奈良の鹿の歴史(平安時代):春日大社の繁栄とともに「神の使い」になった鹿

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このページでは、「奈良の鹿」が歴史に登場するようになった奈良時代に続き、「神の使い」としての扱いを本格的に受けるようになった平安時代の「鹿」の歴史を簡単に解説していきます。

中世には鹿の存在が絶対化されるような時代を迎えることになりますが、その前段階として、鹿という存在が「神の使い」として明示されるようになるのが平安時代の歴史でした。

また、その中では「春日大社」に留まらず神仏習合の浸透に応じて「興福寺」の存在というものが次第に大きくなっていくという歴史的背景もありました。

「神鹿」としての歴史のはじまり

奈良の鹿。その歴史的なルーツは奈良時代、710年(和銅3年)に武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様が御蓋山(春日山)の山頂に降り立った際に「白鹿」に乗ってやってきたという神話を起源とするとされています。

一方、奈良時代の万葉集でごく自然に詠われているように、奈良時代の「鹿」はまだ「神鹿」としての扱いを受けていたとは言えません。「神鹿」として本格的に扱われるようになるのは、神話の発信地とも言える「春日大社」が発展・繁栄するようになってからでした。

平安時代になると、京都に都が遷ってしまったので一見奈良のお寺は大ダメージを受ける所も多かったのですが、春日大社という神社は、そもそも「藤原氏」の「氏神」様として成立したという歴史も持っていましたので、藤原氏が京の都で絶大な権勢を誇るようになる中で春日大社の存在も重視されることになり、奈良の寺社の中では例外的に「平安時代にもっとも繁栄した」神社となっているわけなのです。春日大社は天皇の使いである「勅使」が訪れて祭事を行うなど国家的にも重要なお寺として地位を高め、当時の日本を代表する神社へと成長することになりました。

神社が繁栄すればするほど、「創建神話」というものの存在感・重要性も同時に高まっていきますので、「神鹿」としての信仰は、春日大社が発展した平安時代に強化され、次第に奈良の人々に浸透することになりました。平安時代前半の841年(承和8年)には、神鹿が降り立った春日山一帯の伐採・狩猟などが禁じられるようになるなど、具体的な「自然保護」の枠組みも登場します。「鹿の保護」についての平安時代以前の史料は乏しいのが実情ですが、このような時期から既に「神鹿」を保護するようになっていたと考えることができるでしょう。

平安貴族も愛でた「鹿」

鹿が神様の使いとして知られるようになった平安時代、春日大社を実質的に司る藤原一族をはじめ、多数の貴族は「春日詣で」を一種のステータスとして参拝を行うようになります。

当時の日記などには、春日大社にお参りする際に「鹿」を見て「幸運の兆し」を感じたであるとか、「有り難く思い頭を下げた」であるといったような記述も残されており、神様の使いとして鹿を特別な存在としていたことが分かります。

もっとも、この時点では「神鹿」はまだ中世以降の「厳罰主義」につながるような雰囲気はあまり感じられません。貴族の記述などからも「吉兆」や「感謝」を意味するようなポジティブな意味であったと考えられ、まだある程度は奈良時代を受け継いだ「のどかな」雰囲気が広がっていたことが分かります。

神仏習合の浸透

神の使いとして知られるようになった「奈良の鹿」ですが、平安時代後半以降は、次第にその扱われ方に変化の兆しが出てきます。中世以降は「厳格な保護=鹿を死なせると死罪」といった極端な保護政策が実施されることになりますが、そのような環境に変化するきっかけとなったものは、春日大社と「興福寺」の関係性の強化というものでした。

平安時代の奈良では藤原氏の氏神様である春日大社のみならず、「興福寺」も藤原氏の氏寺として深い信仰を集めており、興福寺もお寺としては例外的に平安時代に繁栄したという歴史を持っていました。

当初は神様と仏さまへの信仰は別々のものでしたので、奈良時代から平安時代の前半までは、2つの寺社はそこまで強い関係性は持っていませんでしたが、当時の日本では、次第に「神さま=仏さまの化身」という「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)=神仏習合思想」が浸透していくことになり、その中で優位に立っている仏さまの側(興福寺)が春日大社に強い影響力を持つようになる中でお互いの関係性は強まっていくことになったのです。

興福寺の権威を守っていくためには、深い信仰を集めている春日大社を保護する、そしてその象徴の一つである「鹿」を守っていくことは非常に重要なテーマとならざるを得ません。春日大社というよりは、以降は「興福寺」が先頭に立つ形でとりわけ中世以降、「厳格な鹿の保護」を進めていくことになりました。

なお、神仏習合の時代に入ると、本来は絵画で表現されない神様の世界が「春日曼荼羅」として表現されるようになりました。春日曼荼羅の中でも特に有名なものは「鹿曼荼羅」と呼ばれる「神鹿(白鹿)」を描いたものであり、現在も神話の世界を美しく描いた貴重な作品が多数残されています。

まとめ

以上、平安時代から中世に入る頃までの「鹿」の歴史をまとめてきました。具体的な「鹿」の保護の話と言うよりは、「鹿」を保護する存在である「春日大社」と「興福寺」の勢力・パワーバランスの話になってしまいましたが、ざっくりまとめ直すと以下のような形となります。

・春日大社が平安時代に繁栄するに従い「神鹿=神の使い」としての神話が一般化するようになりました。

・平安時代の中頃などには貴族が「春日詣で」をする中で、鹿は「幸運の兆し」として扱われたり、神鹿として「感謝=崇敬」の対象となったりしました。

・平安後期になると、神仏習合思想の浸透により「興福寺」の存在感が強まることになり、以降の「鹿」の保護政策に影響を与えていくことになりました。

次の記事では、興福寺が支配する奈良のまちで鹿が「厳重に保護」されるようになる中世以降の歴史について解説していきます。