【東大寺大仏殿】「奈良の大仏さん」がいらっしゃる世界最大級の木造建築

東大寺大仏殿 観光スポット・みどころ

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観光のご案内

東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、東大寺境内の中央部に圧倒的な規模で建つ巨大な木造建築であり、正式名称は「東大寺金堂」とも呼ばれています。

内部には様々なメディアなどでも取り上げられる名実ともに「奈良の象徴」であり、「奈良の大仏さん」として親しまれる廬舎那仏坐像などが安置されています。

大仏殿は奈良で最も有名かつ最も多くの観光客が訪れる観光スポットとして知られる存在となっており、日本人であれば「知らない人はいない」ほどの知名度を誇る存在ともなっています。

歴史

国家の一大プロジェクトとしての「大仏造立」

東大寺の「大仏」及び大仏殿の歴史的ルーツは、奈良時代に聖武天皇が「大仏」造立への願いを有するようになった天平12年2月(740年)にさかのぼります。

河内国(現大阪府柏原市)の「知識寺」で盧舎那仏像をご覧になった聖武天皇は、その造立を願われたとされています。

しかしながら、まずは廬舎那仏という仏さまの存在や「華厳経」の教理についての研究が先であるとお考えになり、東大寺初代別当を務めた良弁らを中心に多数の学僧に研究を行わせます。

そして、その研究を終えた天平15年(743年)10月15日に正式な「大仏造顕の詔」を示してありとあらゆる存在が共に栄えていくための象徴的存在として大仏を造立することを決定し、その後は一大国家プロジェクトとして大仏及び大仏殿の建造が進められていくことになります。

当初は現在の滋賀県内に造られる予定でした

なお、発願にあたっては、この時期に平城京(奈良の都)から一時的に「恭仁京」や「紫香楽野宮」などに転々と遷都を繰り返していたこともあり、当初は「紫香楽宮」にあった「甲賀寺」に大仏をつくる計画であったとされています。

現在の東大寺にあたる場所は総国分寺「大和金光明寺」として重要な位置づけが与えられていましたが、必ずしも当初より現在の場所に造る計画ではありませんでした。

短い期間に都を転々とする中で、天平17年(745年)には結局平城京、奈良の地で大仏の造立が開始されることになり、大仏の鋳造は天平19年(747年)から2年間ほどをかけて行われたとされています。

庶民の苦労あっての「大仏」さまです

なお、造立にあたっては奈良時代を代表する僧侶「行基」菩薩が広く一般の庶民も含めた協力・労働力の提供を求めて各地を回り、延べ数十万人とも言われる人々が動員された上で作業が行われたとされています。

鋳造作業などは当時の技術においては相当な困難があったと考えられており、溶剤として用いられた水銀による中毒などの「公害」が起こったとも言われています。

様々な苦労の上、「大仏」さまは、天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)には「大仏開眼供養会」を迎えることになり、退位後の聖武太上天皇・光明皇太后などの臨席のもと、インドから渡来した僧侶である菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼の導師を務める形でお披露目が行われました。

ちなみに、この時点では大仏さま本体についても完全な完成状態ではなかったとされているほか、まだ「大仏殿」は完成していませんでした。

すなわちお披露目の時点では「野ざらし」の大仏様であり、かつ製作途中であったと考えられており、いわゆる「大仏殿」についてはその初代の建築が天平宝字2年(758年)の完成を待つことになりました。

大仏殿は2度再建されています

完成した大仏さまと大仏殿は、その後は東大寺、また奈良の象徴的存在として現在に至るまでその歴史を積み重ねていくことになりますが、実際には「受難の歴史」という側面も大きいものでした。

2度の大きな受難のうち、古いものとしては平安時代末期の治承4年(1180年)に奈良を襲った平重衡(たいらのしげひら)らによる「南都焼討」が挙げられますが、この際には大仏殿が焼け落ちるのみならず大仏様も融け落ちてしまいました。

しかしその後は重源上人と呼ばれる僧侶が財政支援を各所から引き出したり、中国由来の建築技術を効果的に取り入れるなど活躍したことで文治元年(1185年)に大仏様が復興して開眼供養が、また大仏殿も建久元年(1190年)に完成するなど、この時は迅速な復興によって東大寺の面目は保たれることになりました。

一方で、室町時代(戦国時代)の永禄10年(1567年)にはその名も「東大寺大仏殿の戦い」という戦火で再び大仏殿は壊滅的な被害を受けることになります。

この戦いは戦国武将として知られる松永久秀(まつながひさひで)と、対立する三好三人衆、筒井順慶(つついじゅんけい)らの戦いとして行われたものであり、まさにこの東大寺が主たる戦場となってしまったため、南都焼討に匹敵するダメージを再び受けてしまうことになったのです。

しかし、この時は大仏さまが完全に融け落ちることはなかったため、一時期大仏殿も「仮堂」で復旧するものの基本的には「大仏殿なき後」に1世紀ほどに渡り大仏さまのみが放置されるという時代を招いてしまい、東大寺の衰退を印象付ける結果となってしまいました。

そのような中でも江戸時代に入ると公慶上人と呼ばれる僧侶の活躍により復興が図られることになり、鎌倉期の大仏殿などと比較するとやや小ぶりなものとはいえ、宝永5年(1708年)には現在も使用されている大仏殿の建築が再建されることになり、再び「奈良の象徴」がよみがえることになりました。

その後は明治期の廃仏毀釈で大仏が被害をうけるようなこともなく、近代以降は観光寺院としての知名度も上がり、明治期には近代の技術も活用した修理が、また昭和48年(1973年)には数十億円規模の費用をかけて昭和の大修理が行われるなど保存するための取り組みが行われつつ、大勢の観光客を受け入れる一大観光地としてますます「繁栄」の時代を迎えています。


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規模・大きさ

「大仏さま」の規模

東大寺の大仏さまは、その正式名称を「銅造盧舎那仏坐像」と言いますが、その像の高さは高さ約14.98メートル・基壇の周囲は約70メートルという圧倒的な規模を誇ります。

このほか詳細なデータとしては、顔の幅は3.20m、お座りになる「蓮華座」の高さが約3.05m耳の長さが2.54メートル目の長さは1.02メートル口の長さは1.33メートル、鼻の高さが0.5m、鼻の幅は0.98m、肉髻から顎まで(お顔の部分)の長さは5.33メートル、指の長さ(中指)は1.08メートル、掌の大きさは2.56メートル、お座りになっている膝の部分の厚みは2.23メートル、両膝の間の幅は12.08メートルなどとなっています。

また重さは250トンとも言われ、近現代になってから資産家などによって造立された多数の巨大な「大仏」のような像と比べると小さいかもしれませんが、奈良時代からこの規模の像があったという意味では想像を絶するスケールと言っても過言ではありません。

なお、現在ご覧いただける大仏さまは平安末期の南都焼討で融け落ちているため、台座・右脇腹・垂れ下がっている「袖」の部分・大腿部など一部を除いては鎌倉・室町時代及び江戸時代に補われたものとなっています。

「大仏殿」の規模

大仏殿については、正面の東西の幅は57.5メートル、南北の奥行きは50.5メートル、棟までの高さは49.1メートルとなっており、かつては世界最大の木造建築物として有名でしたが、現代の建築技術の発展によりこれ以上のスケールの木造建築も生まれたため、現在は日本最大、世界最大の伝統工法による「木造軸組建築」と言える存在となっています。

なお、近年までは奈良県で最も高い建物にもなっていました。

2度焼失している大仏殿は、高さと南北の幅は奈良時代から現在までそれほど変化は見られませんが、昔の大仏殿は東西の幅が86メートルもあったため、現在よりも規模はかなり大きく、かつ横長に見える建築であったと推定されています。

建築様式

現在の東大寺大仏殿の建築様式は、基本的に鎌倉時代に流行した「大仏様(だいぶつよう)」と呼ばれる建築様式の影響が強いものとなっています。

大仏様の建築様式は、平安末期の焼き討ち後迅速に復興を成し遂げた重源上人が中国(宋)の建築技術を活用する形で導入し、かつては「天竺様(てんじくよう)」とも呼ばれてきたものであり、東大寺では南大門」が大仏様の「典型例」として知られています。

大仏殿については鎌倉時代のものが焼け落ちて江戸時代に再度復興されているため、純粋な「大仏様」の建築とは言い切れず、影響が強いと言える程度ではありますが、「貫」と呼ばれる柱の列に対して横に通す形で強度を強める構造材などが多用されていたり、巨大な軒を支える「斗栱」が前へと突き出るような「挿肘木」の形式になっている姿などは大仏様の影響を感じさせるものとなっています。

なお、大仏殿の斗栱は6つの階層に及ぶ「六手先」と呼ばれる巨大なものであり、東大寺南大門とこの大仏殿でしか見られないものとなっています。

ちなみに、内部は柱・梁・貫が幾重にも重なり合い壮大な風景を生み出していますが、個々の柱を見ると1本の木ではなく複数の木材を合わせて造られた「集成材」が用いられており、奈良時代や鎌倉時代にはあった豊富な木材資源が枯渇してしまったという自然環境を巡る日本の歴史を反映した形となっています。

また、屋根を支える巨大な「虹梁」と呼ばれる23メートルもの木材については日向国(現在の宮崎県)から貴重な大木を延べ10万人の力によって運搬して来たものとなっていますが、明治期の修理の際にはずれが確認されたため、以降は巨大な鉄骨トラスによって補強がなされているなど近代以降の技術の力も借りながら巨大建築が保存され続けています。


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東大寺大仏殿のみどころ・仏像のご紹介

中門・回廊

「中門」享保元年(1716年)頃の建立と推定される建築であり、東大寺大仏殿の正面、大仏殿を取り囲む「回廊」沿いに位置し、大仏殿にお参りするために通る正式な参入門として長らく用いられてきた存在となっています。

現在は基本的に西側にある拝観口から立ち入ることになりますが、ごく一部の日程でこの中門が開放され、南大門から大仏殿まで真っすぐ進む形でお参りして頂けるようになっています。

大仏殿の周囲には中門一帯から大仏殿の手前の広場を取り囲むように立派な回廊が伸びており、東大寺では珍しく柱の「朱色」が目立つ風景が広がっています。

金銅八角燈籠・音声菩薩

大仏殿の拝観口を抜け、大仏殿に向かう広々とした参道(広場)の途中にあるのが高さ4.6メートルものスケールを有する「国宝金銅八角燈籠」

観光客の多くは素通りしていってしまう存在ではありますが、美麗な音声菩薩のレリーフが描かれている燈籠は、その基本構造としては奈良時代の創建当初から残され続けている大変貴重な存在として国宝に指定されています。

大仏殿の外観

大仏殿の外観は、拝観口付近や中門周辺などからその全体像をしっかりとご覧いただけるようになっています。大仏殿に近寄り過ぎると、細かい建築様式をご覧いただくことはできますが、全体の姿はむしろそのスケールが大きすぎる余り見えにくくなりますので、大仏殿全体を写真におさめる場合は少し離れた場所から撮影するのがおすすめとなっています。

鴟尾・唐破風・観相窓

東大寺大仏殿の鴟尾・唐破風

大仏殿の建築上目立つ存在としては、頂上部に設けられた金色の「鴟尾(しび)」と中央部にある「唐破風」と呼ばれる曲線状の屋根が挙げられます。

このうち高さ3メートルにも及ぶ金色の鴟尾については、現在のものは唐招提寺金堂のものを参考に明治期に造られたものとなっており、必ずしも創建当初から全く同様のものがあったという訳ではありません。

また、近世になってから様々な建築物で多用された「唐破風」の意匠についても、創建当初及び鎌倉時代の再建時の大仏殿にはなかったものであり、江戸時代に再建された大仏殿独自のデザインとなっています。

なお、唐破風のすぐ下部には「観相窓」と呼ばれる窓があり、開いている時は大仏殿の外側から大仏さまのお顔をご覧いただけるようになっています。なお、開かれる日程はごく一部の日程(時間帯)のみなどとなっており、滅多にご覧いただけない風景となっています。

斗栱(六手先)

東大寺大仏殿の斗栱(六手先)

大仏殿に用いられている建築技法で圧巻の存在として挙げられるのは、軒(屋根の突き出した部分)を支える形で設けられる「斗栱(ときょう)」の構造

「挿肘木」と呼ばれる鎌倉時代の「大仏様」建築様式に則った部材を使用している大仏殿の斗栱は、「六手先」と呼ばれる6段階に渡って前方に部材が広がる形となっています。

下部から上部に進むに従って、部材の長さが逆三角形を作るような形で広がっていくその風景は、「斗栱」について全く知らない場合でも凄さを感じて頂けるものであり、国内でもこの東大寺でしか見られないダイナミックな建築の世界を味わって頂けるようになっています。

内部構造

大仏殿の内部構造

大仏殿内部は薄暗くなっており、全体像をくまなく見ることは大変ではありますが、上を見上げると重厚な縦方向の「柱」・水平方向の「梁」・「貫」が半ば縦横無尽に張り巡らされているような実にダイナミックな風景が広がっており、かつての世界最大の木造建築という凄まじい規模の建物を支えるための技術水準の高さが理解できます。

また、先述したように「柱」は多くが一本の木材ではなく金具などで繋ぎ止めた「集成材」となっており、江戸時代の資源を巡る状況が伺えるようになっています。

なお、大仏殿は外観からは「2階建て」のような形状に見えますが、内部を見ると、外観からは2階部分に見える場所も吹き抜けになっており、東大寺南大門と同様に内部は単層の建築となっていることがわかります。

東大寺盧舎那仏坐像(大仏さま)

東大寺廬舎那仏(奈良の大仏さま)

大仏殿に入ってすぐの位置にいらっしゃる高さ約15メートル・基壇の周囲は70メートルに及ぶの廬舎那仏像(奈良の大仏さま)。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝にも指定されている像は、天下国家の安定、またあらゆる存在が共に生きていくことに対する願いなどを込めて聖武天皇により造立されたものですが、現在の像は台座や右わき腹・袖の部分や大腿部などには奈良時代の創建当初のものを一部に残しているほかは、鎌倉・室町時代の補修時のものが多く、頭部については江戸時代に補われたものになっています。

現在金色が残されているのは光背部分のみであり、大仏さまは黒く光る姿が印象的な像となっていますが、奈良時代の造立時などには大仏さまも金色であったと考えられており、現在とはまた違う豪華絢爛な佇まいであったことが推定されます。

なお、光背には「化仏」の姿も見える大仏さまですが、大仏さまの螺髪(髪)にしても、化仏にしてもその他の奈良の仏像とは比較することが出来ないようなスケールを持っており、像全体に留まらず個々のパーツ一つをとってみてもひたすら「規模」に驚かされ続ける存在となっています。

虚空蔵菩薩坐像・如意輪観音坐像

虚空蔵菩薩坐像(大仏殿)
如意輪観音坐像(大仏殿)

大仏さまの両脇には、虚空蔵菩薩坐像如意輪観音坐像がそれぞれ安置されています。

このうち虚空蔵菩薩坐像は江戸時代の宝暦2年(1752年)頃の造立、如意輪観音坐像は元文3年(1738年)頃といずれも江戸時代の大仏殿復興後の作であり、像高はいずれも7メートルほどと、大仏さまを除いて考えれば奈良ではかなり大きな仏さまとなっています。

金色が目立つ美麗な仏さまは、異なる仏様であるにも関わらず左右対称に近いほど似通った印象も感じさせるものであり、大仏さまの迫力に「均整の美」によって華を添える存在にもなっています。

広目天立像・多聞天立像

広目天立像(大仏殿)

多聞天立像(大仏殿)

堂内北側には、北西端と北東端にそれぞれ19世紀に入る頃に完成したと考えられる広目天立像と多聞天立像が安置されています。

これらの像はいわゆる「四天王」像の一員として造立されることが一般的となっており、東大寺大仏殿においても当初は四天王像として造立される計画があったようですが、完全な像として造立されたのはこの二天像のみであり、「増長天」と「持国天」については現在その「頭部」のみが多聞天立像のすぐそば(堂内北東端)にひっそりと安置されています。

像高は約5メートルとやはり迫力あるスケールとなっている像は、コミカルな姿を見せる「邪鬼」の姿や細かい武具の装飾なども興味深い存在となっており、ぜひ見ておきたい存在になっています。

その他堂内

堂内北側には、かつての大仏殿周辺を再現した模型なども設置されています。

同じく堂内北側には江戸時代の再建時に使用された柱で、明治期の修理の際に交換されたものも展示されています。

四天王像のうち頭部のみが残されている持国天像・増長天像は多聞天立像のすぐそばにひっそりと安置されています。

このほか「鬼瓦」や「鴟尾」についてもひっそりと展示されています。

また、堂内北東側には大仏殿の「柱」に設けられた縦37センチ・横30センチの小さな穴をくぐることが出来るスペースがあり、くぐることが出来れば無病息災のご利益があるとして、近年は長蛇の列が出来ることがあるほどの人気スポットとなっています。

賓頭盧尊者像

賓頭盧尊者像(大仏殿)

大仏殿の建物の外側、入り口のすぐ東よりの場所には賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃ)が安置されています。

東大寺では指図堂の外側にも安置されている「びんずるさん」ですが、像を「なでた部分」の病気が治るというご利益があるとされ、大仏殿のびんずるさんには外国人観光客も含め、像をなでて祈りを捧げる人々の姿が常に見られます。

次項では、拝観に関する情報を解説していきます。

拝観情報

◇拝観時間

4~10月:7時30分~17時30分 11月~3月:8時~17時

◇拝観料

一般(中学生以上)600円・小学生300円

東大寺ミュージアムとのセット券:一般(中学生以上)1000円・小学生400円

※団体・障害者割引などあり

ごく一部のみ無料拝観できる日程があります。詳細は東大寺様の発信する公式的な情報をご確認ください。


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次項では、交通アクセスについてご案内致します。

アクセス(電車・バス)

近鉄・JR線各駅からのアクセス

奈良交通バス

・JR、近鉄奈良駅から「市内循環外回り」・「中循環外回り(近鉄奈良駅からのみ)」・「高畑町」・「山村町」・「藤原台」・「鹿野園町」・「奈良佐保短期大学」行き乗車、「東大寺大仏殿・春日大社前」バス停下車、北に徒歩7分

※バス停を下車後北側の交差点を渡り、大勢の観光客が行き交う参道沿いをひたすら北に進んで頂くと大仏殿前に到着します。なお、大仏殿の拝観受付は突き当りの「中門」前ではなく、脇に進んで頂いた場所に設けられています。

・JR、近鉄奈良駅から「春日大社本殿」行き乗車、「東大寺大仏殿」バス停下車、北に徒歩7分

近鉄奈良駅から北東に徒歩約20分

JR奈良駅から東に徒歩約35分


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周辺のみどころ・観光スポット

鏡池は中門前すぐ(厳島神社は鏡池の中央に浮かぶ)・五百立神社から北に徒歩すぐ・東大寺戒壇堂から東に徒歩3分・東大寺南大門から北に徒歩4分・東大寺ミュージアムから北に徒歩4分・東大寺本坊から北に徒歩4分・東大寺三月堂(法華堂)から西に徒歩7分・東大寺二月堂から西に徒歩8分・奈良国立博物館から北に徒歩8分

大仏殿周辺地図