【年表形式】奈良市の歴史をざっくりまとめてみた~明治・大正時代~【大阪府奈良町】

県庁所在地の地位から一時陥落するも、「観光都市」として発展していった近代の「奈良」

この記事では、江戸時代などに引き続き、明治から大正時代にかけての奈良市エリアの歴史を簡単にまとめていきたいと思います。

目次

明治~大正時代の奈良をわかりやすく言うと

・明治維新後、神仏分離や廃仏毀釈のうねりにより多くの寺院が大打撃を受け、神社も世襲廃止など大きな転換を迫られますが、明治中頃にはお寺の復興も本格化していきます。

・奈良県が一旦設置された後、10年余りの期間「堺県」・「大阪府」の一部となってしまうことで「県庁所在地」でなくなった奈良は、県庁が復活するまでの期間、衰退傾向に陥ります。

・一方では奈良公園の整備や「奈良博覧会」の開催など、「観光都市」としての発展は着実に進み、鉄道網の整備や奈良ホテルの建設によりいよいよ都市の風格を漂わせるようになっていきます。

年表

1868年(慶応4年・明治元年) 興福寺の僧侶、一乗院・大乗院門跡関係者等が一斉に春日大社の「神官」に転籍

僧侶から神官への「転職」は一定の所領を持っていた興福寺が幕末から明治初頭にかけて一瞬にして壊滅状態となる上での象徴的な出来事として挙げられますが、これに伴い従来の世襲の神職が「追い出される」ような事態も発生しました。

1868年(慶応4年・明治元年) 大和鎮台設置。まもなく「奈良県」に改編

・旧奈良奉行所管内などを管理するために鎮台が設置されますが、この後すぐに「奈良県」と改称し、更にすぐさま「奈良府」になり、その後またすぐに「奈良県」に戻るという目まぐるしい名称の変化が見られました

1871年(明治4年) 上知令により寺社の領地が没収

「領地」という「財政基盤」の没収は、廃仏毀釈による直接的打撃を余り受けなかった唐招提寺などの寺院も影響を受け、財政面で困窮するという苦難の時代を送ることになります。

1872年(明治5年) 官幣大社制度など「国家神道」の枠組みが整備され、従来の春日大社の神職らが一世解雇

・これに伴い「高畑町」界隈に存在した世襲神職らの邸宅が立ち並ぶ「社家町」がゴーストタウンになり、荒廃することになりました。

1872年(明治5年)  「眉間寺」が廃寺に

・現在の聖武天皇陵付近には、かつて奈良のまちを一望できるような巨大寺院「眉間寺」がありましたが、廃仏毀釈の流れの中で廃寺となり、現在は一切その痕跡が残されないような状況になるなど、この時期における寺院の受難を象徴する出来事となりました。

1872年(明治5年) 「興福寺」というお寺の枠組みそのものが失われ、一時的に事実上廃寺に

・僧侶が消えた興福寺は、寺号も剥奪され存在しないも同然の状況に追い込まれましたが、明治8年からは西大寺の管理を受け、寺号の復活等へゆっくりとした復興への歩みを進んでいきました。

1875年(明治8年) 「奈良博覧会」が初の開催

・奈良県内の寺社などが所蔵する様々な文化財を展示するという「観光」目的の画期的な「奈良博覧会」は十数万人の入場者でにぎわうなど、奈良が観光都市、文化財のまちとして以降発展を遂げていく上で重要な起点となるイベントでした。

1876年(明治9年) 奈良県が「堺県」に編入

・県庁は「堺市」にある以上奈良は単なる一地方都市に過ぎない存在となってしまい、「県庁所在地」を失った影響は大きく、奈良町エリアは衰退傾向となり、多くの町家が取り壊されることになりました。

1880年(明治13年) 政府の認可により「奈良公園」が成立

・政府が近代的な公園整備を各地方に呼びかける中で、奈良町の人々の熱意により「奈良公園」の枠組みが正式に設定され、奈良県復活後などには公園内の整備や区域の拡大が行われていく事になりました。

1881年(明治14年) 堺県が大阪府に編入され、現在のならまちエリア周辺は「大阪府添上郡奈良町」となる

・堺県もまた「大阪府」に編入されてしまったことにより、奈良町はついに大阪府の一部になってしまい、現在からは考えられないような地名が生まれることになってしまいました。

1881年(明治14年) 「興福寺」という寺号が復活

・廃仏毀釈、神仏分離の貫徹が緩み始め、文化財保護のうねりも生まれる中で、興福寺も復活へ向けた第一歩として、ひとまず「興福寺」と名乗ることがようやく許される運びとなりました。

1887年(明治20年) 奈良県が復活

・10年以上の時を経て、ようやく「県庁所在地」に返り咲いた奈良は、少しずつ発展への道筋を歩んでいく事になります。

1889年(明治22年) 新生「奈良町」が発足

・4月1日に「町村制」が施行されたことで、元より存在した中心街の添上郡「奈良町」に周辺農村エリアの奈良坂村・般若寺村・川上村・雑司村・水門村・春日野村・紀寺村・高畑村・京終村・肘塚村・木辻村・城戸村・油坂村・杉ヶ村・三条村・芝辻村・畠中村を合併した存在として新生「奈良町」が誕生しました。

1890年(明治23年) 大阪鉄道「奈良駅」(現在のJR奈良駅)開業

・奈良市はじめての鉄道路線は、現在の近鉄線ではなく、現在のJR線でした。当時はまだ「大阪鉄道」という民間会社による営業であり、国有化はしばらく後のことになりました。

1895年(明治28年) 奈良帝國博物館(現在の奈良国立博物館)開設

・奈良博覧会などの実施も功を奏する形で、国家事業として国立博物館が設置されることになり、現在も使用されている重厚な「近代建築」の建物が奈良公園内に建設されました。なお、当初は現在ほどの寺社関連の所蔵品は有しておらず、次第に寄託されるものが増えていったということです。

1898年(明治31年) 添上郡奈良町が市制施行して奈良市となる。

・「奈良町」はこの年の2月1日に市制を行い「奈良市」になりましたが、当初は3万人程度の人口であり、その後周辺自治体を合併して次第に大きな街に成長していくことになりました。

1898年(明治31年) 大仏鉄道開業

・「幻の鉄道」と呼ばれる大仏鉄道は現在の「鴻ノ池」付近、ドリームランド跡地東側、「黒髪山」界隈を通りそのまま京都府内の「加茂駅」に抜ける路線であり、現在の主要な乗換地点である「木津駅」は通過しない存在でした。

 

1900年(明治33年) 春日奥山周遊道路完成

・現在も未舗装かつ一方通行のドライブウェイとして知られる「奈良奥山ドライブウェイ」ですが、その元になる道路の完成はかなり早く、この時期には「遊歩道」として観光客に大いに活用されました。

1907年(明治40年) 大仏鉄道廃止

・奈良駅と加茂駅を直接結ぶ短絡ルートであった大仏鉄道線ですが、急勾配なども災いし、「木津駅」を経由するルートが完成したこともあり開業から10年も経たないうちに廃線となってしまいました。

1908年(明治41年) 奈良少年刑務所開設

・「監獄ホテル」として活用されることになり一躍注目を浴びた旧奈良少年刑務所の建物ですが、その建築は明治時代に遡ります。当時は「奈良監獄」として政府の威信をかけた建築として重要な位置づけを与えられていました。

1908年(明治41年)  奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)開校

・奈良女子高等師範学校は、当時東京にしかなかった女子高等師範学校を奈良に新設したものであり、当時から現在に至るまで全国有数の高等教育機関として独自の地位を築き上げてきました。

1908年(明治41年)  奈良連隊が設置

・大日本帝国の軍事拡張の一環として設置された奈良連隊は、現在の奈良教育大学周辺に駐屯していました。

1909年(明治42年) 奈良ホテル開業

外国人観光客の宿泊施設整備を目的とした100年以上前の「インバウンド対策」として、鉄道院(後の国鉄)が中心となり巨費を投じて高級ホテルとして建設された奈良ホテル。当初は株式会社による運営が試みられましたが、すぐに事実上の国営ホテルに移行し、現在でも国鉄から引き継いだJR西日本グループが敷地等を所有しています。

1914年(大正3年) 大軌奈良駅(現在の近鉄奈良駅)開業

・とりわけ昭和以降の「奈良」を語る際にはまず第一に挙げられるような存在である「近鉄」の前身である「大軌(大阪電気軌道)」は、この年大阪上本町と奈良を結ぶ現在の「近鉄奈良線」を完成させ、奈良駅の設置にあたっては紆余曲折を経て現在の高天町・東向商店街にも近いエリアに設置されることになりました。

1915年(大正4年) 大仏殿の大修理が完成、落慶供養実施

・廃仏毀釈の時期をなんとか乗り越えた「東大寺」は、明治の早い時期から大規模な修繕を計画していましたがなかなか実現されず、修理の完成は大正期にずれこむ形となりました。この際巨大なイギリス製の鉄骨が大仏殿に組み込まれることになり、この鉄骨は現在に至るまで大仏殿の建物を支え続けています。

1916年(大正5年) 浮見堂が完成

・奈良公園の整備の一環として現在ではおなじみの「浮見堂」も大正5年に建設されます。なお、明治の終わりから現在も浮かんでいる「ボート」は既に営業されていたようです。

1922年(大正11年) 平城宮跡「第二次大極殿跡」「朝堂院跡」が史跡に指定

棚田嘉十郎と呼ばれる人物が平城宮跡の保全に尽力したことで知られる平城宮跡ですが、この時期になりようやく史跡として国に認められることになり、保存整備の多くは戦後に持ち越されることになりますが、「荒れ地」から「歴史遺跡」へのひとつの転換点となりました。

1925年(大正14年) 志賀直哉が高畑の地に移住(高畑サロンの形成)

昭和13年までの約10年少々の期間を奈良で過ごしたことで知られる文豪志賀直哉は、現在も「志賀直哉旧居」として保存されている高畑の数寄屋造りに近代風建築も加味した大正ロマンあふれる邸宅に居住し、小林秀雄や亀井勝一郎、入江泰吉といった文化人もしばしば訪れ文学論、芸術論などを語ることになったため「高畑サロン」とも呼ばれることになりました。