【簡単まとめ】奈良・薬師寺の歴史と創建の由来【南都七大寺】

「朱色」が美しい奈良時代の面影を残す薬師寺。その歴史はどうなってるの?

薬師寺は、奈良公園や東大寺などの主要観光スポットからは離れた「西の京」エリアに位置し、唐招提寺とはほぼ南北に隣り合わせる形で並ぶ大きなお寺です。

観光キャンペーンなどの写真では、「大池」という「水辺」から、美しい薬師寺の塔とそのバックに若草山などが見える写真がしばしば使用される「定番」の風景を生み出している「薬師寺」。

その境内地には奈良時代の建築である非常に貴重な「東塔」をはじめ、奈良時代の雰囲気を強く感じさせる「朱色」の鮮やかな建物が数多く建っています。

近年は大修理や再建整備などかつての規模を取り戻すための復興が進められている薬師寺ですが、創建当時から歩んできた歴史、創建の由来といったものはどのような流れだったのでしょうか。

今回はそんな薬師寺の歴史・由来について、なるべく簡潔にまとめてみました。

薬師寺創建の由来 ~藤原京から~

現在は「奈良市」を代表する寺院として有名な薬師寺ですが、その創建の歴史を辿っていくと天武天皇9年(680年)藤原京(現在の奈良県橿原市)に建立された「薬師寺」に由来します。つまり、薬師寺は奈良時代より前にできたお寺をもとにしているのです。

この藤原京にあった「薬師寺」は、当時の天武天皇が、後に持統天皇となる「皇后さま」の病気が治ることを祈って建立したものとされていますが、実際には薬師寺の建設がはじまってすぐに天武天皇はお亡くなりになってしまい、病気回復を祈られた側である「皇后様=持統天皇」やそれ以降の天皇の代にその建設が推進されていくことになります。

その後文武天皇2年(698年)頃にはほぼお寺は完成し、お坊さんたちが実際に住みはじめることになり、「薬師寺」は本格的なお寺としてしっかりと運営がなされていくことになりました。

奈良時代の薬師寺 ~移転と発展~

さて時代は移り変わり、和銅3年(710年)、元明天皇の時代には藤原京から現在の奈良市内、「平城京」へと遷都が行われます。ここからついに有名な奈良時代が幕を開ける訳ですが、興福寺などと同様に、薬師寺もまた遷都に合わせ藤原京の地から平城京へと移転してくることになりました。

移転は遷都とは少し遅れたタイミングで行われましたが、養老2年(718年)には移転がはじまっていたとされ、その後「奈良」の地で薬師寺は発展へむけて歩み始めることになります。

なお、奈良に移転した後も、藤原京の地にあった「薬師寺」は廃寺となることはなく、平安時代の10世紀頃まではお寺として存続していたとも言われています。(現在は「本薬師寺跡」として史跡となっています。)

奈良の地で動き始めた「薬師寺」。その整備にあたっては、興福寺などと同様「造薬師寺司(ぞうやくしじし)」と呼ばれる建設を推進する役割を果たす「朝廷の出先機関」が設けられ、国家による一大事業として薬師寺の建設は進められていく事になりました。(ちなみに、この奈良の薬師寺は、藤原京の本薬師寺の境内(伽藍)の形を再現する形で整備されたと言われています。)

そして、天平2年(730年)には有名な「東塔」も完成するなど一定の完成をみた薬師寺は、平城京を代表するお寺としての地位を確かなものにしていきます。薬師寺は「南都七大寺」の一部として朝廷から手厚い保護を受けたほか、大仏建立で有名な「行基菩薩」さんなども、薬師寺の僧侶として仏道を学ばれたとされています。

平安時代の薬師寺

さて、奈良時代が終わってしまい、平城京から平安京に遷都すると、奈良の地にあったその他のお寺と同様に薬師寺も「かつての勢力」をそのまま保持することは難しくなっていきます。

平安時代になってしばらくの間はお寺の建物に大きな変化は見られませんでしたが、例えば天禄4年(973年)に起きてしまった火災では「食堂」と呼ばれる建物から出火して、「講堂」や「南大門」など多数の建物が焼け落ちてしまいました。

しかし、この時は少しづつ復興が進められ、40年後の長和2年(1013年)には南大門が再建されるなど、お寺の風景は元のように回復していくことになりました。

なお、東大寺や興福寺が壊滅的な被害を受けたことで知られる、治承4年(1181年)12月28日に平重衡らにより行われた「南都焼討」では、壊滅的な被害を受けるようなことはありませんでした。

中世~江戸時代の薬師寺

平安時代が終わり、中世から江戸時代にかけて進んでいく中では、薬師寺は次第に衰退傾向を強めていく状況となります。

しかし「元興寺」や「大安寺」「新薬師寺」といったその他の大寺院がかつての規模と比較するとほぼ消滅に近い状況に追い込まれていく中で、「薬師寺」は比較的その規模を守ったお寺とも言えます。

室町時代の正平16年(1361年)には現在で言うところの「南海地震」により薬師寺の建物に被害が出たほか、1445年には暴風で南大門が倒壊するなど、災害などにより時折被害を受けていた薬師寺ですが、享禄元年(1528年)に起きた筒井順興らが関係する兵火では金堂・講堂などといった主要な仏堂が焼け落ちてしまうことになりました。

焼け落ちた建築物は、江戸時代に入ると、「仮金堂」や「仮講堂」といった建築として再建されますが、興福寺の「仮金堂」と同様、かつての規模や華やかさを誇る状況とは言えなくなってしまいました。

しかし、奈良町周辺の寺院のように、衰退を重ねる中でお寺の敷地が大規模に町並みに飲み込まれていくようなことはなく、それが現在も残る確固とした「境内地」につながっています。

明治以降の薬師寺 ~再建の歴史~

さて、明治維新以降の薬師寺は、第二次世界大戦が終わり、戦後しばらくまでは江戸時代と変わらないような建物の配置が続き、やや寂しい状況が続いていました。また、終戦前年の1944年には地震により一部の建築物が倒壊する被害を受けることにもなりました。

しかし、昭和中期頃、高度成長期以降からは薬師寺は急速に再建・復興への道筋を歩み始めます。

薬師寺の「高田好胤」管長はその独特のキャラクターもさることながら、檀家を持たない大寺院として仏教建築の「再建」を行うための手段として、「写経勧進」というユニークなシステムを生み出しました。

講演や展覧会などの場で写経をしてもらう代わりに、1000円ほどの勧進を行ってもらう。

そんな親しみやすい勧進を生み出した好胤管長ですが、結果としては300万人を超える人々から寄付を集めることになり、昭和51年(1976年)には金堂が再建され、昭和56年(1981年)には西塔が再建されるなど、主要な巨大建築が次々に再建されていくことになったのです。

また、平成に入ってからは独特の風情で知られる「玄奘三蔵院伽藍」が復興され、平成15年(2003年)には大講堂も再建され、現在は「食堂」が完成する運びになるなど、復興・再建の歩みは着実に進み続けています。

まとめ

以上、奈良「薬師寺」の歴史について、ごく簡単にまとめてきました。

東大寺ほどの圧倒的規模を持つわけではなく、一方では興福寺のように一度消滅しそうになった訳でもない。どうにかこうにか歴史の苦難を潜り抜けてきた「薬師寺」ですが、

とにかく昭和以降の「再建」のペースがすさまじいもので、この「現代史」の流れが今の薬師寺を語る上では欠かせないものとなっています。

奈良はおろか、日本の寺院のなかでもここまでハイペースに、かつ大胆に「再建」の歴史を築き上げてきたお寺はそう多くありません。

お寺の歴史を辿る上で、もちろん「創建の由来」も大切ですが、「今」をつくりあげる過程に注目する必要性もあるということを教えてくれる存在として、「薬師寺」は今も復興の歩みを辿り続けているのです。