【年表形式】奈良市の歴史をざっくりまとめてみた~平安・鎌倉・室町時代~【藤原氏・戦乱】

都が京都に移っても、それなりの存在感を保ち続けた「奈良」のまち

この記事では、奈良時代に引き続き平安時代から鎌倉、室町時代にかけての奈良市エリアの歴史をなるべく簡単にまとめていきます。

平安~室町期の奈良をわかりやすく言うと

・平城京から平安京に都が移転したことで、興福寺など一部の寺院を除いて、とりわけ「元興寺」や「大安寺」などの奈良時代の巨大寺院は衰退傾向となっていきました。

・藤原氏の氏寺として栄え、「南都北嶺」として軍事力も有する興福寺や、一定の権威を保ち続けた東大寺などは、勢力を比較的維持しました。また鎌倉期には南都の仏教ではなく、鎌倉仏教文化の拠点として西大寺などが再興することになりました。また春日大社は興福寺と神仏習合に基づく独自の関係を築き上げました。

・乱世が続いたため、戦災によって町全体が壊滅的被害を受けることもありました。とりわけ興福寺・東大寺の受けた被害は甚大なものでした。

・「奈良町」エリアが本格的な発展を遂げるのは江戸時代のことですが、既にとりわけ中世以降は「商工業都市」としての片鱗を見せるような形で町が次第に発展していくことになりました。

年表

813年 興福寺南円堂建立

・藤原氏の「氏寺」として栄えることになる興福寺は、藤原氏が絶大な権力を持つ事になる平安時代にむしろ発展することになり、現在(4度目の再建)も興福寺の中でひときわ目立つ「南円堂」の建物も平安期に入ってから初めて建立されることになりました。

974年 春日大社境内で興福寺僧侶による読経開始(神仏習合の発端)

藤原氏の「氏神」である春日大社と「氏寺」である興福寺はその「藤原氏」を仲立ちとする形で次第に相互の結びつきを深めていく事になり、仏教と神道の捉え方に変化が見られるようになる時代状況もあいまって、神社の境内で読経が行われるという神仏習合形式の慣習が生まれることになります。

1135年 春日若宮創建・翌年よりおん祭開始

・「読経」のみならず一層結びつきを深めた春日大社と興福寺は、興福寺側の働きかけにより春日大社境内地に「春日若宮」を建設することになり、まもなく現在まで続く「春日若宮おん祭り」が開始され、興福寺の権威を示す格好の場として機能するようにもなります。

1180年 平重衡「南都焼討」

・当時の平氏政権に極めて敵対的な態度を取る奈良の寺院の勢力を抑えることを目的として、平清盛の意を受けた平重衡らの大軍が奈良を総攻撃し、火の海になった奈良では数千人とも言われる大勢の住民が死亡した他、東大寺・興福寺のほとんどのお堂が焼け落ちる壊滅的被害を受けました。

1185年 東大寺大仏開眼供養

・南都焼討で壊滅的被害を受けた奈良のまちですが、その後平清盛が「南都焼討の呪い」とも噂されるほどに焼討後早くに死去し、平氏勢力もまもなく滅亡の流れへと傾く中で、後白河法皇などの支援を受け迅速な復興が進められ、まずは大仏様の開眼供養が行われることになりました。

1194年 興福寺金堂再建落慶供養

・すばやい復興は東大寺のみならず興福寺でも進められ、1189年には南円堂や諸仏が復興され、94年には金堂なども再建されることになりました。

1195年 東大寺再建落慶供養

・大仏様以外の様々な建築の復興も進んだ東大寺では再建落慶供養が行われました。この際の復興に際しては、後白河法皇亡き後は「源頼朝」らが支援を惜しまなかったとも言われています。

13世紀中盤~後半 「叡尊」上人らの活躍により西大寺・般若寺などが復興

・鎌倉時代には、従来の奈良の仏教とはまた異なる形で、「叡尊」上人と呼ばれるお坊さんが中心に戒律の厳守とともに貧者救済等の「福祉」をも重視した独特の宗教活動を進めました。叡尊上人は西大寺を拠点とし、この時期に荒廃した「西大寺」や「般若寺」の復興が進みました。

1426年 現在の「興福寺五重塔」が建立

・興福寺のシンボル「五重塔」は奈良時代の創建から複数回焼失・倒壊と再建を繰り返してきましたが、この年に再建された五重塔以降は「苦難の歴史」を歩んだ興福寺の中では奇跡的に建物が生き残り続けることになり、現在までその美しい姿を保っています。

1447年 春日社造営費の徴収をめぐり、興福寺衆徒が東大寺へ攻め込む

・元より必ずしも調和のとれた関係とは言い難かった興福寺と東大寺という「二大寺院」ですが、この時期にはこれ以外にも興福寺と東大寺をめぐる「武力衝突」が複数回発生し、衆徒らが勝手にお堂を破壊するといった実力行使に出て被害が発生しました。

1528年 筒井順興の関連する兵火で薬師寺が甚大な被害を受ける

・時代は戦国の世に入り、あまり知られていませんが、薬師寺はその早い時期に有名な大和の戦国大名「筒井順慶」の祖父にあたる「筒井順興」による兵火で金堂・講堂・西塔など主要な建築が焼け落ちるという被害を受けることになりました。

1560年 松永久秀が多聞城を築造

破天荒なエピソードを多く抱え、そもそも個性豊かな戦国武将たちの中でもとりわけユニークな存在として知られる「松永久秀」は現在の奈良市立若草中学校の敷地付近の高台に「多聞山城」を築城します。このお城はその構造など判明していないことも多くなっていますが、キリスト教宣教師「ルイス・フロイス」が絶賛したという逸話が残るように大変美しいお城であったと言われています。

1567年 松永久秀が三好三人衆と合戦(東大寺大仏殿の戦い)・東大寺大仏殿焼失

・戦乱の世の影響は奈良のまちなかにも波及し、三好三人衆・筒井氏らと松永久秀の戦闘である「東大寺大仏殿の戦い」はその名の通り東大寺境内や多聞山城周辺で戦闘が激しく行われ、東大寺の多くの建築が焼け落ち、大仏様そのものも一部溶け落ちてしまうという被害を受け、江戸時代に入っても復興はなかなか進みませんでした。

1585年 豊臣秀長大和・紀伊・和泉の三国を支配

・松永久秀が信長へ謀反を起こし、最終的には壮絶な自害を遂げたとされた後は、奈良の隣町である「大和郡山」の大和郡山城を本拠とする形で豊臣家が大和国から紀伊、和泉国に至る広い範囲を支配することになりました。なお、このころには江戸時代に発展を遂げる「奈良町」の大枠はすでに形成されていたとされています。

1595年 太閤検地実施・奈良町は800石・春日大社、興福寺の寺領は2万1000石と決定

・太閤検地により定められた興福寺などの寺領はその後も引き継がれ、「南都北嶺」の時代には及ばずともある程度の財政力を持ったまま江戸時代に入っていくことになりました。