【分かりやすく】奈良「西大寺」の創建の由来・歴史をじっくり解説!【叡尊上人】

「鎌倉仏教」の影響も強く受けた「南都七大寺」

奈良の寺社仏閣巡りをする際に、東大寺・興福寺といった「メジャー」なスポットを巡る中で、それなりに知名度はありつつもつい忘れてしまいやすい存在。

それは、主要な観光エリアからは少し離れた位置に境内を広げる「西大寺(さいだいじ)」

電車に乗れば必ず通るといってもよい近鉄「大和西大寺駅」に極めて近い位置にあるお寺は現在でも立派な境内を持っていますが、かつては「南都七大寺」の一つとして、一時期は東大寺に匹敵するような凄まじい規模を誇ったとも言われています。

ここでは、そんな西大寺の創建から現在に至るまでの歴史について、なるべくわかりやすく簡単に、平凡な言葉づかいで説明していきたいと思います。

奈良時代・平安時代の西大寺

現在でも「大茶盛」式といった行事などで一定の知名度を有する西大寺

その創建奈良時代後期にあたる天平宝字8年(764年)9月にさかのぼります。創建のきっかけになった出来事はなんと「反乱」

当時、「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」と呼ばれる政権奪取を目指したクーデター的な反乱が発生し、それを早く収束させたいと考えた当時の「孝謙上皇(反乱平定後は称徳天皇)」が、国家の守護神として「四天王像」を造ろうとしたことが西大寺の直接の創建の由来となっています。この像に関しては、四天王像は現存せず復元されたものとなっていますが、四天王像の脇に添えられた「邪鬼」の像のみが数多くの災害に耐え、唯一の奈良時代由来の文化財としてこの創建時の姿のまま現在も西大寺「四王堂」に安置されています。

その後は、「西大寺」の名前がそのままあらわすように、奈良の都の東には「東大寺」、西には「西大寺」と言われるようなお寺になるように、称徳天皇の手などにより急速にお寺の敷地・施設(伽藍)の整備が進められていく事になります。奈良時代全体でじわじわと整備が進んだ興福寺等と比較すると、西大寺は奈良時代後期のわずか20年程度の期間で整備が行われたことになり。そのスピードがよくわかります。

奈良時代の終わりである宝亀11年(780年)に記された『西大寺資財流記帳』という古文書によると、伽藍全体は48ヘクタールほどの広さを持っていたとされ、現在の境内地が5ヘクタール程度である事と比較すると考えられないほど巨大なお寺であったことが伺えるほか、境内には薬師・如来それぞれの「金堂」、「東西」両塔や四王院、十一面堂院、食堂院、正倉院といった100以上のお堂が立ち並んでいたともされ、「東大寺」に匹敵する規模のお寺であったことがよくわかります。なお、金堂の裏手には唐招提寺のように一般的には「講堂」があるのが通常ですが、西大寺はなぜか「金堂」が2つ並ぶという特殊かつ豪華な配置となっており、西大寺の一時的な「繁栄」の度合いが一層伺える歴史となっています。

しかし、西大寺の繁栄はその他の南都七大寺と比較してもかなり「短命」なものでした。

その余りにも巨大なお寺の規模がかえって悪影響を及ぼしたのかは定かではありませんが、「かつての都」にあるお寺に過ぎない存在に置き換わってしまった平安時代以降は次第に全体に手が回らなくなり、とりわけ平安時代の中頃を過ぎるころからは天災等の影響も受け多くのお堂も失われ、一層荒廃してしまうことになりました。

鎌倉時代(中興期)の西大寺

荒廃著しい状況になってしまった西大寺ですが、鎌倉時代に入ると、「中興の祖」とも言える存在である「叡尊上人」により大規模な「復興事業」が行われていくことになります。

般若寺や喜光寺など、様々なお寺の復興に携わり、とりわけ弱者救済といった「福祉事業」に精を出して多くの民衆を救った存在と知られる叡尊上人ですが、文暦2年(1235年)に西大寺に住まうようになってからは西大寺がその拠点として用いられ、仏教の戒律をきちんと立て直していく「復興」と合わせ、かつての奈良時代の「南都七大寺」とは異なる「鎌倉仏教」の文化が花開く空間として発展していきました。

また、本堂に安置されている釈迦如来立像をはじめ、現在も残される数多くの仏像等の文化財が蓄積されたのもこの「中興の時代」であり、僧侶としては叡尊上人のみならず、一層弱者救済に尽力した「忍性」菩薩を輩出したことでも知られています。

なおこの時期には、現在西大寺境内の近くでひっそりと佇む「石落神社」も創建された他、叡尊死後にはその墓所「奥の院」が設けられることにもなりました。

近世にかけての西大寺

鎌倉時代に復興を成し遂げた西大寺ですが、その後室町時代には文亀2年(1502年)に発生した火災で境内の多くのお堂が失われてしまい、結果として創建期や鎌倉期に建設されたお堂は現在は全く現存していない状況になっています。

多くのお堂が復興されるようになったのは近世、江戸時代に入ってからのことであり、それほど多くはないものの寺領を与えられたこともあり、お堂の建設が少しずつ進められていくことになります。

例えば壮麗な「四王堂」の建物は延宝2年(1674年)に再建されたほか、「愛染堂」の建物は「京都御所」にあった「近衛公政所御殿」を宝暦12年(1762年)に当地に移転する形で設けられたほか、白壁のない独特の江戸時代らしい様式を持つ現在の「本堂」は、19世紀に入る頃、江戸中期の寛政年間に完成したとされています。すなわち、現在の西大寺を観光する際に見ることができるお堂の多くが江戸時代に建立されたものとなっているのです。

その後は明治初期の廃仏毀釈のあおりは「興福寺」のような事例ほどには受けることもなく、江戸時代に建立されたお堂を中心とした境内地を守りながら現在に至り、興福寺や薬師寺のような大規模な復元事業などは行われていないものの、「真言律宗」の総本山として般若寺、海龍王寺といった奈良市周辺の数多くのお寺を束ねる存在としてその存在感を放ち続けています。

まとめ

以上、奈良「西大寺」の歴史を簡単にまとめてきました。

「東大寺」と並ぶ規模の「西大寺」であったという歴史を持つ空間は、現在はその面影はあまりありませんが、その代わりに「鎌倉仏教文化」の名残、そして江戸時代の「近世建築」の雰囲気を存分に感じて頂ける空間になっています。

また、西大寺を語る上で、鎌倉時代の「叡尊上人」の存在を切り離すことはできません。

西大寺を拝観する際には、「奈良時代創建」というお寺の由来以上に、「奥の院」といった空間も含め、「叡尊上人」の存在をキーワードに拝観してみると、興味深い点が数多く見つかるかもしれません。

歴史の流れ、そしてお寺の「変化」。現在に至るまでの「一貫した」歴史は、一方では「柔軟な変化」のもとに成り立っていることを体感させてくれるのが、西大寺の歴史なのかもしれません。