良時代」の幕開けとともにはじまり、「奈良時代」の終結とともに終わりを見せる存在となっています。

奈良時代が始まるまでの飛鳥時代は「藤原京」が当時の首都となっていましたが、藤原京には排水の問題などもあったとされ、「四神相応の地」として地相の良い平城京が遷都の適地とされることになり、和銅元年(708年)2月には元明天皇により「平城遷都の詔」が発せられます。

その後造平城京司と呼ばれる整備を担当する役所を設置し、和銅3年の11月からは既に平城京の建設が開始されていたと考えられており、2年も経たない和銅3年(710年)3月には実際に平城京に遷都が行われることになり、その後宮殿(大極殿など)のある大内裏「平城宮」の部分が先行する形で、一般の住民も含めて居住する大部分の区画も含めて整備が図られていくことになりました。

平城京の整備にあたっては、中国(当時は唐)の巨大な都である長安をモデルに建設が進められ、現代の図り方では東西約4.3km・南北約4.8kmの長方形の京域東側の東西約1.6km・南北約2.1kmの外京(現在の奈良町エリアはこの外京にあたります)を加えた総面積は約2500ヘクタールにのぼる壮大な都が建設されることになりました。

実際の建設作業にあたっては、宮殿や寺院については藤原京からの移築もあったために比較的スムーズに建設が進むことになりますが、「都市」そのものは遷都後すぐに完成した訳ではなく、奈良時代の間を通してじわじわと建設が進められていくような構図であったとも考えられています。

また、平城京のうち「平城宮」の部分についてには天皇が「朝議」として重要な政務を執り行う「大極殿」、また天皇の居住空間である内裏など、朝廷の根幹を支える拠点施設が設けられることになりますが、「大極殿」については奈良時代の前半には現在の復元された第一次大極殿の位置に大極殿が、また奈良時代の後半には現在基壇部分のみが復元されている「第二次大極殿」の部分に大極殿があったとされており、必ずしも主要な建物が一貫して同じ場所に設けられていた訳ではなかったようです。

なお、建設にあたっては、現在の滋賀県大津市「田上山」に生えていたヒノキの木を大量に使用したという歴史が残されており、一帯は現在でもその影響から「はげ山」となっている場所が見られます。

一時的な「都落ち」・大規模寺院の創建と拡大

奈良時代は基本的に平城京の時代として語られることが基本ですが、途中に一時的な遷都を挟んでいます。

天平12年(740年)には現在の奈良市の隣にあたる木津川市にあった「恭仁京」に、天平15年(743年)には現在の滋賀県甲賀市にあった「紫香楽宮」に、翌年天平16年(744年)には現在の大阪市にあった「難波宮」に次々と遷都するなど混乱し、その間平城京・平城宮も不安定な立場に置かれることになりました。

但し、天平17年(745年)には結局平城京へ戻ることになり、この再遷都以降先述の「大極殿」の場所の入れ替えが発生したと考えられています。

なお、平城京内には藤原京から移転してきた寺院(興福寺・元興寺・薬師寺・大安寺)があり、これらは奈良時代の初頭から時代を追うごとにお寺の規模を拡大していきました。

また、奈良時代後半になると藤原京からの移転寺院以外にも「東大寺(752年・天平勝宝4年創建・元となる寺院「金鐘寺」あり)」・「西大寺(765年・天平神護元年創建)」・「唐招提寺(759年・天平宝字3年創建)」等現在も残されているような大規模な寺院が創建され、その規模を拡大していくようになります。

奈良時代後半から平安時代の初頭にかけては、平城京一帯に点在する寺院は「最盛期」を迎え、当時の奈良には多数の七重塔が立っていたり、大規模な金堂建築が多数見られたりと、現在のスケールからは想像もできないような風景が広がっていたと考えられています。

平城京は、10万人程度の人が住まう当時における世界規模の大都市であった一方で、上記のように多数の寺院・仏堂建築を有する都市空間として機能していたため、その後の奈良の歴史にも大きな影響を与えることになったのです。

関連記事:【年表形式】奈良市の歴史をざっくりまとめてみた~奈良時代~【平城京】

※平城京の建設以外の奈良時代の出来事については、上記関連記事で時系列で解説しています。

平安遷都後の歴史

奈良時代の間は日本の首都として大いに栄えることになった平城京ですが、784年(延暦3年)に長岡京に遷都され、その後すぐに平安京に遷都された後は「都」ではなくなります。

平安遷都後もなお平城京という空間自体はしばらくの間は残り続け、平城宮にも新しく「平城西宮」を設置して「平城上皇」の住居として用いられるなどしましたが、時間の経過とともに京域は衰退しすることになります。

平城京最後の歴史としては、810年(弘仁元年)9月6日に平城上皇によって平安京から平城京への再遷都が企図され(薬子の変)ますが、すぐに鎮圧され、以降平城京への再遷都の可能性は完全に失われることになりました。

東大寺や興福寺に近い東端部の「外京」のエリア(後の「奈良町)にあたる場所は、一定の都市空間として残ったとも考えられていますが、平城宮周辺をはじめ大半の京域が農地や荒れ地に変わることになりました。

遺跡としての歴史

大部分が農地や荒れ地に戻った平城京は、その後奈良町エリアとして発展することになる外京の一部を除き、1000年以上に渡り完全に「忘れられた存在」として歴史から切り離されたような状況が続くことになります。

しかしながら、かつての歴史遺産が地中に残された「遺跡」であるという認識が芽生えるのは近代になってからではなく、既に江戸時代の終わりごろには「平城宮」の存在が認知されるようになります。

国学の系譜に位置づけられる在野の研究者であり、天皇陵の調査などを精力的に行った現在の奈良市古市地区出身の「北浦定政」氏嘉永5年(1852年)に「平城宮大内裏跡坪割之図」を完成させ、ここに平城宮の空間構造が約1000年ぶりに明らかにされることになりました。

その後近代に入ってからは、東京大学教授を務めた建築史家である関野貞氏によって詳細な研究が進められることになり、明治40年(1907年)にはかつての建築の配置などについて考察した「平城宮及大内裏考」を発表し、この記事に触発される形で平城宮跡保存運動に名を残した人物である「棚田嘉十郎」氏らが保存への活動を開始することになります。

棚田嘉十郎氏は奈良在住の一般市民(植木職人)であった人物ですが、尊王思想の篤い存在として知られ、平城宮の跡地が堆肥置き場となっている様子などに心を痛め「平城宮阯保存会」などを結成、同じく平城宮保存に情熱を注いだ溝辺文四郎氏らとともに保存運動を進め、現在のJR奈良駅前に大極殿方面を示す石標を設置したり、幅広くロビー活動なども行ったことで知られています。

保存運動は棚田氏の存命中に実を結ぶことはありませんでしたが、棚田氏の死後すぐの大正10年(1921年)には平城宮跡の中心部が民間資金で買い取られた後に国に寄付され、翌年の大正11年(1922年)には「平城宮址」としてついに国の史跡に指定を受けることになります。

その後はやや保存運動は下火になりますが、戦後になると保存運動のみならず「発掘調査」が本格化することになり、昭和27年(1952年)には国の特別史跡にも指定されたほか、昭和37年(1962年)には多数の木簡群が発見され、奈良時代の政治・経済・社会の実態を解き明かす上で重要な役割を果たすことになりました。

その後も昭和63年(1988年)には有名な「長屋王」の邸宅跡も発見されるなど発掘調査が進む一方、平成になると建物自体の復原も進むことになり、平成9年(1998年)には朱雀門が復原平成22年(2010年)には第一次大極殿が復原され、現在は複数の展示施設なども完備された「観光拠点」としての整備が進んでいます。