【簡単まとめ】奈良「春日大社」の歴史・創建の由来はどうなってるの?【藤原氏・興福寺】

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一貫して「藤原氏」の氏神としての歴史をたどる奈良市最大の神社「春日大社」

奈良市内の観光スポットの中で、東大寺・興福寺と並んで最も有名な存在。それは「平城宮跡」でも「薬師寺」でもなく、やはり筆頭に挙げられるのは「春日大社(かすがたいしゃ)」

春日大社は、現在は外国人観光客から神社巡りを楽しむ国内の若者グループに至るまで年間を通して数多くのあらゆる観光客でにぎわい、ついこの間には新しい「国宝殿」も完成するなどまさに伏見稲荷大社等と同様「勢いのある」神社となっていますが、

その歴史を一度ひも解くと、やはりそれは「奈良」のこと。1300年程前の奈良時代にまで遡る実に深い歴史を秘める空間となっています。

境内には多くの「藤」の花が咲き誇ることでも知られる春日大社は、その「藤」の名の通り、歴史上でも有名な「藤原氏」一族の「氏神」として藤原氏と大変深い関係にあったことは比較的よく知られていることですが、この記事では、その藤原氏との関わりなどにも焦点を当てつつ、なるべく簡単に、わかりやすく創建から現在に至るまでの春日大社の歴史をご紹介していきたいともいます。


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創建期・奈良時代の春日大社

奈良市最大の神社である春日大社。その創建は現在から1300年ほど前の奈良時代に遡ります。

春日大社の創建神話としては、平城京への遷都が行われた時期に、春日大社の裏山の「神山(神域)」であり現在も厳重に立ち入りが制限されている御蓋山(みかさやま)」の山頂(浮雲峰)に、現在の茨城県にあるこちらも大変有名な神社「鹿島神宮」から「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」と呼ばれる神様をお迎えしたことが最初の「歴史」となっています。

また、その後しばらく経ち、奈良時代後期にあたる神護景雲2年(768年)11月9日には、当時の称徳天皇が出された勅命により「藤原永手」と呼ばれる当時の左大臣が御蓋山の山麓である現在の境内地に社殿を建立したことが現在の春日大社そのものの創建の由来とされています。なお、一般的な見解としては記されていませんが、御蓋山に神様を招いた人物を奈良時代に強大な力を有した貴族である「藤原不比等」とする説もあるようで、いずれにせよ「神」を招き、神社を創建する過程で藤原氏一族(かつての「中臣氏)が大きく関わっていたことは間違いないようです。

社殿を建立する際には、既に御蓋山にお迎えしている武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様のみならず、こちらも現在の茨城県にある「香取神宮」からは経津主命(フツヌシノミコト)という神様、また現在の大阪府東大阪市、生駒山の山麓にある大変古い歴史を持つ「枚岡神社」から天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、比売神(ヒメガミ)という神様も招いてお祀りし、これらを合わせて「春日神」と一般には呼んでいます。(全国にたくさんある「春日神社」はこれらの神様をお祀りする神社です。)


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平安時代の春日大社

奈良時代に創建された春日大社。平城京から平安京に遷都され時代は「平安時代」に代わってからは、奈良は「みやこ」ではなくなってしまい、「南都七大寺」と呼ばれたお寺の中では一部の寺院では顕著な「荒廃」へと向かっていくものもありましたが、平安時代の前半に絶大な権力を誇り奈良時代以上の栄華を極めた藤原一族の氏神である春日大社はむしろ発展を遂げていくことになります。

例えば神社で行われる祭事に国家事業レベルの位置づけが与えられたり、藤原氏一族が春日大社に大掛かりな「参拝」をしたことに触発され、その他の貴族などもそろって「春日詣」をするようになったり、様々な貴重な刀剣や調度品が貴族らから奉納されたりと、藤原氏の勢力に合わせるかのように一層ビッグな存在になっていった春日大社。

そんな流れの中で、一方では藤原氏の「氏寺」であるという関係もあり、興福寺」との関係性も次第に強まっていくのがこの時期でした。

平安時代中頃になると、春日大社境内における興福寺僧侶らによる読経が行われるなど、興福寺の守護神として春日神の存在が位置付けられていく中、また神さまは仏さまの化身であるという「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」、すなわち歴史の授業でも習う「神仏習合思想」が強まる中で、興福寺と春日大社はいつしか一体的な存在となり、また見方によれば強い「互恵関係」を持つことになりました。当然、そのような関係性は「藤原氏」の存在なくしては生まれるはずもありません。

平安時代後期には、現在でも有名な春日大社最大の祭事とも言える「春日若宮おん祭」が関白である「藤原忠通」らが音頭を取って創始されますが、この祭りは、実は春日大社が主体というよりは、むしろ興福寺が働きかける形で開始されたともされており、現在に至るまで春日大社と興福寺の関係性を反映した祭事が途切れることなく継続されています。

なお、この時期には興福寺の僧侶(衆徒)により行われる「強訴」を行う「口実」として春日大社の「御神木」の権威が利用されたといった話も伝わっており、両者の分かちがたい関係性を特徴づけるエピソードとなっています。


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中世~近世の春日大社

さて、平安時代が終わり、鎌倉時代から江戸時代にかけての数百年間は、政治の中心も移り変わり、藤原氏の勢力も衰退していったことなどから、「春日大社」の存在感は平安時代の最盛期ほどには感じられる時代ではありません。

しかし、春日大社は基本的には一貫してこの期間、興福寺との互恵的な関係は維持していくことになり、とりわけ興福寺の勢力が強まる鎌倉時代には、「おん祭」という象徴的行事を軸に、奈良のまち、大和国における春日大社の存在感はむしろ強まったとも言えるほどでした。

その後、興福寺は次第に衰退の傾向を見せ始めますが、江戸時代にも将軍である徳川綱吉の母親である「桂昌院(けいしょういん)」が「桂昌殿」を寄進するなど、徳川家の崇敬も受ける神社として一定の地位を保ち続けることになります。

なお、この時期に奈良市内の多くの寺院が何らかの「戦災」「天災」に遭遇して壊滅的な被害を受けていく中で、春日大社はそのような被害を受けることは一切ありませんでした。(そもそも、春日大社の施設で「火災」が起きた記録は式年遷宮という特殊性があるとは言え、歴史上「1度」しかないという「奇跡」の歴史を持っています。)


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明治以降の春日大社

さて、時代は変わり明治時代になると、とりわけ最初の時期に吹き荒れたのは「廃仏毀釈」の嵐でした。

廃仏毀釈とは、歴史の授業でも習うように、「神仏習合」の習わしから「神社」を独立、分離させるものですが、実際には「日本は神様だけの国」と言わんばかりに、仏教に関係するものすべてが排斥、破壊、歴史から抹消されていくようなケースも多く見られました。

そして、そのあおりをもろに受けることになったのが「興福寺」。「興福寺」と名乗ることすら一時的に禁じられ、全ての僧侶は「春日大社」の神官に強制的に転職させられるような状況となった興福寺は事実上一度「消滅」することになり、ここに春日大社と長らく保たれてきた互恵関係が一旦終焉を迎えることになります。

また、春日大社そのものにも変化が起こり、例えば「神社そのもの」が著しく荒廃するような話は残されていませんが、現在の「高畑町(たかばたけちょう」界隈、「破石町」バス停付近から「滝坂の道」へと続くなだらかな坂道沿いにあった春日大社の「世襲」の「神官」たちが数多く住んでいた「社家町」世襲制度が廃止されることにより住人がいなくなってしまい、町が荒廃するなど、春日大社にとっても順風満帆な時代とはいかなかったようです。

さて、その後は大正・昭和・そして平成の現在にかけて興福寺も観光寺院として再び繁栄していく中で、また、春日大社も全国屈指の規模を持つ神社として繁栄していく中で、現在でも一部では春日大社と興福寺のかつての関係が反映された儀式が行われるようになっています。

但し、明治の廃仏毀釈を機に相互の関係性は大幅に小さくなっているため、観光などで訪れる際に、それぞれの関連性を強く意識するような機会は少ないと言えます。

現在古い時代の神仏習合の文化の名残としてとりわけ大きな存在は、お正月の2日に興福寺の僧侶が春日大社を参拝する「春日社参式」が挙げられます。

まとめ

以上、奈良を代表する神社「春日大社」の歴史をまとめてきました。

最初は「藤原氏」の歴史からはじまり、平安時代以降はいつの間にか「興福寺」の歴史をなぞるような形になっていく春日大社の歴史。

大きな荒廃を経験することなく、現在に至るまでしっかりと守られてきた神社そのものも大変貴重なものであることは言うまでもありませんが、歴史を考える上ではその神社を取り巻く「関係性」に注目すると、また違った歴史の興味深い点が浮き彫りになってきます。

春日大社に参拝する際には、ぜひ「藤原氏」と「興福寺」という存在との関わりを念頭に置きながら、いろいろな歴史に思いを巡らしつつ「参拝」なさってみてはいかがでしょうか。


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