奈良の鹿の歴史(近現代):絶滅の危機から観光の象徴へ

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このページでは、奈良時代から江戸時代まで解説して来た「奈良の鹿の歴史」の最後の項目として、明治維新後の近代から現代に至るまでの期間の歴史を解説していきます。

神鹿としての歴史を歩んできた奈良の鹿ですが、明治維新後はかなり「苦境」に追い込まれることいなっていきます。

鹿は一時は「絶滅の危機」にまで追い込まれるような事態になってしまうなど、住民と鹿を取り巻く環境は大きな変化を見せることになりました。

明治維新後は「神鹿」から一転絶滅の危機へ

中世の「鹿を死なせると死罪」の時代からは大きく変わり、鹿の角切りなども開始され、鹿にえさをやる旅人(観光客)も登場するなど、住民との共存関係が次第に広がっていった江戸時代

一方で、江戸時代を通して興福寺や春日大社という「鹿の保護者」とも言える存在が一定の地位を持ち続けたことには変わりありませんので、ずいぶんとソフトな取り扱いになったとは言え、奈良の鹿は相変わらず「神鹿(神の使い)」として崇敬の対象であり続けたという側面もありました。

しかし、江戸時代が終わり、明治時代が始まると、いわゆる「神仏分離・廃仏毀釈」のうねりにより、従来から「奈良の鹿」を最も大切に取り扱ってきた「興福寺」が一時的に「廃寺」同然の状況に追い込まれ、春日大社についても神職の世襲制が廃止されるなど、大きな変化を余儀なくされます。大きな混乱の中では、鹿は余り誰からも相手にされず、単に野放しにされる結果を招きました。

また、近代化・文明開化政策の一環として、奈良県令として明治5年(1872年)に着任した四条隆平県令は、神鹿としての信仰を迷信であると思ったのか、鹿を狩ってすきやきにしたり、鹿に馬車を曳かせたりしたとされており、「邪魔者」としての鹿を管理するために、明治6年(1873年)4月には「鹿園」を設置し、狭い空間に700頭以上の鹿を収容したともされています。

「奈良の鹿」は、明治がはじまると、上記のような大きな変化に直面したのですが、当然ながら、多くのシカたちはこの急速な変化と乱暴な取り扱いに対応・順応することはできませんでした。病気や乱獲などで鹿は急速に減少し、最も少ない時期には鹿の数は38頭まで減ったとされています。

鹿はまさしく「絶滅の危機」に瀕することになってしまったのです。

「保護」と「鹿害対策」のせめぎあい

ほぼ絶滅寸前まで追い込まれた奈良の鹿。頭数は38頭まで減ってしまい、それまでの時代とは比べものにならないほどの厳しい状況になってしまいましたが、四条県令退任後は、少なくとも鹿を絶滅に追い込むような乱暴な動きは落ち着いていくことになります。

これ以降は、次第に「保護」を行う枠組みが造り上げられていく中で、一方では鹿が引き起こす農業被害や人的な被害(ケガなど)がクローズアップされ、その対策をどうするかという点も検討されるという、「保護」と「鹿害対策」のせめぎ合い、折り合いの付け方を考える時代へと変わっていきます。

例えば、狭い空間に閉じ込めた「鹿園」については春日大社の所有になった後、病気などの蔓延を防ぐために明治9年(1876年)には収容していた鹿を再び現在の奈良公園一帯に放ち、再び野生化させるという取り組みが行われることになりました。

鹿を野外に放つということについては、その後も夜間に収容したりするなどの紆余曲折はありましたが、最終的には人間と共生できない鹿を収容するという仕組みとなり、現在の「鹿苑」の運営に近い形になっていきました。

また、一時的になくなっていた「鹿の角きり」行事も、角による「実害」を防ぐために再開され、鹿の保護については様々なやり取りを経つつ、現在の奈良の鹿愛護会の前身団体が誕生するなど、戦前期には現在の仕組みにつながっていく「シカの保護」システムがある程度は出来上がっていくことになりました。

結果として、40頭を割ったとされる鹿は再び増加し、第二次大戦の前には900頭程度まで回復することになったのです。

太平洋戦争期の混乱で再度の絶滅の危機へ

明治初頭の絶滅の危機から頭数を回復させることになった奈良の鹿ですが、戦争の時代へと突入する中では、再びの絶滅の危機を迎えることになります。

太平洋戦争の時代になると、社会は慌ただしくなり「保護」どころではない状況へと変化していきましたし、戦争の末期や終戦直後には「食料不足」が深刻な状況になったことで、その詳細は明らかではありませんが、相当数の「密猟・乱獲」があった(鹿が食糧になった)のではないかとも考えられています。

そのような状況では鹿の頭数も当然ながら減少することになり、1000頭近くいたはずの鹿は、終戦直後には79頭まで減少することになりました。再び鹿は受難の時代を迎えることになってしまったのです。

観光の象徴としての復活

さて、戦争が終結してからは、日本経済・社会の復活・安定化に伴い鹿の頭数も「急増」していくことになります。1000頭程度にまで回復するのにはさすがに20年ほどの期間を要することにはなりましたが、いわゆる高度経済成長期を迎える時代には、現在とそれほど変わらない鹿の生態が復活することになりました。

戦後社会の発展とともに、鹿を保護する機運も高まり、1957年(昭和32年)には「奈良の鹿」が「天然記念物」に指定されることになったほか、現在に至るまでの奈良の鹿愛護会の活動も展開されていくことになりました。「奈良の鹿」の知名度は一層高まり、経済の発展による観光客の増加により名実ともに「奈良観光」にとっては欠かせない存在になっていきました。

もっとも、農業被害を巡る問題は戦前から議論されていたものの、決して戦後も解決することなく、鹿害訴訟をはじめその後も様々な紆余曲折があり、近年は保護エリア外に出た「奈良の鹿」を捕獲する事業が開始されるなど、「人間との関わり」を巡る問題は半ば永遠のテーマとも言える状況になっています。また、自動車利用の増加とともに交通事故は急増し、現在に至るまで奈良の鹿の生存を脅かす重大な問題であり続けています。

しかし、全体として見れば現在に至るまで、鹿の生息環境・保護環境は着実に向上しています。頭数には波があるものの、平成30年の奈良の鹿の頭数は過去最高の1360頭、5年前と比較しても200頭近い増加となっています。

現在は「インバウンド」の時代になり、「奈良観光」の雰囲気も大きく変わりつつありますが、かつてのような「受難の時代」とは違う安定した環境で鹿も過ごせるようになっています。それにはこれまでの分厚い歴史・個々の鹿の状況に応じた各種の保護活動があることを忘れてはいけないでしょう。

まとめ

以上、近代以降現在に至るまでの「奈良の鹿の歴史」をまとめてきました。ざっくりまとめ直すと、

・明治初頭にはこれまでの「神鹿」の歴史への反動もあり、鹿を乱暴に取り扱ったりした結果、奈良の鹿は絶滅寸前に追い込まれました。

・それ以降は戦争の時代になるまでは様々な紆余曲折を経ながら少しずつ鹿を保護する方向性、枠組みが作られていきました。

・太平洋戦争期や戦後すぐの時期には食糧不足もあり、鹿が密猟されることが多く、再び奈良の鹿は絶滅の危機に瀕することになりました。

・戦後は鹿は大幅に増加し、観光の象徴として広く親しまれ、保護される存在として現在に至っています。なお、農業被害を巡る問題などは現在も模索が続けられています。

このような内容を解説してきました。