【年表形式】奈良市の歴史をざっくりまとめてみた~江戸時代~【奈良町の発展】

にぎやかな町として発展した「奈良町」は現在の町並みの基盤を形作る

この記事では、その他の時代をまとめてきたものと同様に、現在の奈良市エリアの歴史のうち「江戸時代」の部分についてなるべく簡単にわかりやすくまとめていきます。

「江戸時代の奈良」をわかりやすく言うと

・江戸時代の奈良は、「奈良町」と呼ばれる(現在のならまち・きたまちエリア全体とほぼ一致)エリアを中心に発展し、人口は3万5000人ほどに達するなど、比較的大きな町として成長を遂げました。

・とりわけ筆・墨・蚊帳といった現在も残る伝統産業、また晒・布団・刀・酒・醤油・饅頭製造などたくさんの商工業が発達し、「仏教のまち」という側面のみならず、場合によっては現在以上ににぎやかな「商工業都市」として栄えることにもなりました。

・「奈良町」は「藩」に属するエリアではなく、幕府により直接統治され、「奈良奉行」が設置され、租税が免除される特権も受けるなど、国内でも重要な都市の一つとして幕府からも重視されるようなまちでした。

・お寺に関しては、次第に衰退傾向となる寺院が多かったものの、東大寺や西大寺、唐招提寺などでは一部は幕府の援助も受けつつ再建・復興が進められました。

年表

1613年 徳川幕府により「奈良奉行」が創設(初代奉行中坊秀政)

・奉行所は現在の奈良女子大学付近、現在の「きたまち」エリアに設置されました。奉行所跡近くに現在も残る江戸時代の町家からは、2階から奉行所内部が見えないように窓が設置されていないなど、かつての面影が残されています。

1634年 奈良町の地子銭(土地にかけられる税のこと)免除

・幕府による主要都市への支配力を強め、かつ都市の経済を優遇する策として、大坂・堺という巨大都市と同時期に「奈良町」においても税の免除が行われることになりました。これは、江戸幕府から奈良と言うまちが重要視される存在であったことを示しています。

1636年 柳生藩の成立。柳生宗矩が大名に

・将軍家に剣術を授ける重要な存在として広く知られる「柳生家」は、現在の奈良市東部の「柳生エリア」を支配した一族であり、江戸時代には小規模ながら「柳生藩」として独立した地位を築きあげます。有名な「柳生宗矩(やぎゅうむねのり)」は、若い頃には柳生家の所領が取り上げられ浪人のような存在になる憂き目に逢いますが、徳川家により柳生藩の設立が認められると単なる「剣士」が「大名」になるという「大出世」を成し遂げることになりました。

1664年 奈良代官所設置

奈良代官所は、奈良奉行所とはまた異なる施設として奉行所と同じく「きたまち」エリアの現在の「西笹鉾町」周辺(現在は天理教施設など)に設置されました。ちなみに「奈良代官所」は1795年には現在の五條市に移転することになりました。

1667年 東大寺二月堂消失(2年後に再建)

・東大寺大仏殿と並ぶ観光スポットとして知られる東大寺二月堂ですが、平安・室町時代の戦乱などでその他の建築物がほぼ壊滅する中で創建時のものが長らく残されて来ましたが、1667年の修二会の期間中に失火を起こす形で焼失してしまいました。しかし東大寺のアイデンティティに関わる重要な施設ということもあり、幕府の支援も受けすみやかに再建が行われ、2年後には再建が完了しました。

1672年 鹿の角切りが開始

「神の使い」として長らく絶対的な存在であり続けた「奈良の鹿」ですが、奈良町の拡大といった都市化などにより問題が増えて来たのか、危険防止のために「角を切る」作業が開始されることになります。なお、この時期には「鹿せんべい」が既に販売されるような状況であり、「観光化」が多少なりとも進んでいたことが伺えます。

1692年 東大寺大仏開眼供養

・室町時代などの戦乱で数多くの建築物が焼け落ち、大仏様も一部溶けてしまう上100年以上野ざらしにされるという悲惨な状況に追い込まれた東大寺ですが、「公慶上人」と呼ばれるお坊さんが先頭に立って勧進を集める中で復興が進められ、まずは大仏様を美しい状態に復旧して開眼供養が行われることになりました。

1709年 大仏殿再建・落慶供養

・大仏様が復興した後もしばらく野ざらしである状況に変わりはありませんでしたが、ついに大仏殿の整備も行われることになり、規模はかつてのものと比較するとやや小さなものになりましたが、現在に至るまで使用されている大仏殿の建物が1709年に再建されることになりました。

1717年 興福寺で大火災

・鎌倉時代に中興の時代を迎え、その後はやや衰退の傾向を強めていた興福寺ですが、1717年に発生した火災では境内のほとんどの施設が完全に焼け落ちる大災害となってしまい、その後はか細い復興事業しか進められず、往時の規模を取り戻すことはありませんでした。

1846年 川路聖謨(かわじとしあきら)」奈良奉行となる

・高齢の奈良市民を中心に現在でも敬愛される名奉行「川路聖謨」は江戸末期の奈良を支える奉行として5年間在任し、「佐保川の桜並木」を生み出したり地域経済の活性化、貧民の救済など、先進的とも言える政策を次々に繰り出しました。その後奈良奉行を退いた川路は開国交渉など幕末期の幕府を支える難しい役割を果たし続けました。

1859年 元興寺五重塔等が焼失

・奈良時代には超巨大寺院とも言える圧倒的規模を誇った元興寺は、中世・近世と「奈良町」の規模が拡大するにつれ、境内地が住宅・商業地に飲み込まれていくような歴史を辿っていましたが、1859年には奈良時代から残されてきた大変貴重な五重塔なども火災で焼け落ちてしまうことになり、衰退に追い打ちがかかりました。