【年表形式】奈良市の歴史をざっくりまとめてみた~奈良時代~【平城京】

現在の「奈良市」の礎を築いた時代は、やはり「奈良時代」

この記事では、現在の「奈良市」エリアの歴史を年表形式で時代ごとにまとめていく中で、とりわけ重要な時代「奈良時代」をまとめていきます。

目次

概要

・平城京へ遷都されることで、はじめて一定の規模を持った「奈良のまち」が誕生することになりました。

・平城京時代の奈良は決して安定していたとは言えず、途中で一時的な遷都なども経験する歴史を歩みますが、大仏建立や各寺院の整備、仏像の造立など現在に至るまでの貴重な文化財が多数生み出されることになりました。

年表

710年 元明天皇により平城京遷都が行われる・藤原不比等により飛鳥の「厩坂寺」を「興福寺」として平城京内に移転。

・「遷都」の作業は大変なもので、大きなお寺の移転などには時間がかかることもしばしばでした。一方お寺の中でも藤原氏の氏寺として繁栄していくことになる「興福寺」については諸説ありますが、すみやかに「中金堂」の建設などが始められたと伝わっています。

712年 「太安萬侶(おおのやすまろ)」が「古事記」を編纂

・太安万侶はその後723年に亡くなり、奈良市内の田原エリアに立派なお墓が築かれることになりました。

713年  各国の『風土記』編纂を指示

・日本各地の地理、風土について詳細に記した「風土記」は「出雲国」などのものはほぼ当時と同じものが残されていますが、肝心の「大和国風土記」は一部の文章が伝わるのみで、全く残されていない状況となっています。

715年 元正天皇(女帝)即位

・元正天皇は、元明天皇の皇女であり、現在は「黒髪山」周辺に母親の元明天皇と隣り合う形で葬られています。

718年 薬師寺が平城京内に移転・飛鳥の「法興寺」を「元興寺」として平城京内に移転

・当時の「元興寺」興福寺や東大寺と並ぶ規模を持つお寺に成長し、現在のならまちエリア全体を境内におさめました。すなわち、この時期には現在言われるような「ならまち」の町並みの原型はまだ何もなかったことになります。

720年 史書「日本書紀」が完成

・日本書紀の編纂は飛鳥時代から行われており、40年ほど掛かってようやく完成することになりました。

721年 行基により現在の「喜光寺」の元となる「菅原寺」が創建

・「菅原寺」は後に聖武天皇がその本堂で「光」を見る体験をしたことに由来して「喜光寺」という名前を授けられることになります。

724年 聖武天皇即位

・奈良時代で最も有名な天皇と言える「聖武天皇」は749年までの約25年に渡り在位し続け、当時としてはかなり長い間天皇の地位に留まりました。この在位中には藤原氏一族やそれと対立する人々の間で争いがしばしば起こりました。聖武天皇とその皇后「光明皇后」の御陵は現在「きたまち」エリアの北端部にひっそりと位置しています。

728年 東大寺の前身寺院「金鐘寺」創建

聖武天皇の皇子がわずか1歳で亡くなったことを受け、その霊を弔うために「金鐘寺」が創建されます。このお寺には創建時から後に東大寺初代別当になる「良弁」などが僧侶として在籍していました。

729年 長屋王の変

・有力貴族であった長屋王が、謀反の疑いを掛けられ自殺に追い込まれる事件が発生します。長屋王の邸宅は「旧奈良そごう・イトーヨーカ堂奈良店」の場所(宮跡庭園の北側)にあったとされています。

730年 光明皇后が「施薬院」を設置し、興福寺五重塔も建立

「福祉」的事業の創始者としてしばしば言及される聖武天皇の妻「光明皇后」。病人や孤児を救うために設けられたとされる「施薬院」では薬草などが提供されたほか、皇后自ら看病にあたったというエピソードまで残されています。また、「悲田院」と呼ばれる施設も光明皇后が初めて設けたと言われています。

737年 平城京内で天然痘が大流行。「藤原四兄弟」ら有力貴族も含め多数が死亡

現在はほぼ根絶された「天然痘」と呼ばれる病気ですが、かつては何度も猛威を振るい、この時の流行では、一般民衆に留まらず藤原房前・藤原麻呂・藤原武智麻呂・藤原宇合といった藤原不比等の息子たちが全員死亡するという悲劇に見舞われました。

740年 「藤原広嗣の乱」が大宰府で発生・恭仁京に遷都

・遠く九州の地で発生した内乱は鎮圧されますが、その余波なのか平城京から一時的なものに終わりましたが、現在の京都府木津川市に設けられた「恭仁京(くにきょう)」へ遷都が行われます。

741年 各国一つずつ「国分寺」・「国分尼寺」を建立する詔が示される・東大寺の前身寺院が国分寺に昇格

・聖武天皇は仏教で国家を守っていく(国家鎮護)のため、全国各地に各国それぞれ「国分寺」と「国分尼寺」を建立することを命令します。この際東大寺の前身寺院である「金腫寺(金腫山寺)」大和国における国分寺として位置付けられ、「大和金光明寺」と呼ばれることになりました。

742年 紫香楽宮の建設

・恭仁京への遷都からまだ間もない時期に、今度は更に離れた現在の滋賀県甲賀市(信楽エリア)に「紫香楽宮(しがらきのみや)」へ遷都が行われます。いずれにせよこの時期は平城京は一時的に「都」の地位から外れることになりました。

743年 聖武天皇、大仏建立を発願

・まだ都が奈良に戻らない時期に、「紫香楽宮」で聖武天皇は大仏建立を思い立たれ、現地で大仏の鋳造が開始されます。すなわち当初は「奈良の大仏様」ではなく、「信楽の大仏様」になる可能性があったということになります。

744年 難波京に遷都

・紫香楽宮に移ったと思えば、今度は現在の大阪の地「難波宮」に遷都が行われます。目まぐるしい遷都の連続は多くの人々に苦労を与えたことと推測されます。

745年 「行基」が大僧正に就任・難波京から紫香楽京に再遷都し、その後平城京にも再遷都

・この年には、インフラ整備や一般民衆への仏教の布教で大きな役割を果たした「行基」菩薩仏教界で最高位の「大僧正」に初めて指名されることになり、大仏建立の責任者としても活躍することになりました。一方では「遷都」を巡っては、「最後の大混乱」と言わんばかりに1年間で2回も遷都を行い、最終的に5年ぶりに「奈良の都」が復活することになりました。

747年 「東大寺」で大仏鋳造が開始

・「奈良の都」のお寺に返り咲いた東大寺(金光明寺)では本格的に大仏様を鋳造する工事が始められることになり、約5年の期日をかけて大仏様が鋳造されることになりました。大仏様は国家鎮護や平和を祈る仏像として制作されましたが、鋳造過程では多くの水銀が用いられ、かなりの健康被害が発生したという側面もありました。

749年 孝謙天皇即位

・この年25年ほど即位し続けた聖武天皇からその皇女である「孝謙天皇」への譲位が行われます。孝謙天皇は女帝でしたが、当時はそれほど珍しいことではありませんでした。

752年 東大寺大仏開眼供養・修二会(お水取り)開始

・5年ほど掛かって鋳造が「ほぼ完成」した大仏様をお披露目する開眼供養が行われ、退位した聖武太上天皇や孝謙天皇ら要人が多数臨席する中、インドから来た「菩提僊那」が導師を務める形で儀式がとりおこなわれました。ちなみに大仏様が「ほぼ完成」したというのは、裏返せばまだ「仕上げ」は完了していない状況で「開眼供養」が行われたということでもあります。

754年 唐から鑑真和上が来日して戒律を伝える

・日本への渡航を何度も試みてその度に失敗し、失明などの苦行を経た末ようやく日本に辿り付いたことで知られる鑑真和上は、仏教の「戒律制度」を日本で正式に普及させるという重要な任務を果たすため、東大寺戒壇院などで受戒システムを整備していきました。

758年 淳仁天皇即位

・この年孝謙天皇から淳仁天皇への譲位が行われます。淳仁天皇はその後「藤原仲麻呂の乱」が起こる過程で天皇の地位を失い、最終的には追放先の淡路島で亡くなります。

759年 鑑真和上が唐招提寺を創建

・戒律制度の普及に大きな功績を挙げた鑑真和上は、自らの仏教研究、「律宗」の拠点としてかつて貴族の邸宅があった場所に唐招提寺を創建します。お寺の整備は鑑真和上が存命中に完成することはなく、その後弟子たちにより様々なお堂が建設されました。

764年 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)・孝謙上皇が称徳天皇として即位・西大寺創建

・孝謙上皇と対立する「藤原仲麻呂」が起こした政権奪取へ向けた「軍事クーデター」とも言える反乱は上皇側の勝利に終わり、乱に加担した多くの皇族が流刑され、淳仁天皇も淡路島へ追放されることになります。なお、この過程で乱の平定を願った上皇により「四天王像」の造立が行われたことが「西大寺」創建の由来となっています。

768年 藤原氏により春日大社創建

・平城遷都の頃に「御蓋山」にお迎えしたとされる神様のみならず、香取神宮や枚岡神社からも神様をお招きし、藤原氏の「氏神」として「春日大社」が創建されました。

770年 光仁天皇即位

・この年、藤原仲麻呂の乱の後、天皇の地位に復帰していた孝謙上皇(称徳天皇)が崩御されたことにより、かなり高齢の「光仁天皇」が天皇の地位に就くことになりました。光仁天皇の在位中は政情が不安定であり、身内の不幸も相次ぐなど厳しい時代が続きました。なお、有名な歌集である「万葉集」は760年頃からこの光仁天皇の就任のころまでに完成したと言われています。

781年 桓武天皇即位

・光仁天皇は10年余りの治世を経て、781年には桓武天皇に譲位を行い、その後すぐに亡くなります。

784年 平城京から長岡京へ遷都(奈良時代の終わり)

・聖武天皇の時代は国の柱が「寺院」と言ってもよいくらいに仏教との深いつながりを深めましたが、桓武天皇は、強大な力を有する奈良の寺院の影響力を好まず、その影響の薄い地に新たに都を造ることを望み、長岡京への遷都を決めます。長岡京はすぐに平安京へ遷都されることになりますが、いずれにせよ、奈良の地に都が戻されることは二度とありませんでした。遷都されてからは当然一般の民衆の住まいも含め、「都」のあった平城京は荒廃が進んでいくことになります。