奈良の鹿の歴史(奈良時代):鹿はいつからいるの?万葉集にも詠まれた「鹿」

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この記事では、「奈良の鹿」の歴史について、そのルーツ・由来をさかのぼることが出来る最も古い時代である「奈良時代」の歴史を解説していきます。

平安時代、中世にかけて次第に絶対的な存在に位置づけられていく奈良の「神鹿」ですが、奈良時代にはそこまでの取り扱いはどうやらなされていなかったようです。

鹿は「万葉歌」において比較的「のどかな世界」として描かれており、神の使いとしての崇敬を著しく受けているような様子はまだ見受けられません。

奈良の鹿のルーツは「神話」

奈良の鹿は、一般的にも広く知られているように「神鹿=神の使い」としての歴史を長らく歩んできた存在です。

なぜ「神の使い」として扱われるようになったのか。それは、奈良で最も有名な観光地の一つである「春日大社」の「創建神話」と深く関わります。

春日大社は、まず710年(和銅3年)に武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様が御蓋山(春日山)の山頂に降臨されたという時点を創建神話のはじまりとしていますが、武甕槌命は元々奈良にいた神様ではなく、はるか東の「鹿島神宮」の神様でいらっしゃいました。神話では、そのような遠方から武甕槌命様が春日野の地に遷られる際に、「白鹿」に乗ってやってきたとされており、これが「奈良の鹿」を巡るルーツであるとされています。

神の使いとしてやってきた白鹿がこの春日野の地で子孫を産み、それが「奈良の鹿」になった。この神話が現在に至るまでの後世に語り継がれる「鹿のルーツ」であり、また中世以降には住民にとって非常に厳しい保護政策が図られるようになる根拠となったものなのです。

本当のところは?

さて、以上のように「神の使い」とされている鹿ですが、科学的な根拠を求める方であれば、「そんなはずはない」と反論したくなる人もいらっしゃるかとは思います。

しかしながら、奈良の鹿に関しては、少なくとも1300年程度という余りにも昔から存在する以上、歴史的な記録は残されていないのが実情です。すなわち、春日大社の神話・伝承として「神鹿」のエピソードがあるというのが唯一の「鹿」のルーツを巡るエピソードなのであり、奈良では一般的に「神の使い」として認知されてきた歴史、そして現在も共生しつつもそのように丁寧に扱われているという事実がある。それ以上でもそれ以下でもないのです。

なお、研究としては遺伝的な面からは、1000年以上前に祖先集団から分岐し、独自の遺伝子型を有するようになったとされており、「神鹿」としての保護の歴史を裏付けるような状況となっています(参考:奈良のシカ、1000年以上前に祖先から分岐 独自の遺伝子型保持は手厚い保護の証,Science Portal)。

奈良公園一帯は、春日大社の創建前から「飛火野」などの芝生が広がる空間は元々あったことから、野生の鹿にとってかなり生息しやすい環境であったことや、当時の日本ではどこにでも野生の鹿が多数存在したことなどは想定されますが、「鹿」そのものが春日大社の創建期にやってきた存在なのか、それとも野生の鹿が春日大社の発展とともに神話上の存在となったのかなどは、皆さまのご想像にお任せします。としか言いようがありません。

万葉集に詠われる「鹿」の風景

さて、「神鹿」としての「神話」が成立したのは奈良時代のことですが、その神話が住民や奈良全体の信仰・生活にまで広く影響を与えるようになったのは必ずしも奈良時代ではありません。別の記事で詳しく解説していきますが、神話に基づき鹿が崇敬の対象になっていくのは、むしろ平安時代のことでした。

では、奈良時代における「鹿」と「人」の関わりはどのようなものであったのか。その手がかりを探すヒントは『万葉集』にあります。『万葉集』は太安万侶らの手により編纂された日本に現存するものとしては最古の和歌集ですが、この『万葉集』の中には、明らかに現在の奈良公園周辺に生息する「鹿」が詠まれたものが複数存在します。主なものとしては、

春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし(佐伯赤麻呂・405)

をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高圓の野ぞ(大伴家持・4297)

高圓の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ壮鹿出で立つらむか(大伴家持・4319)

のような歌が残されています。春日野というのはいわゆる「飛火野」周辺のことであり、「高圓」というのは飛火野からは少し離れた現在の「高円山」の地名にあたるものですが、「野」として表現されているため、こちらも見方によっては高円山麓とも言える飛火野周辺のことを詠んでいたとも考えられます。

いずれにせよ、これらの和歌から現在の奈良公園周辺に、既に奈良時代には「鹿」が「ふつうにいた」ことは確実であることがお分かりいただけるかと思います。

また、和歌の内容としては、「春日野に」の和歌は鹿を題材に女性と会えない悲しみを詠みこんでいるほか、「をみなへし」の和歌は鹿が鳴く秋の風景を、「高圓の」の和歌は雄鹿と雌鹿の関係性を詠みこんでいます。いずれもやや物悲しい雰囲気の歌ですが、「神鹿」として絶対的な存在になる後世の「鹿」のイメージと比較すると、まだまだ牧歌的な存在として鹿が取り扱われていることもわかるかと思います。

まとめ

これまで、奈良時代の「奈良の鹿」について「神話」の存在や『万葉集』上の鹿などをテーマに解説してきました。

奈良時代の「鹿」に関する直接的な資料はほぼありませんので、鹿の生態やルーツなどは具体的はわかりませんが、ざっくりまとめ直すと、

・「奈良の鹿」の一般的なルーツ、由来(歴史・文化上)は春日大社の創建神話で登場する「白鹿」である

・『万葉集』に登場する「鹿」からもわかるように、奈良時代の「奈良の鹿」はまだ自然のままで、どちらかと言えば牧歌的な存在であったと考えられる

といったことを説明してまいりました。次の記事では、「神話」が具体的な「人と鹿」の関わりに影響を与えるようになる平安時代の「鹿」を巡る歴史を解説していきます。