奈良の鹿の歴史(江戸時代):鹿の角きりの開始・共存の時代へ

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この記事では、奈良時代・平安時代・中世という時代ごとにそれぞれ記事にしている「奈良の鹿の歴史」について、現在の「鹿」の扱われ方に近づいていった時代である「江戸時代」の歴史を解説していきます。

厳罰の時代の終わり

奈良の鹿と「住民(奈良町)」の関わりは、「中世」の歴史を説明した記事でも解説して来たように、「シカを死なせると死罪」になるという厳しい時代がありました。興福寺が警察権を持っていた奈良では、仮に過失であったとしても鹿を死なせてしまうことは重罪として取り扱われており、歴史史料には「三大犯罪」のうちの一つに神鹿に関わる犯罪が規定されているなど、奈良に住む人にとっては「戦々恐々」と言ってもよい状況があったのです。

厳罰の時代であった中世・戦国時代を越え、時代が江戸時代に入ってからは、奈良奉行が設置され形式的には興福寺が直接奈良を統治するような形ではなくなりましたが、中坊氏と呼ばれる興福寺関係者が奈良奉行を務めることになったため、しばらくの間は神鹿に対する犯罪は厳しく取り締まられていたようであり、死罪や殺傷を伴う事件も起きていたなど中世から続く興福寺の関与・奈良支配はゼロにはならず、むしろ姿を変えて残されていたと考えられています。

その後、明らかに時代の潮目が変化することになったきっかけは、奈良の人間ではない旗本「溝口信勝」奉行の着任でした。溝口奉行は興福寺が未だに幅を利かせていた「神鹿」を巡る取り扱いについて、奈良奉行の管轄になるように変えていった人物として名高い存在であり、鹿殺しの犯人を死罪にすることを拒否したり、神鹿を守るために行われていた「犬狩り」を在任中に事実上廃止するなど大きな変化を引き起こしました。

また、神鹿と人の関係性を大きく変える象徴的な出来事としては、「鹿の角切り」の開始ということがありました。

伝統行事「鹿の角切り」の開始

現在「奈良の鹿」に関する最も有名な行事として知られる「鹿の角切り」。この行事を行う伝統は、江戸時代の「溝口奉行」在任中に角によって住民や鹿同士がケガをしないようにするために開始されたものとなっています。

実施にあたっては、ついこの間まで神鹿を死なせると死罪にされる時代であった中で、人間が神鹿を捕まえてその角を切り落とすという作業をすることになる訳ですから、鹿の角切りを行うことに興福寺などは当然否定的な見解を示します。しかしながら、実際に「角による被害」も出ていることもあり結局は奈良奉行の意向が通る形になり、神鹿を絶対的な存在・触れてはいけない存在として扱う時代から、危険防止などの観点から合理的に「保護」していく時代へと大きく変貌していくことになったのです。

観光マスコットとしての「鹿」は江戸時代から?

鹿を住民の安全という観点からも「保護」する時代が始まり、興福寺の独断による警察権が使われて「死罪」が適用される時代が終わりを迎えた江戸時代。時代が進むにつれ、かつてと比較すると人々の往来が活発化・自由になったこともあり、奈良の寺社をお参りする「観光客」も登場することにもなりました。

そんな中で早々と登場することになったのが「鹿せんべい」。現在販売されているものと全く同じものかどうかは分かりませんが、鹿の角切りが開始された頃に既にその原型となるものがあったとされているほか、現在の奈良公園エリアに設けられていた「茶屋」では鹿せんべいらしきものが販売され、観光を楽しむ江戸時代の人々が鹿にエサやりをしていたことを示す絵図(大和名所図会)なども残されています。

また、こちらは「観光」ではありませんが、鹿殺しが死罪となっていた時代を扱った落語や浄瑠璃も作られるなど、「奈良の鹿」というイメージは奈良町エリアに限らずそれ以外の地域でもある程度共有されるようになっていたと考えられます。

現在ほどの観光客数、「鹿」の知名度はなかったとしても、次第に「鹿」をマスコット・愛らしい存在・奈良のシンボルのように扱う上での基本が形作られていった時代。それが江戸時代であったと言えるでしょう。

まとめ

以上、江戸時代における奈良の「鹿」の歴史をざっくりと解説してきました。改めて簡単にまとめ直すと、

・江戸時代初頭までは興福寺が「神鹿」を厳格に保護する構図は残されていました。

・旗本「溝口信勝」奉行の着任後、興福寺による介入の拒否に伴う「死罪」の廃止や残酷な犬狩りの廃止、後に伝統行事となる「鹿の角切り」の開始などが行われ、鹿と住民の関係性は大きく変化します。

・鹿せんべいらしきものが既に生産、販売されるなど、「観光地・奈良の鹿」という現在にかけてのイメージが少しづつ生み出されていくことになりました。

次の記事では、いよいよ「近代」になってからの鹿の歴史をご紹介していきます。