観光のご案内
概要
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良市街地西部、近鉄大和西大寺駅から北西に1キロ少々離れた住宅街やかつての農村集落が混在するエリアにある寺院です。
お寺の周囲には別の観光スポットは見られず、奈良市の郊外に単独でひっそりと佇む「隠れ寺」のようなお寺として知られています。
お寺は奈良時代からの歴史と「伎芸天」をはじめとする優美な仏像の存在で知られる存在となっており、境内の美麗な本堂や苔むした金堂跡一帯の風景なども東大寺などの大寺院とはまた異なる静寂さを感じさせるものであり、「ファン」の多いお寺となっています。
また、皇室「秋篠宮家」の宮号はこの秋篠寺のある「秋篠」の地に由来するものとなっており、宮家創設時などには一時的に秋篠寺に観光客が大挙して訪れるようなこともあったお寺となっています。
秋篠寺の歴史
奈良時代の終わりごろに創建されたとされる「秋篠寺」。しかしのその創建の詳細な時期や由緒については必ずしも明らかになってはいません。
寺伝では、宝亀7年(776年)に大安寺の笹酒まつりのルーツとしても有名な光仁天皇の勅願により善珠大徳と呼ばれる僧侶が創建したとされています。
創建前の当地は秋篠朝臣と呼ばれる貴族の領地であったと考えられているため、秋篠氏の氏寺があり、そのお寺が光仁天皇の勅願寺に変化した可能性も指摘されるなど、「創建」を巡る由緒は謎の多い存在となっています。
奈良時代後半の創建後は奈良のその他のお寺よりも遅く、平安時代に入る頃に金堂や東西両塔などを有する立派な伽藍を完成させることになり、桓武天皇が崩御された後には五七忌が秋篠寺で開かれるなど天皇家との関係性も持ちながら一定の規模のお寺として機能し続け、お寺の所領をめぐって少し離れた場所にある西大寺と争いになることもあったとされています。
しかしながら、平安時代の終わりも近い保延元年(1135年)に戦火に見舞われた秋篠寺は金堂・東西両塔なども含めて伽藍内の建築のほとんどを失うことになり、鎌倉時代になってから現在の本堂などが復興されることになりました。
その後も江戸時代にかけて創建期ほどの規模はなくとも一定のスケールを有するお寺として長らく歴史を刻み続けましたが、明治に入ると廃仏毀釈のうねりに抗うことが出来ず、本堂一帯を除く寺域の大半が失われるなど受難の時代を迎えます。
その後は大規模な再建などは行われることなく、苔むした空間、森のような境内に本堂が浮かび上がるような独特の寺院として次第に観光客を集めるようになったほか、戦後すぐの時期にはいずれの宗派にも属さない単立寺院としての歴史を歩み始め現在に至っています(それまでは創建期の法相宗、平安以降の真言宗、明治以降の浄土宗と宗派を変えてきた歴史を有しています)。
主な仏像について
伎芸天立像
芸能などに関わる天女として信仰を集めて来た「伎芸天」。
日本では唯一現存するその像である伎芸天立像は、頭部は奈良時代、胴体などは鎌倉時代のものとなっており、後補部分の方が多くなっていますが、継ぎ足した痕跡など確認できないほどに調和した美しさを感じさせる存在となっています。
また、慈悲深いお方がそばにいるような圧倒的な「リアリティ」を併せ持っているため、伎芸天の魅力に引き込まれる人は後を絶たず、秋篠寺はおろか、日本国内でも有数の仏像として知名度の高い存在となっています。
薬師如来坐像
本尊である鎌倉期の薬師如来坐像は伎芸天ほどの知名度を持つ存在とは言えませんが、彩色などが基本的に用いられていないことから、素朴な美しさを感じさせる像となっています。
一方でその表情は少しくせのある雰囲気を持っており、厳めしさからは貞観彫刻の影響も感じられるようになっています。
大元帥明王像
毎年6月6日のみ本堂南西側の「大元堂」で特別公開される大元帥明王像は、6本の腕を持つ筋骨隆々とした身体に蛇がからみつき、激しい怒りの表情を見せるという迫力に満ちた仏像であり、鎌倉時代に造立されたものと考えられています。
その他の仏像
本堂にはこの他にも多数の仏像が安置されています。
このうち本尊薬師如来の周囲には温和な表情を見せる日光菩薩・月光菩薩立像、またコミカルな表情を見せる小ぶりな十二神将像、透き通った美しさを見せる地蔵菩薩立像や伎芸天と同じく後補部分が多い帝釈天立像、また不動明王像が安置されています。
また、堂内の東側の厨子には赤々とした愛染明王坐像、西側には畏怖を感じさせるほどの迫力を有する五大力菩薩像が安置されており、「伎芸天」の優美な魅力とはまた異なる個性的な仏像の姿を味わえるようになっています。
秋篠寺のみどころ・風景
本堂
鎌倉時代に前身となる建築を改修する形で事実上新たに建立された本堂の建築。
奈良時代の建築様式に比較的忠実な質素な佇まいはむしろスマートな美しさを感じさせる存在となっています。
本堂は正面ではなく左手からお入り頂けるようになっており、内部には伎芸天、本尊薬師如来など多数の仏像が安置されています。
大元堂
大元堂は、6月6日のみ公開の大元帥明王像を安置する空間となっており、本堂の質素さとはうって変わり、唐破風や透かし彫りなどの装飾性の強い意匠が用いられた建築となっています。
香水閣
香水閣は、秋篠寺の東門を入ってすぐの位置にある小さな建物であり、内部には「香水井」と呼ばれる井戸があり、この井戸で汲み上げられる水はかつて宮中で真言宗が行って来た儀式で用いられてきた「霊水」となっています。
東塔跡
奈良時代に創建され、その後失われることになった東西塔のうち「東塔跡」は現在も境内南東端に残されており、複数の礎石をご覧いただけるようになっています。
金堂跡
本堂の南側一帯はかつての「金堂」があったとされる場所ですが、現在は苔むした地面が実に美しい森林、苔庭となっており、京都のお寺のような風情を感じることが出来るようになっています。
鐘楼
鐘楼は、本堂の東側にひっそりと建っています。
建造年代は不詳となっており、重文指定などは受けていませんが、シンプルかつ重厚感あふれる外観が特徴となっています。
南門
秋篠寺の本来の山門として機能して来た「南門」はバスでアクセスする際に利用する「東門」とは比較的離れた位置にあり、田んぼや鎮守神「八所御霊神社」に隣接するのどかな雰囲気が漂う空間となっています。
東門
現在参拝者の多くが利用する「東門」はこじんまりとした雰囲気で、お寺というよりはお屋敷内の庭園の中に入るような雰囲気が漂う空間となっています。
十三社
東門、香水閣の近くにある「十三社」は、その名の通り十三もの小さなお社がずらりと並んでおり、少し神秘的な空気が漂う空間となっています。
開山堂・霊堂
拝観は基本的に行われてない本堂西側の開山堂では、開祖である善珠僧正の図像が祀られています。
開山堂のさらに西側の高台には「霊堂」と呼ばれる小さなお堂も設置されています。
八所御霊神社
八所御霊神社は、南門のすぐそばに境内を広げる神社で、秋篠寺の鎮守神としての役割を果たして来た歴史を持っています。なお、本殿の建物は見えづらい位置にありますが、春日大社末社の三十八所神社の本殿を移築したものとも推定されています。

役行者石像
本堂の北西側には、気づかれにくい存在ではありますが、室町時代の天文15年(1546年)と、江戸時代に造られた2基の「役行者石像」が祀られています。
このうち向かって右側の室町時代の像には、下部に前鬼・後鬼と呼ばれる小さな鬼の像も描かれています。
歌碑
境内には複数の歌碑が設けられており、お寺の雰囲気や伎芸天に魅了された文化人の思いが伝わる存在となっています。
會津八一歌碑 「秋篠のみ寺をいでてかへりみる 生駒がたけに日はおちむとす」
吉野秀雄歌碑 「贅肉(あまりじし)なき肉置(ししおき)の婀娜(たをやか)に み面もみ腰もただうつつなし」
川田順歌碑 「諸々のみ佛の中の伎芸天 何のえにしぞわれを見たまふ」
その他
本堂の北東側すぐの位置には、簡素かつ小さなお社も設けられています。
役行者石像の西側には、うっそうとした樹林の中にあるため確認しづらい状況とはなっていますが、巨大な「十三重石塔」と、「萬霊供養塔」も設けられています。
次項では、拝観に関する情報を解説していきます。
拝観情報(秋篠寺)
◇拝観時間
・9時30分~16時30分
◇拝観料
・高校生以上500円・中学生以下200円・小学生100円(※小中学生の拝観には成人の方の同伴が必要です)
※団体・身障者割引あり
次項では、交通アクセスについてご案内致します。
アクセス(電車・バス)
近鉄・JR線各駅からのアクセス
・近鉄大和西大寺駅から「押熊」行き乗車、「秋篠寺」下車(運賃190円)、西に徒歩4分
近鉄大和西大寺駅から北西に徒歩17分
近鉄平城駅から西に徒歩12分
※駐車場は境内北東側にありますが、普通車の駐車可能台数は多くはありません。
※秋篠寺へのアクセスルートは「路線バス」が非常に狭い道を通ることで有名なルートとなっており、一部対向困難な箇所が複数ありますので、お車でのアクセスはそれほどおすすめできません。
周辺のみどころ・観光スポット
八所御霊神社から北にすぐ・十五所神社から北に徒歩9分・野神神社から北に徒歩12分・西大寺から北に徒歩17分・神功皇后陵から西に徒歩17分