生駒山を背景にそびえたつ中登美団地

【年表形式】奈良市の歴史をざっくりまとめてみた~昭和時代~【近鉄王国の完成】

「観光都市」としての成長以上に大阪のベットタウンとしての凄まじい発展が進んだ昭和の奈良

奈良時代から江戸時代、明治大正までこれまでの記事でまとめてきた「奈良市の歴史」ですが、ここでは大きくまちが発展した昭和時代の歴史について年表形式でまとめていきたいと思います。

目次

奈良市の昭和をざっくりとまとめると

・戦時中はとりわけ市内北部を中心に一部で散発的な空襲がありましたが、京都のまちと同様市内全体が戦争の直接的被害を受けるようなことはありませんでした。

・戦後は平城宮跡が国費で買収されるなど歴史資源・文化財の保存活用も進み、現在の「観光都市」としての発展の基礎を築きました。

・一方、「都市」としては「観光」以上に「大阪のベッドタウン」としての発展が凄まじく、市内西部はほぼ全て里山から住宅街へと変化し、近鉄電車・奈良交通バスを利用して1日10万人以上の人が大阪に通勤通学するという典型的な「郊外」のまちを生み出しました。

年表

1928年(昭和3年) 春日奥山周遊自動車道路が完成

・遊歩道として既に整備されていた道路を格上げする形で、昭和初期には現在の「春日奥山ドライブウェイ」が既に営業を開始することになりました。

1928年(昭和3年) 「奈良電気鉄道」の本線として現近鉄京都線大和西大寺~京都駅間が開通

・現在は奈良と京都を結ぶのは「近鉄」ですが、実は昭和38年までは「奈良電気鉄道」と呼ばれる独立した会社があり、その「本線」として運営されていました。なお、奈良電鉄時代から近鉄奈良駅まで直通運転していたほか、かつては京阪電車との直通運転も行っていました。

1934年(昭和9年) JR奈良駅旧駅舎(現奈良市総合観光案内所)が建設

・この駅舎は長らく奈良の玄関口として活用されることになり、和洋折衷の独特の駅舎は2003年に高架化工事が開始されるまで使用され続けました。

1944年(昭和19年) 奈良連隊(歩兵第38連隊)、グアム島における戦いで将兵以下ほぼ全員が戦死(横井庄一氏ら一部の残存兵はその後もジャングルで戦闘を継続)

・現在の奈良教育大学付近に設けられた「奈良連隊」は、南方戦線に派遣され激戦を繰り広げた後、グアム島において事実上壊滅状態に陥りました。

1945年(昭和20年) 6月頃から市内北部法蓮町・法華寺町周辺を中心に空襲を受ける

・国内では極めて「被害が少ない」まちの一つであった奈良のまちですが、他都市の空襲の行き帰りに落とされたとも言われる爆弾が佐保小学校近辺などに被害を与え、犠牲者も発生しました。

1946年(昭和21年) 正倉院展が開始

・戦前も文化財の展示企画などは散発的に実施されてきましたが、現在まで続く「正倉院展」と同様の展覧会は、この年から奈良国立博物館において開始されることになりました。

1951年(昭和26年) 昭和天皇が奈良県ご訪問の際に県知事公舎において「サンフランシスコ講和条約」及び「日米安全保障条約」の批准書に署名

・この署名に関しては、歴史ある「奈良」というまちが署名する場所として選ばれた訳ではなく、陛下の全国巡幸の一環で奈良に立ち寄られた際に偶然署名を行うタイミングか重なったものとなっています。

1952年(昭和27年) 平城宮跡が特別史跡に指定

棚田嘉十郎氏の活躍の後、一部が史跡となったものの、しばらくは荒れ地のまま事実上放置されてきた平城宮跡ですが、戦後社会が安定していく中で保存への機運も高まりはじめます。

1957年(昭和32年) 合併に伴い都祁・月ヶ瀬村域を除く現在の奈良市のエリアが確定

・この頃にはまだ人口は10万人程度であり、観光に強い「田舎町」といったのどかな風情が広がるまちでした。

1958年(昭和33年) 東大寺大仏が国宝に指定

・この頃から様々な文化財等への保全の機運も高まり、様々な対象が国宝に指定されたり天然記念物へ指定されることになりました。

1960年(昭和35年)頃~ 学園前駅周辺を中心に郊外住宅地の開発が本格化・公団団地も多数建設・鉄道やバスの利用者が激増

・高度経済成長の到来は、奈良を一地方都市から大阪のベッドタウンへと大きく変貌させることになり、マツタケのよくとれる丘陵地帯であった「学園前」エリア周辺などが瞬く間に市街化され、若草山から望む奈良の風景は「森と田んぼ」が広がる風景から、生駒山に向かって「住宅」がびっしりと立ち並ぶ風景へと大きく変わることになりました。

1961年(昭和36年) 奈良ドリームランドが開園

・かなり「怪しい経緯」のもと、「ディズニーランド」を模倣して造られることになった奈良ドリームランド。その実態はディズニーランドとは程遠い「いかにも日本らしい遊園地」でしたが、奈良市民も含め、レジャー施設としてはそれなりに楽しめる空間として人気を集めることになりました。

1963年(昭和38年) 平城宮跡を国費で買い上げることが決定

・国費買収により、国が責任を持って宮跡エリアを保存していく方針がはっきりしたという事実は、田畑に利用されたり荒れ地が広がっていた「平城宮跡」エリアを保存していくにあたって「大転換」となる出来事となりました。

1965年(昭和40年) 現「奈良県庁舎」建設

・当時は明治や大正に建てられた古い町家ばかりが広がっていた「奈良町」一帯において、近代建築の巨匠であるコルビュジェに倣ったコンクリート建築が立てられたことは大いに物議を醸しましたが、次第に周囲の景観が失われていくにつれ、むしろ県庁舎のほうが奈良公園周辺の風情に似合う建築になって行く形となりました。

1965年(昭和40年) オメガカーブ区間も含め「名阪国道」が開通

・現在では考えられないようなスピード工事により、わずか2年半で建設が完了した「名阪国道」。道路事情がまだ悪かった当時の奈良にとっては東京・名古屋方面と物流が直結するというメリットは計り知れないものであったと考えられます。

1969年(昭和44年) 近鉄奈良駅地下化に伴い油阪駅の廃止・新大宮駅の新設が行われる

・長らく「路面電車」のような形で近鉄奈良駅付近を走っていた近鉄電車ですが、この年に現在と同じような路線に変更されることになり、国鉄線を跨ぐ位置にあった「油阪駅」が廃止されることで、その後近くにあった「船橋商店街」は衰退傾向になっていきました。

1976年(昭和51年) 薬師寺金堂が再建

・戦後の薬師寺の「名物管長」としてその剛腕ぶり、ユニークな人柄で知られる「高田好胤(たかだこういん)」管長は、全国の百貨店などで写経を行うという小口の勧進100万人以上から集め、その資金で檀家を持たない薬師寺の再建事業を行っていく事になり、管長就任から10年余りで金堂の再建を達成するという大成功をおさめました。

1977年(昭和52年) 奈良市庁舎が奈良町エリアから現在地に移転

・長らく猿沢池の南側にあった奈良市役所は、戦後すぐに火災で焼け落ちるもすぐに再建されるなど「奈良町」エリアの歴史をしっかりと背負い続けてきましたが、この年に新大宮駅の東側の新しい市街地に移転することになりました。

1979年(昭和54年) 田原エリアの茶畑の中から「太安万侶墓」が発見される

・田原エリアの山腹に広がる茶畑の一角で農家の方が発見した「太安万侶墓」遺骨も含めて残されるような保存状態のよさは「世紀の大発見」ともてはやされ、奈良の山奥に大勢の考古学関係者が訪れる事態になりました。

1980年(昭和55年) 東大寺大仏殿「昭和の大修理」落慶法要が実施

・明治から大正にかけても大規模な修理が実施された東大寺大仏殿は、その際に後回しにされた「屋根」の部分の老朽化が著しくなったため屋根を中心に大規模な修理が実施されることになり、10万枚以上の瓦が葺き替えられることになりました。

1981年(昭和56年) 奈良市の人口が30万人を突破、バブル期にかけて郊外団地・住宅地建設がピークに達する

・かつては10万人にも満たなかった奈良市の人口は、「観光都市」の役割以上に「大阪のベッドタウン」としての発展が進んだためあっという間に30万人を越えることになり、かつてはおいしそうなマツタケがたくさん生えていた市内西部の丘陵地帯はそのほとんどが住宅街に変貌しました。近鉄電車の利用者数もうなぎ登りになり、奈良はさながら「近鉄王国」と言えるまちになっていきました。

1988年(昭和63年) なら・シルクロード博覧会開催

・日本経済が最も好調な時期と重なる形で実施された「なら・シルクロード博覧会」。大勢の企業がパビリオンを出すなど賑わいを見せた博覧会は、700万人近くの方が訪れました。