奈良の鹿の歴史(中世):鹿を死なせると「死罪」?厳格な時代へ

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このページでは、「奈良の鹿の歴史」について、奈良時代・平安時代とは雰囲気が変わり、鹿と人間の関わりが最も厳しい状況にあった「中世」の歴史について見ていきます。

現在でこそ「奈良のマスコット」のような存在となった奈良の鹿ですが、中世には鹿の取り扱いについて、人間よりも鹿を絶対的に優先する原理が存在しました。

また、そのような文化を生み出した背景には、奈良における「興福寺」の支配的地位というものも大いに関係していたことが歴史からは伺えるようになっています。

鹿を死なせると死罪になる。とは?

春日大社の創建神話に登場する「白鹿」にルーツを持つとされる「奈良の鹿」。平安時代には既に「神の使い」として丁寧な扱いを受けていた奈良の鹿ですが、中世になると単なる「丁寧な扱い」を越えた存在へとなっていきます。

単なる「丁寧な扱い」を越えた存在とはどういうことか。それは要するに、「生き死に」に関わる問題でも「人間を上回る存在」に位置づけられるようになったということ。すなわち、「神様の使いである神聖な鹿」を奈良の住民が間違って死なせてしまうようなことがあれば、「死罪」になるような時代が訪れたということを意味します。

鹿を死なせる。といっても、「密猟」のような非常に悪意のある死なせ方もあれば、何かを間違えてあててしまったとか、ちょっとした子供の悪ふざけといったようなケースも考えられますし、運の悪いケースであれば朝起きてみると家の前で鹿が行き倒れになって死んでいた。そのようなパターンもあるかもしれません。

どういったケースで死罪になったかについては一概に断定はできませんが、中世から江戸時代の初頭にかけては、基本的に「人間にとって非常に不利」な形で「鹿殺し」という罪が扱われていたということは確かなようです。処罰内容を巡る「史料」は興福寺関係のものがある程度残されているという事実もありますので、少なくとも、江戸時代に落語などで「鹿殺し=死罪」というエピソードが取り上げられた時の「創作」ではなく、そのような歴史が程度を問わず存在したこと。これはほぼ間違いありません。

興福寺の「検断権」

さて、牧歌的な存在であった奈良の鹿が、いつの間にか奈良町住民にとって「死罪」という悲劇をもたらしかねない存在になった理由はどのようなものなのでしょうか。

以前の記事(平安時代の歴史)でも解説したように、平安時代の終わりになっていくと「本地垂迹説(神様は仏さまが姿を変えたものとする考え方)」が浸透し、いわゆる「神仏習合」の文化に変化する中で、春日大社を「興福寺」が保護すると言う関係に変化したということを説明してきましたが、鹿殺しの厳罰化も、この歴史と全く無関係とは言えません。

興福寺にとっては奈良を代表する神社であり、深い信仰を集めて来た春日大社を保護することは非常に重要なことになったため、当然ながらその創建神話を代表する存在でもある「鹿」を保護することも重視されるようになります。また、日本史の授業で「南都北嶺」という言葉が登場するように、興福寺は平安時代の期間を通していつの間にか奈良のまち、大和国を事実上支配するほどの「強大な権力」と僧兵らによる「軍事力」も持つことになり、中世にかけても奈良の地で圧倒的な権威を持つことになりました。

その結果生まれたのは興福寺による「検断権」。戦国時代になって武将の手に支配権がうつるまで、鎌倉・室町幕府によって「守護」が置かれなかった奈良では、犯罪を犯したとされる人物の取り締まりや裁判・判決・刑の執行などを興福寺が全て執り行っていました。即ち、泥棒を犯しても、鹿を死なせても、捕まった人は興福寺に処罰されることになる訳なのです。

そして、その中では「三ケ大犯」とよばれる犯罪があり、「児童・講衆」に対する犯罪に加えて「神鹿」に対する犯罪も重罪として取り扱われていたことが歴史として記録されており、やはり「鹿殺し=死罪」であったということはほぼ事実であったことが伺えるようになっているのです。厳格な「鹿の保護」は、興福寺による奈良支配と表裏一体のものだったのです。

悲劇の伝承「三作石子詰」

厳しい保護の時代に、奈良の鹿と住民を巡る「悲劇」を象徴する存在として語り継がれている伝説としては、「三作石子詰」と呼ばれる言い伝えが有名です。

三作石子詰(石子詰めの三作)とは、簡単に言えば、興福寺の稚児であった三作という名前の子どもが、「習字のお稽古」をしている際、鹿がやってきて半紙をくわえたため追い出そうと「文鎮」を投げつけると鹿に当たって鹿が死んでしまったため、鹿殺しの罪により鹿の死骸とともに穴の中に入れられ、上から大量の石で埋められた(死罪)という悲劇の伝説です。

この伝説を巡っては、実際にあった話かどうかは不詳なものの、興福寺五重塔の近くにある「菩提院大御堂」の敷地内に三作を祀る塚があるほか、江戸時代には近松門左衛門の浄瑠璃「十三鐘」の題材となったことでも知られています。

鹿の厳格な保護政策と「死罪」をめぐっては、江戸時代にはこの他にも「鹿政談」という古典落語の題材になっているほか、奈良に伝わる昔話として、朝に家の前で鹿が死んでいたら隣の家の前に死骸を移動するという「奈良の早起き」という伝承があるなど、様々な形で話のモチーフにされたりもしています。

伝承や伝説の内容、また落語や浄瑠璃の内容自体は、必ずしも事実に即しているかどうかは分かりませんが、中世から江戸初期にかけての「厳しい時代」があったことを伺わせる題材であることには間違いありません。

まとめ

以上、「奈良の鹿」を巡って厳しい保護策が繰り広げられた「中世」の歴史や伝説をざっくりと見てきました。まとめ直すと、

・具体的な内容は不詳な点もあるものの、中世から江戸時代初期にかけては、「鹿を死なせると死罪」になる時代がありました。

・興福寺が奈良を支配していたため、「鹿殺し」等に対する処罰も興福寺により行われました。

・有名な「悲劇」としては「三作石子詰」の伝説がある他、「鹿殺しに対する厳罰」は江戸時代の落語や浄瑠璃のモチーフにもなっています。

このような内容を解説してきました。次の記事では、厳罰主義から現在に連なる「共存」へと変わっていく江戸時代の歴史を見ていきたいと思います。